第16話 ひびの入る硝子
第16話。エレノアの様子が、おかしい。クラリスの名を聞くたび、目を逸らす。
彼女が、隠しているもの。それが、いよいよ、輪郭を現します。
クラリスへいつ、どう動くか。その算段を、二人は連日、練っていた。
だが、その卓に思わぬ影が差した。ある朝、王太子ギルバートから、正式な招待状が届いたのだ。大聖堂で開かれる、慈善の大祭。聖女クラリスが一年でいちばん多くの民を癒やす、その晴れ舞台へ、英雄エレノアも来賓として招く、という。
「……罠、ですね」
エレノアの声が硬い。
「私を公の場に引き出し、クラリスの隣に並べる。聖女と英雄が、王家の慈悲をそろって称える。そういう絵を描きたいのでしょう。断れば、王家に弓引く者と見なされます」
「そして、その隣には当然、俺のことも匂わせてくる、か」
アレンは招待状の金の縁を、指でなぞった。上等な羊皮紙に、押しつけがましいほど華美な意匠。ギルバートはじわじわと包囲を狭めている。剣ではなく、体面としがらみで。相手の逃げ場を、丁寧に、ひとつずつ塞いでいくやり口だった。
「厄介なのは、この大祭がクラリスにとっても、最大の狩り場だってことだ」
「と、いいますと」
「一年でいちばん、民が集まる。癒やしを求めて何千人もな。あの女はその場で、大々的に奇跡を起こす。ということは、それだけ多くの名もなき者が糧にされる。祭りの陰で、いくつもの命が静かに枯れるってことだ」
アレンの目が鋭くなった。
「止めるなら、その日しかない。だが、王家の目と数千の信者の、ど真ん中でだ。……無茶にもほどがある」
その日から、エレノアの様子が少しおかしくなった。
いつもならアレンの一挙一動に目を輝かせている女が、ふとした拍子に窓の外へ遠い目を向ける。何か言いかけては、飲みこむ。眠れないのか、朝には目の下にうっすらと隈が浮くようになった。夜半に厨で、一人、水を飲んでいる気配もあった。クラリスの名が出るたび、彼女はわずかに目を伏せ、話を逸らそうとする。アレンが病院の潜入で見たことを語っても、上の空のような相槌を打つだけだった。
「エレノア」
三日目の夜、アレンはとうとう切り出した。
「おまえ、クラリスと何かあるのか」
エレノアの肩が、びくりと跳ねた。
「……いいえ。なぜ、そんなことを」
「隠すのが下手すぎる。あの女の名を聞くたび、おまえは逃げる。……俺がクラリスに近づくのを、止めたがってる。そう見える」
図星だったのだろう。エレノアは答えに詰まった。いつものまっすぐな瞳が、初めてアレンから逃げた。その小さな沈黙が、アレンの胸に冷たい染みを広げた。沈黙は、どんな否定よりも雄弁だった。
こいつは、俺に何かを隠している。それはずっと感じていたことだった。理由はいつか話す、とエレノアは繰り返してきた。アレンは待つと約束した。だが、その「いつか」の秘密が、いま目の前の敵と繋がっているのだとしたら。話は、別だ。
実は下町の聞き込みで、ひとつ気になる糸を掴んでいた。四年前、落ちぶれたアレンの居場所を執拗に探し回っていた一人の女がいた、という噂。その女は情報を得るためなら手段を選ばず、アレンを陥れた者の一人と裏で取引し、口を封じた、とも。その女の風体は、いまのエレノアとよく似ていた。そして、その取引の仲介をしたのが、大聖堂のさる高位の聖職者だった、という。クラリスの名が、ちらついた。糸をたぐるほどに、それはエレノアの影と重なっていく。認めたくない予感が、腹の底で冷たく凝った。
「クラリスは、おまえの何を知ってる」
アレンの声が低くなった。詰問の色を、抑えきれなかった。
「言え、エレノア。おまえが俺を探すために、何をしたのか。……クラリスは、それを握ってるんじゃないのか」
問うてから、自分の声の刺々しさに気づいた。だが、止められなかった。エレノアの顔から、血の気が引いた。
「それは……」
「答えろ」
「……言え、ません」
絞り出すような声だった。
「いまは、まだ。お願いです。それだけは聞かないで。あなたに嫌われたくない。……それを失うくらいなら、私は」
言葉が途切れた。エレノアの目に、涙が盛り上がる。だがアレンには、その涙がいつものひたむきなものとは違って見えた。何かを必死に覆い隠そうとする、涙に。
四年前の記憶がよみがえる。信じていた仲間に背を刺された、あの夜。あのときも彼らは最後まで笑顔だった。裏切りの直前まで、アレンを仲間だと呼んでいた。
また、か。いや、エレノアは違う。この四年、こいつだけは俺を裏切らなかった。膝をつき、泥をかぶり、命を削って守ってくれた。それは疑いようのない事実だ。だが、頭ではそう分かっていても、一度凍りついた心は、ひび割れた硝子のように疑いを映してしまう。
「……分かった。もう、聞かん」
アレンはそう言って、席を立った。声が、自分でも驚くほど冷たかった。
「だが、覚えておけ。俺は隠し事をされるのが、いちばん嫌いだ。……四年前で、懲りてる」
「私は、あの人たちとは違います……!」
初めて、エレノアが声を荒げた。すがるように、けれど譲れない一線を守るように。
「私が隠しているのは、あなたを裏切るためじゃない。あなたを、失わないためです。それだけは、信じて」
「その言い分も、四年前に聞いた」
言ってから、しまった、と思った。だが、口から出た刃はもう戻らない。エレノアの顔が、くしゃりと歪んだ。ひどい言葉をぶつけられた顔。だがそれでも、彼女は真実を口にしなかった。守り抜くように、唇を噛みしめた。
「アレン様……っ」
伸ばされたエレノアの手を、アレンは初めて振り払った。部屋を出て、扉を閉める。背後で、押し殺した嗚咽が聞こえた。胸が痛んだ。だが、足は止まらなかった。振り返れば、崩れてしまいそうだった。何が、とは言えない。ただ、いま振り返ってはいけないと、本能が告げていた。
自室に戻り、寝台に腰を落とす。手のひらを見つめた。ついさっき、エレノアの手を振り払った手だ。こんなことがしたかったわけじゃない。あの女がどれだけ自分に尽くしてくれたか、誰より知っている。この四年、凍りついた心を一日ずつ溶かしてくれたのは、あいつだ。
なのに、隠し事、と聞いた瞬間、体が勝手に身構えた。四年前の傷が、まだ疼く。信じたいのに、信じきることができない。それはエレノアのせいではなく、壊れたままの自分のせいだった。俺はまだ、あの夜から一歩も前に進めていない。守ると誓ってくれた女を、自分の傷で傷つけている。その情けなさが、胸を締めつけた。強くなったつもりでいて、心の芯は、四年前のまま凍りついていたのだ。
だが、ともう一人の自分が冷たくささやく。もしエレノアの秘密がクラリスと繋がっていて、それがこの先の戦いの命取りになるとしたら。目をつぶっていいはずが、ない。信じたい気持ちと、確かめねばならない責と。二つが胸の中で、噛み合わぬ歯車のように軋み続けた。
二人のあいだに、初めてひびが入った。溺愛というまっすぐすぎる想いに、初めて疑いという名の影が差した。そしてその亀裂こそ、王太子ギルバートが狙って穿とうとしていた、ただ一点だった。二人を内側から崩すために。
偽りを剥ぎ取る旅は、いつのまにか、いちばん近くにいる者の秘密の前に、立ちすくんでいた。
読んでくださって、ありがとうございます。
四年前、仲間の隠し事に背中を刺された男が、隠し事に、また身構える。エレノアのせいではなく、壊れたままの自分のせい。それでも、疑いを止められない。ギルバートが狙うのは、まさにこの、二人の内側の亀裂でした。
次回、その秘密が、最悪の形で、明かされます。




