第15話 信じる者
第15話。聖女に救われた者たちは、彼女を、命の恩人として、慕っています。
その信仰を、真実で、壊してよいのか。アレンは、迷います。
病院から戻って、三日。アレンは、王都の下町で聞き込みを続けていた。
聖女クラリスの、光と影。その両方を確かめるためだった。やがてひとつの事実が、アレンの前に突きつけられた。
あの母親――門前で乳飲み子を抱いてすがってきた女。その子は、死んでいた。クラリスの病院で診察を受けたあと、静かに追い返されていたのだ。この子はもう手の施しようがない、と。
だが、下町の噂は違うことをささやいていた。あの日、同じ病院で、裕福な商家の子が同じ病から救われていた、と。
「聖女様はな、救う者を選ぶんだよ」
古着屋の老人は、周囲をはばかるように声を落とした。こんなことを口にすれば信者に袋叩きにされちまう、と前置きしてから、物知り顔でなお声を潜めた。
「金のある家、名のある家、信心の篤い家。そういう子は必ず助かる。だが、身寄りもない、施ししか受けられん貧乏人の子は……よく手遅れになる。表向きはみんな平等に診てるさ。だが、奇跡が起きるのは、いつも決まった側だ」
アレンの拳が、握りしめられた。平等を装った、選別。それが、この施療院の真の姿だった。
救う者を、選ぶ。あの日、下働きの娘が枯れたのも偶然ではなかったのだ。クラリスは天秤にかける。誰を生かし、誰をその糧にするかを。信仰をいちばん多く生む選択を、いつも正確に。あの母親の子は天秤の軽いほうに乗せられ、だから死んだ。
俺はあの女に、奇跡は起こせないと言った。だがあの女はその足でクラリスのところへ行き、そこでも切り捨てられた。二度突き放されて、子を亡くしたのだ。胸の奥が、鉛のように重くなる。俺の正しさもクラリスの慈悲も、あの母親にとっては同じだった。どちらも、救ってはくれなかった。
アレンはその母親のいまの住処を突き止めた。訪ねる勇気は出なかった。だが遠くから、一度だけ様子を見た。
女は抜け殻のように、川べりに座っていた。空の産着を胸に抱いて。誰に恨み言を言うでもなく、ただぼんやりと、流れる水を見つめている。もう何も信じていない顔だった。英雄も、聖女も、神も。すがるものをすべて失った人間の顔だった。声をかけることも、詫びることも、アレンにはできなかった。何を言ったところで、あの空の産着が埋まるわけではない。
こういう者を、これ以上増やさせるな。空の産着を抱いた背中が、目に焼きついて離れなかった。アレンの胸に、静かな、けれど揺るがぬ火が灯った。
その夜、アレンは下町の一角で、小さな騒ぎに行き会った。
若い娘が、道の真ん中で声を張り上げていた。
「聖女様を悪く言うなんて、許さない! わたしは聖女様に命を救われたの! この足も、聖女様が治してくださった!」
娘の足首には、白く引きつれた古い傷跡があった。かつて潰れかけた足を、クラリスに救われたのだろう。娘は涙を浮かべ、聖女を疑う者に食ってかかっていた。その必死さに、アレンは足を止めた。誰かがひとこと言い返すたび、娘は肩を震わせ、いっそう声を大きくした。まるで、大声で叫べば叫ぶほど、自分の信仰がほんものになるとでもいうように。
この娘にとって、クラリスは命の恩人だ。もしアレンがクラリスの奇跡の裏側をこの娘に告げたら。おまえの命は名も知らぬ誰かの命と引き換えだったと教えたら。この娘は、どうなる。救われた喜びも、生きている意味も、まるごと崩れ落ちるだろう。信じるものを、失って。それは、この娘にとって二度目の死のようなものかもしれなかった。
「……なあ」
アレンは、つい娘に声をかけていた。
「もし、だ。もしその奇跡に裏があったら。おまえの足が治ったぶん、どこかの名も知らん誰かが枯れて死んでいたとしたら。……おまえはそれでも、聖女を信じるか」
娘はきょとんとアレンを見た。それから、きっと眉を吊り上げた。
「なにを言ってるの。そんな、ひどい嘘。……あなた、聖女様を妬んでるのね。かわいそうな人」
娘の目に宿ったのは、憐れみと拒絶だった。真実を告げようとした者への、信じるものを守ろうとする者の拒絶。
「あのね」
娘は、声を少しだけやわらげた。それがかえって、こたえた。
「わたしね、足が潰れたとき、もう死のうって思ったの。踊り子だったから、歩けなきゃ生きてる意味なんてないって。……そんなわたしを、聖女様が救ってくださった。もう一度踊れるって。だから聖女様は、わたしのぜんぶなの」
娘の目がうるんだ。憎しみではない。ただ必死に、たったひとつの光を守ろうとする一心だった。
「だからお願い。……あの方を悪く言わないで。わたしから、あの方まで奪わないで」
アレンは、何も返せなかった。この娘の光を守ることと、名も知らぬ誰かの命を守ることが、真っ向からぶつかっている。どちらも正しく、どちらも切り捨てられない。
娘はふん、とそっぽを向いて去っていった。自分の信仰を誇らしげに抱きしめて。この娘に真実は届かない。届いても、受け入れられない。受け入れれば、この娘自身が壊れてしまうから。
その夜、屋敷にもどったアレンは、エレノアに下町で見たすべてを話した。救われた娘のあの拒絶の目。天秤にかけられ、切り捨てられた母子。奇跡の裏で枯れていく、名もなき者たち。
「……俺は、迷ってる」
珍しく、アレンはそう漏らした。
「クラリスを暴けば、あの娘のように命を救われた連中は、拠りどころを失う。何千人もだ。中には、それに耐えられず、自ら命を絶つ者も出るかもしれん。……俺は、枯らされる者を救うために、救われた者を突き落とすのか」
エレノアはしばらく黙っていた。安易な肯定を、しなかった。
「……難しい問いです。私にも、答えはありません」
彼女は静かに続けた。
「でも、ひとつだけ。クラリスの奇跡は、誰かの命を勝手に担保にしています。救われた娘も、そのことを知らされていない。……知らないまま生かされるのと、真実を知って生きるのと。どちらがその人のためか。それは、私たちが決めることではないのかもしれません」
アレンは目を伏せた。エレノアの言葉は慰めではなかった。だが、迷いの芯を、そっと照らしてくれた。
「……真実を、選ばせる、か」
路地の暗がりで見た、あの娘の顔がまたよぎった。偽物を暴く。それはこれまで、痛快な正義だった。だが今度の偽物は、無数の本物の希望の上に立っている。剣で斬れる敵ならいい。だが、人の信じたいという心は斬れない。斬れば、斬った者が悪役になる。
「……難しいな、クラリス。おまえは、ボルドよりずっと厄介だ」
ボルドはただの空っぽの虚名だった。だがクラリスの虚飾は、本物の救いと分かちがたく絡み合っている。膿だけを切り取ることはできない。血肉ごと、抉ることになる。救いを信じて生きてきた者の胸から、その支えを引き抜く。それが、この戦いの正体だった。
やがてアレンは、屋敷への道を歩き出した。答えはまだ出ない。ただひとつだけ、決めた。奇跡の裏で枯らされていく者を、これ以上増やさせはしない。たとえそれで、あの踊り子の娘のように、信じる者たちから憎まれることになっても。
その覚悟は、正しさだった。だが優しさとは、どこまでも遠い正しさだった。
ありがとうございます。
足を治してもらった踊り子の「あの方を、悪く言わないで」という叫び。救われた者の光と、枯らされた者の命。どちらも切り捨てられない。剣で斬れる敵より、ずっと難しい相手です。
次回、二人のあいだに、初めて、ひびが入ります。




