第14話 白い病棟
第14話。潜入したアレンが見た、聖女の奇跡と、その代償。
ボルドの空疎な虚名とは違う、確かな救い。だからこそ、厄介です。
聖クラリス施療院は、まるで、地上に降りた天国のようだった。
白い壁と磨かれた床。窓から差しこむ光はやわらかく、病者の顔を照らしている。廊下には香草の匂いが流れ、うめき声のかわりに、回復した者たちの感謝の祈りが満ちていた。戦場でしか嗅いだことのない血と膿の匂いは、ここにはどこにもない。
アレンは擦り切れた外套に身をやつし、付き添いの下男を装って、その中へ紛れこんでいた。目に映るものはすべて、本物の慈善に見えた。
ここでは金のない者も身分のない者も、分け隔てなく寝台を与えられる。修道女たちが甲斐甲斐しく世話を焼き、数日前まで死にかけていた老人が粥を口に運びながら、涙を流して聖女の名を唱えていた。
「聖女様のおかげじゃ……もう一度、孫の顔が見られる……」
嘘ではない。この老人は確かに救われた。アレンはそれを認めるしかなかった。ボルドの空疎な武勇伝とは違う。ここには確かな救いがある。だからこそ、厄介だった。
寝台のあいだを歩きながら、アレンは患者たちの声を拾い集めていった。
「わしはもう駄目だと言われた。それを、聖女様が」
「うちの息子は脚を潰した。それがこうして、また歩けるんだ」
「聖女様は施しを受けても、決して見返りを求めなさらん。ただ祈りなさいと、それだけよ」
どの声にも嘘の色はなかった。ここに集う者にとって、クラリスはまぎれもなく女神だった。最後の望みを断たれ、行くあてもなくたどり着いた者たちの、たったひとつの灯だった。すがるものが、ここには確かにあった。昨日、屋敷の門前ですがってきたあの母親が、もしここへ来てこの光景を見ていたら、どれほど救われた気になっただろう。そう思うと、胸の奥がわずかに疼いた。
昼を過ぎたころ、廊下の空気がさざめいた。
「聖女様が、回診に」
修道女たちが道をあけると、その中を一人の女がしずしずと歩いてきた。白い法衣。胸には青く輝く雫の形の宝珠――深淵の月雫。淡い金の髪を結い、口元には慈愛の笑みをたたえている。
聖女クラリス。かつてアレンのパーティで傷を癒やした回復役であり、あの日、玉座の間で倒れたアレンを冷たく見おろした一人でもあった。四年ぶりに見るその顔は記憶よりずっと穏やかになっていたが、伏せた睫毛の奥の、あの値踏みするような目つきだけは変わっていない。人を、生かす価値があるかどうかで測る目だ。
アレンは壁ぎわで頭を垂れ、顔を伏せた。まだ正体を知られるわけにはいかない。
クラリスは一台の寝台の前で足を止めた。そこには幼い少女が眠っていた。呼吸は浅く、もう長くはない。付き添いの母親が青い顔で聖女を見上げる。
「聖女様……この子を、どうか」
「大丈夫ですよ」
クラリスの声は蜜のように甘くやさしかった。
「安心なさい。この子の苦しみは、わたくしが引き受けます」
その声には芝居の響きがなかった。クラリスは少女の乱れた髪を指でそっと梳き、汗ばんだ額を布で丁寧に拭う。その手つきは母親のように慈しみに満ちていて、演技では出せないものだった。この女はこの瞬間、心からこの子を救いたいと願っている。
アレンは伏せた視界の中で、かすかに眉をひそめた。分からなくなる。この女は、本当に悪人なのか。
クラリスが胸の月雫に手を添えると、青い光があふれ出した。
その瞬間を、アレンは伏せた視界の端で見ていた。月雫の光が少女を包み、浅かった呼吸がみるみる深くなる。蝋のようだった頬に赤みがさし、少女がうっすらと目を開けた。
「……おかあ、さん?」
「ああ、よかった……! 聖女様、ありがとうございます、ありがとうございます……!」
母親が泣き崩れる。周りの患者たちも我がことのように涙ぐみ、祈りを捧げた。誰の目にもまぎれもない奇跡だった。
だが、アレンだけが見ていた。少女が救われたまさにその瞬間、廊下の隅で床を拭いていた年若い下働きの娘が、音もなく崩れ落ちたのを。聖女の奇跡に目を奪われて、誰もその娘のほうなど見ていなかった。
アレンはそっと、その娘に近づいた。倒れた娘の顔は、まるで十も年老いたようにしなびていた。肌は乾き、瞳から光が失せている。息はある。だが、生気だけが根こそぎ抜き取られていた。
これが、奇跡の代償か。アレンは唇を噛んだ。月雫は生命力を浄化するのではなく、ただ移し替えているのだ。名もなき者から吸い上げ、救うべき者へ。奪って、与える。差し引きはいつもゼロ、いや、聖女への信仰が増えるぶん、むしろ黒字だった。アレンの背に、冷たいものが走った。
「そこの下男」
不意に、声がかかった。回診を終えたクラリスがこちらを見ている。慈愛の笑みは崩していない。だがその目は、倒れた娘とそのそばにいるアレンとを、じっと値踏みしていた。
「見慣れない顔ですね。その娘は過労でしょう。運んでおあげなさい。……ここは救いの場。倒れる者がいてはいけません」
言葉は慈悲深い。だがアレンには分かった。この女は下働きの娘が枯れることを知っている。知っていて、微笑んでいる。
アレンは顔を伏せたまま、娘を抱え上げた。
「……承知しました」
声を押し殺す。ここで正体を明かせば、この病院にいる数百の患者ごと敵に回すことになる。
クラリスはなお、しばらくアレンの伏せた背中を見ていた。何かを思い出そうとするように。だがやがて興味を失ったように、次の病室へと去っていった。
その背を見送って、アレンは腕の中の枯れた娘を見おろした。この子はたぶん、二度と元にはもどらない。誰にも知られず、聖女の奇跡の肥やしにされて。
「……ひどい話だ」
誰にも聞こえぬ声が、暗い廊下に落ちた。だが、とアレンは思う。あの少女は確かに救われ、母親は確かに泣いて喜んだ。この娘一人の犠牲で、あの母子は救われた。それを暴いて止めることが、はたして正しいのか。
枯れた娘を静かな一室へ運び、藁の寝床に寝かせる。乾いた手をアレンはしばらく握っていた。
「……おまえの名は覚えておく。誰も覚えていなくても」
もっとも、名すら聞けなかった。この娘がどこの生まれで、何を望んで生きていたのか、アレンは何も知らない。ただ、床を拭いていた小さな背だけを覚えている。
いつもの弔いの言葉だった。だが今日はいつもよりずっと苦い。この娘を枯らした張本人が、同じ屋根の下で別の子を心から慈しんでいる。その矛盾が、アレンの胸を重く塞いだ。
答えの出ない問いを抱えて、アレンは白い病棟を後にした。門を出ると、外の空気がやけに生ぐさく感じられた。病院の中のあの清らかさが、嘘のように。
いや、嘘ではない。あれも本物なら、この生ぐさい現実も本物だ。二つの本物が、月雫という一本の糸で繋がっている。救われた命と枯らされた命が、天秤の左右で静かに釣り合っていた。
アレンは拳を握りしめた。止めれば、あの少女たちを救う道が閉ざされる。止めなければ、下働きの娘のような犠牲が増えつづける。どちらも選べない。だが、選ばねばならない。目を背けることは、もう許されなかった。それが、奪い返すと決めた者の責だった。
偽りを剥ぎ取る旅は、初めて、善と悪の境界も見えない霧の中へ、踏みこんでいた。
最後まで、ありがとうございます。
瀕死の少女を救う一方で、名もなき下働きの娘を枯らす。クラリスを、単なる偽善者にはしたくありませんでした。少女への慈しみは、演技ではなく本物。だからこそ、断罪は、簡単には振り下ろせない。
次回、アレンの正しさが、信じる者を、傷つけます。




