第13話 すがる手
第13話。ここから、クラリス編が始まります。
今度の相手は、民に本物の希望を与える「癒やしの聖女」。暴くことが、誰かの救いを奪うことになる。いちばん、後味の重い戦いです。
地竜の一件から、半月が過ぎた。
王都に流れる噂は、もう止められなかった。泥の勇者。本物の英雄。人の口は勝手に物語を太らせていく。その代償は、朝ごとに屋敷の門前へやってきた。
病を抱えた者。子を亡くした親。杖にすがる老人。みな藁にもすがる思いで、あの「新しい英雄」の姿を一目でも拝もうと、列をなした。
アレンは、それを窓の内から見ていた。門番が、丁重に、けれど困り果てた顔で列をさばいている。花や粗末な供物を置いていく者もいた。神殿の門前と、変わらない眺めだった。
昨日は、腰の曲がった老人が半日、門の前に座りこんでいた。一目でいい、英雄様を拝みたいと。おとといは、若い夫婦が、動かなくなった祖父の手を引いて連れてきた。もう息のない祖父を、生き返らせてくれと。門番がいくら諭しても、夫婦は冷たくなった手を離そうとしない。信仰とは時に、人の目をこんなにも曇らせる。
「……追い返せ、とは言えんな」
「はい。追い返せば、あの人たちは行き場をなくします」
エレノアの声も重い。英雄への信仰が、この国の魔力の源だ。だが、その信仰はこうして、藁にもすがる者を量産していく。
その日、門前でひときわ細い声がした。
「英雄様……どうか、うちの子を。もう、聖女様の病院でも断られて……あなた様なら、奇跡を……!」
痩せた女が乳飲み子を抱いて、地に額をこすりつけていた。子どもの顔は、蝋のように白い。
アレンは門の前へ出た。女がすがるように顔を上げる。その目に宿る、狂おしいほどの期待。
やめてくれ、と喉の奥が詰まった。
「……悪いが、俺は医者じゃない。奇跡も起こせん。人を斬ることと、奪われたものを取り返すこと。俺にできるのは、それだけだ」
嘘は、つけなかった。できないことをできると言えば、この女をもっと深く傷つけてしまう。
だが。
「そんな……」
女の顔が、絶望に凍りついた。すがるものを、最後のひとつまで失った顔。彼女は抱いた子をきつく抱きしめ、よろよろと去っていった。その背を、アレンは追えなかった。追う言葉を持たなかった。細い背中が人混みに溶けて消えるまで、彼はただ立ち尽くしていた。抱かれた子の蝋のような顔だけが、瞼の裏に焼きついて離れない。
門の内で、エレノアが唇を噛んでいた。彼女なら聖光であの子を、いっとき楽にしてやれたかもしれない。だが、それをすれば、明日には門前の列が十倍に膨れる。そして、救えなかった者の恨みが、アレンへ向かう。
優しさで手を差し伸べれば、際限なく求められる。差し伸べなければ、冷たい男とそしられる。英雄という名は、そういう逃げ場のない檻だった。
「……俺はいま、あの女を突き放した」
部屋にもどって、アレンは低く言った。
「偽物の英雄を気取れば、あの子は少しは安心して死ねたかもしれん。だが、俺にはできない。できないことをできると言うのは、いちばんの偽物だ」
「アレン様」
「正しさってやつは、時々、優しさよりずっと冷たいな」
エレノアは首を横に振った。
「……いいえ。あなたはあの母親に、嘘をつかなかった。それは、いちばん誠実な優しさです。すがるものを与えて、あとで裏切るより、ずっと」
「慰めはいい」
アレンは短くさえぎった。
「結果として、俺はあの子から、最後の希望を取り上げた。それが事実だ。……英雄ってやつは、いるだけで人に、叶わない期待を抱かせちまう。だから俺は、あんなものになりたくない」
エレノアが、はっと息をのんだ。崇められることを拒む男の、その頑なさの本当の理由を、彼女はいま垣間見た気がした。
「英雄が、この国を腐らせた。ならば、俺が新しい英雄になっちゃ、意味がない。……分かるか」
「……はい。よく、分かります」
その横顔に、エレノアは痛みと、それを上回る敬意を覚えた。窓の外、去っていく女の背は、もう見えない。
偽りを憎み、本物を貫く。その生き方が、いま、藁にもすがる一人を切り捨てた。奪い返す旅で初めてアレンは、己の刃が、味方であるはずの弱者を斬ってしまったことを知った。
エレノアは、何も言えなかった。ただ、うつむくアレンの背に、手のひらを添えることしか。
その夜、二人は次の標的について話した。
「三つめの神域武装――【深淵の月雫】。持ち主は聖女クラリス。あなたの、元仲間です」
エレノアが地図を広げる。王都の中心に、大きな聖堂と、それに連なる白亜の病院が描かれていた。
「クラリスは、大聖堂つきの聖女。慈善病院を開き、貧しい者、病める者を無償で癒やしています。民からの信仰は、あのボルドの比ではありません。……いえ、この国で、殿下とエレノア、私を除けば、最も崇められている一人です」
「癒やしの、聖女、か」
アレンの眉が寄った。
クラリス。かつてパーティの回復役だった女だ。柔らかな笑みの奥に、いつも何かを値踏みするような目をしていた。あの女がいまや、民を癒やす聖女として崇められている。
「引っかかる。あいつは、そんな献身的な女じゃなかった。……なのに、無償で民を癒やす? 深淵の月雫の力を使って?」
「月雫の本当の力は、生命力の浄化――と伝わっています。ですが」
エレノアの声が低くなった。
「調べたところ、あの病院で癒やされた者の周りで、原因不明の衰弱死がいくつも起きています。癒やされた患者ではなく、その家族や、近隣の者が」
アレンの目が細くなった。
癒やしの聖女。だが、その奇跡の陰で、誰かが静かに枯れている。もし、月雫が誰かの生命力を吸い上げ、別の誰かへ移すものだとしたら。
「……厄介だな」
アレンはこめかみを押さえた。
「今度の偽物は、民に本物の希望を与えちまってる。病院に運ばれた子は、確かに治ってるんだろう。それを暴けば、俺は、癒やしを信じる民から、その希望まで奪うことになる」
昼間の、あの女の顔がよぎった。すがるものを失った、あの絶望が。クラリスを暴けば、またあんな顔をいくつも生む。だが暴かなければ、陰で枯れていく者が増えつづける。
「どっちに転んでも、誰かが傷つく」
アレンは、長く息を吐いた。ボルドのときのような痛快な断罪は、もう望めそうにない。
「それでも、行くのですか」
エレノアの問いに、アレンは窓の外の、聖堂の尖塔を見た。月明かりに白くそびえている。
「行く。陰で枯らされてる奴がいるなら、放っておけない。……ただ、今度ばかりは覚悟がいる。偽物を斬るってことが、こんなに後味の悪いものだとはな」
「私も、お供します」
「いや」
アレンは首を振った。
「今度は、まず俺一人で、病院の中を見る。おまえが動けば、王家の目がすぐに嗅ぎつける。……それに、これは俺の元仲間の始末だ。この目で、あいつが何をしているのか確かめる」
エレノアは、何か言いかけて呑みこんだ。案じる気持ちと、彼の覚悟を尊ぶ気持ちが、胸の内でせめぎ合う。
「……分かりました。でも、危なくなったら、必ず呼んでください。すぐに、駆けつけますから」
その約束が、のちに思わぬ形で試されることを――このときの二人は、まだ知らない。
偽りを剥ぎ取る旅は、これまでで、いちばん、重い扉の前に立っていた。
読んでくださって、ありがとうございます。
英雄になったアレンの門前に、すがる人々が集まる。だが彼は、できないことを「できる」と言えない。その誠実さが、藁にもすがる母親を、突き放してしまう。正しさは、時に、優しさより冷たい。今回は、その痛みを書きたかったのです。
次回、アレンはクラリスの病院へ。奇跡の、裏側を見ます。




