シャーロット、給金を知る
「そういえば、お前、給金どうしてるんだ?」
その一言で、シャーロットの手が止まった。
獅子の咆哮の食堂は、昼食後の少し落ち着いた時間だった。遠征に出ていない団員達が食器を片付け、午後の訓練へ向かう者、工房へ戻る職人、書類を抱えて歩く事務員が行き交っている。
シャーロットは窓際の席で、温かいお茶を飲んでいた。SSランク認定後も、日々は慌ただしい。新人訓練、魔法班の相談、結界講習、王立研究院との資料確認、たまに入る災害対応の事前協議。やることは増えたが、銀翼の頃とは違う。
忙しくても、食事を抜けば怒られる。無理をすれば止められる。お茶を飲む時間まで、なぜか予定に入れられている。そんな昼下がりに、隣へ座ったガルドが、何気ない調子で聞いたのだ。
「給金、ですか?」
「そうだ」
ガルドは木の杯を置き、彼女を見る。
「幹部になってから額も変わってるだろ。ちゃんと確認してるのか?」
「確認……」
シャーロットは少し考え込んだ。ガルドはその顔を見て、すでに嫌な予感がしていた。
「まさかとは思うが」
「はい」
「給金がどこに入ってるか、知らねえのか?」
シャーロットは困ったように微笑んだ。
「えっと……必要なものは、クランで用意していただいていますし」
「答えになってねえ」
「食事もありますし、お部屋もありますし、装備もありますし」
「それも答えになってねえ」
「なので、特に困っていません」
ガルドは額に手を当てた。
「そうじゃねえ」
「違うんですか?」
「違う。お前、自分の給金を受け取ってる自覚あるか?」
シャーロットは真面目に考えた。
「幹部候補の時に、事務の方から書類の説明は受けました」
「それで?」
「ギルド登録の確認と、受取口座の手続きと、控除の扱いと、遠征報酬の分配と……」
「分かってるじゃねえか」
「説明は受けました」
「理解は?」
シャーロットは少し目を逸らした。
「……だいたい」
「その“だいたい”は危ない」
ガルドがそう言った時だった。背後から、静かな声が落ちた。
「今、何の話をしていたの?」
二人が振り返ると、アメリアが立っていた。手には書類束。おそらく午後の会議資料だろう。だが、その視線は書類ではなく、シャーロットに向いている。優しい顔ではある。あるが、すでに逃げ道を塞ぐ顔だった。
「給金の話だ」
ガルドが短く言うと、アメリアの目が少し細くなる。
「シャーロット、あなた、自分のギルド口座を確認したことは?」
シャーロットは瞬きをした。
「ギルド口座……確認、ですか?」
アメリアは静かに書類を閉じた。ガルドは椅子の背にもたれ、天井を見た。
「やっぱりか」
「やっぱりね」
アメリアの声は落ち着いていた。落ち着いていたが、食堂の空気が少しだけ冷えた。
シャーロットは慌てて言う。
「あの、でも、何か問題があれば事務の方が言ってくださると思って」
「それはそうよ。事務はきちんと処理しているわ」
「なら、大丈夫では」
「大丈夫ではないわ。あなたが自分の報酬を把握していないことが問題なの」
「報酬……」
「そう。あなたが働いた分のお金よ」
シャーロットは、少し困った顔をした。
「でも、私はここで食事もお部屋もいただいていますし、装備も作っていただいていますし」
ガルドが低く言う。
「それは待遇だ。給金とは別だ」
「別……」
「別」
アメリアも頷く。
「銀翼ではどうしていたの?」
その問いに、シャーロットは少しだけ考えた。
「毎月、決まった額を受け取っていました。評価が下がってからは最低額でしたけど、食事と部屋は一応ありましたので……」
「一応?」
ガルドの声がさらに低くなる。シャーロットは慌てて言い直した。
「えっと、生活はできていました」
「できてたように見えねえから言ってるんだがな」
「ガルド」
アメリアが軽く制し、シャーロットへ向き直る。
「そのお金は、どう使っていたの?」
「消耗品や、服の修繕や、日用品や、少しだけ食べ物を足したり……あとは、ワンドの簡単な補修用品などに」
「残りは?」
「ほとんど残りませんでした」
アメリアの表情が、わずかに固まった。ガルドは何も言わなかった。何も言わないことで、怒っているのが分かった。
シャーロットは二人の様子に気付き、少し申し訳なさそうに笑う。
「あ、でも、今は違います。こちらでは食事も十分にありますし、お部屋も綺麗ですし、装備もきちんとしていますし」
「だからこそ、確認するの」
アメリアは言った。
「あなたはもう、最低限で生きる必要はないの。働いた分は受け取る。自分のために使う。必要なら貯める。それを覚えなさい」
「自分のために……」
シャーロットが小さく繰り返す。その言葉を聞いたガルドが、椅子から立ち上がった。
「行くぞ」
「どこへですか?」
「ギルド」
「今からですか?」
「今からだ」
「でも、午後に資料確認が」
アメリアがにっこり笑う。
「延期するわ」
「延期」
「ええ。あなたの金銭感覚確認の方が優先」
「そんな大げさな……」
ガルドとアメリアが同時に言った。
「大げさじゃない」
「大げさじゃないわ」
食堂にいた団員達が、見てはいけないものを見たように視線を逸らした。
数分後、シャーロットはガルドとアメリアに連れられて、王都の冒険者ギルドへ向かうことになった。本人はまだ少し不思議そうだった。
「本当に、今確認する必要があるんでしょうか」
「ある」
「あるわ」
「でも、口座に入っているなら、ちゃんと保管されているのでは」
「そういう問題じゃねえ」
「そういう問題じゃないわ」
二人の返事が妙に揃う。シャーロットは少しだけ小さくなった。
ギルドに入ると、受付の職員がすぐに姿勢を正した。
「獅子の咆哮の皆様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「シャーロットのギルド口座確認をお願いします」
アメリアが答えると、受付職員は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに笑顔へ戻った。
「かしこまりました。ご本人確認をいたします」
シャーロットは言われるままにギルド証を出した。受付職員が確認用の魔導板へ証を当てる。青白い光が走り、登録情報が浮かび上がった。
「シャーロット様。獅子の咆哮所属、幹部。本人確認、完了しました」
「はい」
「口座明細を出力いたしますか?」
「お願いします」
アメリアが即答した。シャーロットは少し首を傾げる。
「明細……」
ガルドは腕を組んだまま黙っている。受付職員が奥の魔導具を操作すると、薄い紙が数枚出てきた。
そこには、これまでの入金記録、基本給、役職手当、遠征報酬、黒龍戦関連の特別報酬、国家級スタンピード関連の報奨金の一部、装備補助とは別の個人支給分などが記されていた。
受付職員は紙面を確認し、少しだけ目を丸くした。それから丁寧にシャーロットへ差し出す。
「こちらが現在の残高です」
シャーロットは受け取った。
そして、固まった。
「……え?」
小さな声が漏れる。もう一度、数字を見る。桁を数える。また見る。数字は変わらない。
「え?」
もう一度、同じ声が出た。
ガルドが横から覗き込む。
「おお」
アメリアも見る。
「まあ、妥当ね」
「妥当、ですか?」
シャーロットが震える声で聞く。
「ええ。幹部候補期間の給与、幹部になってからの給与、黒龍戦とスタンピードの報奨金が一部入っているもの。むしろ、王国からの追加報奨はまだ処理途中でしょう?」
受付職員が頷く。
「はい。国家級スタンピード関連の最終報奨金は、王国会計局からの確定通知後に追加予定です」
「追加……?」
シャーロットの顔がさらに困惑する。
「これに、まだ?」
「はい。また、SSランク認定に伴う特別功績金の一部が、個人功績分として計上される可能性があります」
シャーロットは明細を両手で持ったまま、完全に動かなくなった。
ガルドがその顔を見て言う。
「おい、息してるか」
「しています」
「顔がすごいぞ」
「だって」
シャーロットは数字から目を離せない。
「こんなにいただいていいんでしょうか」
アメリアは、その問いにすぐ答えなかった。代わりに、受付の横にある小さな応接席へ彼女を座らせる。
「座りましょう」
「はい」
ガルドも向かいに座る。シャーロットは明細を持ったまま、まだ困っていた。
「何かの間違いでは」
「間違いじゃない」
ガルドが言う。
「でも、私は食事もいただいていて、お部屋もあって、装備も」
「だから、それとは別だって言ってるだろ」
「でも」
アメリアが、少しだけ声を柔らかくした。
「シャーロット。これは、あなたが働いた分よ」
シャーロットの手が止まる。アメリアは続けた。
「新人を教えた。結界を張った。危険を見つけた。仲間を守った。黒龍と戦った。国家級スタンピードで王都を守った。全部、あなたがした仕事。その対価として支払われているの」
「でも、皆さんも」
「もちろん。皆にも支払われているわ。クランにも報酬が入っている。装備費、維持費、救護費、補給費、職人への支払い、団員達の給与。全部別に動いている」
「そう、なんですね」
「そうよ」
アメリアは、まっすぐシャーロットを見た。
「あなたが受け取っていいお金なの」
その言葉に、シャーロットは明細を見下ろした。
受け取っていい。働いた分。自分のもの。
その感覚が、すぐには胸に落ちてこなかった。銀翼では、最低限でよかった。よかった、というより、そういうものだと思っていた。評価が低いから給金が少ない。攻撃実績が足りないから仕方ない。食事と部屋があるのだから、文句を言うものではない。装備が古くても、使えるならまだ大丈夫。
そうやって、自分のために何かを選ぶことを、ほとんどしなくなっていた。
「……私」
シャーロットの声が小さくなる。
「こんなに、受け取ったことがなくて」
ガルドは何も言わなかった。アメリアも黙っている。シャーロットは、明細の数字を見つめたまま続けた。
「何を買えばいいのか、少し分かりません」
その声は、泣いているわけではなかった。でも、少しだけ震えていた。
アメリアは静かに息を吐き、椅子を少し寄せた。
「分からないなら、練習しましょう」
「練習、ですか?」
「そう。自分のために使う練習」
シャーロットが顔を上げる。アメリアは指を一本立てた。
「まず、日用品。遠慮なく、質の良いものを買うこと。髪の手入れ用品、肌を荒らさない石鹸、替えの服、靴下、室内着。これは贅沢ではなく、普通の支度」
シャーロットは真剣に頷く。
「はい」
「次に、貯蓄。全部使わなくていい。将来のため、急な出費のため、口座に残す」
「はい」
「そして、三つ目」
アメリアは少し笑った。
「本当に、自分が欲しいものを一つ買いなさい」
シャーロットは目を瞬かせた。
「欲しいもの」
「ええ。仕事に必要なものではなく、人に配るものでもなく、クランのためでもなく、あなたが欲しいもの」
シャーロットは困ったように視線を泳がせる。
「私が、欲しいもの……」
ガルドが頬杖をつく。
「何かあるだろ」
「えっと……」
「本でもいい。菓子でもいい。髪飾りでもいい。服でもいい。杖の手入れ用品でもいい」
「シリウスの手入れ用品は……」
「それは仕事にも使うだろ」
「あ、そうですね」
「まあ、大事ならそれでもいいが、まずは完全に自分用だ」
シャーロットは真面目に考え込んだ。かなり長く考え込んだ。アメリアとガルドは黙って待った。受付職員も、少し離れた場所で微笑ましそうに見守っている。
やがて、シャーロットは控えめに言った。
「では……皆さんに、お茶菓子を」
「自分のもの」
アメリアとガルドの声が見事に重なった。受付職員が小さく吹き出しかけて、慌てて口元を押さえる。
シャーロットは少し焦った。
「でも、皆さんで食べた方がおいしいと思って」
「それは別の機会」
アメリアがきっぱり言う。
「今は自分のもの」
「えっと……では、お茶を」
「皆に淹れる用じゃないだろうな」
ガルドが言う。シャーロットは一瞬黙った。
「……自分で飲む用です」
「今、間があったな」
「ありましたね」
アメリアも頷く。シャーロットは小さくなる。
「では、自分で飲む用のお茶を買います」
「よろしい」
アメリアは満足そうに頷いた。
「あと、髪飾りもいいんじゃねえか」
ガルドが何気なく言った。シャーロットは彼を見る。
「髪飾り、ですか?」
「ああ。前に水色の硝子玉のやつ、気に入ってただろ」
「あれは、ガルドさんに買っていただいたものです」
「だからだよ。今度は、自分で選べ」
その言葉に、シャーロットは少しだけ目を伏せた。
自分で選ぶ。
それもまた、慣れていない。
でも、嫌ではなかった。
「はい。見てみます」
アメリアは立ち上がった。
「決まりね。今日は口座確認、日用品の追加、自分用のお茶、髪飾りを見る。資料確認は延期」
「資料確認……」
「延期」
「はい」
ガルドが明細を折りたたみ、シャーロットへ渡した。
「なくすなよ」
「はい」
「あと、これを見て罪悪感を覚えるな」
「……難しいです」
「そこは正直だな」
アメリアが静かに言う。
「難しいなら、何度でも言うわ。これはあなたが働いた分。受け取っていいもの。自分のために使っていいものよ」
シャーロットは、明細を両手で持ったまま、少しだけ目を潤ませた。
「はい」
その返事は、小さかった。けれど、ちゃんと届いた。
ギルドを出た後、三人は市場へ向かった。アメリアは当然のように日用品店へ入り、シャーロットが遠慮する前に必要なものを棚から選んでいく。
「この石鹸は肌に優しいわ。髪油はこっち。櫛は今のものより目の細かいもの。室内用の靴下は三足ではなく六足。寝間着も追加」
「そんなに必要でしょうか」
「必要」
「でも、まだ使えるものが」
「使えると快適は別」
ガルドが横で荷物を持ちながら言う。
「買っとけ」
「ガルドさん、荷物が多くなってしまいます」
「持てる」
「でも」
「俺を何だと思ってる」
「大剣使いです」
「なら荷物くらい持てる」
アメリアが少し笑う。
「そういう使い方でいいのかしら」
「今日だけだ」
「たぶん今日だけでは終わらないわよ」
ガルドは嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。
次に、茶葉の店へ行った。
棚にはさまざまな香りの茶葉が並んでいる。花の香りがするもの、果実を混ぜたもの、眠る前に飲むもの、朝に向いたもの、少し高価な王都産の茶葉。シャーロットは悩みに悩んだ末、柔らかい香りがする茶葉を選んだ。
「これにします」
「自分で飲む用ね?」
アメリアが確認する。
「はい。自分で飲みます」
「皆に配らない?」
「少しだけなら……」
「シャーロット」
「自分で飲みます」
ガルドが横で笑う。
「訓練みたいになってきたな」
「自分用訓練ね」
アメリアは真顔で言った。
最後に、髪飾りの店へ入った。
シャーロットは、最初こそ遠慮していたが、小さな装飾品が並ぶ棚の前で足を止めた。星形の飾り。淡い青の石。透明な白い雫。薄い金色の細工。どれも派手すぎず、日常で使えそうなものだった。
彼女は一つ、小さな星と淡い雫石を組み合わせた髪飾りを手に取った。
「これ……綺麗ですね」
「それにする?」
アメリアが聞く。シャーロットは少し迷う。値札を見る。少しだけ、眉が下がる。
ガルドが言った。
「買える」
「でも」
「買えるし、買っていい」
「……はい」
シャーロットはその髪飾りを、初めて自分で選んで買った。店主に包んでもらった小さな箱を受け取る時、彼女の手は少しだけ震えていた。それを見て、アメリアは何も言わなかった。ガルドも、からかわなかった。
その夜、獅子の咆哮の食堂で、シャーロットは自分で買った茶葉を淹れた。「自分用」と言われていたが、結局、アメリアとガルドに一杯ずつ出した。
アメリアは少し眉を上げる。
「自分用では?」
「自分で飲む用に買いました。でも、今日のお礼に一杯だけ」
ガルドが杯を受け取る。
「一杯だけなら許してやれ」
アメリアはため息をつきながらも、微笑んだ。
「今日だけよ」
「はい」
シャーロットは自分の杯を両手で持つ。柔らかな香りが、湯気と一緒に立ち上った。
自分で選んだ茶葉。
自分のお金で買ったもの。
誰かに遠慮してではなく、必要だからでもなく、自分が綺麗だと思った髪飾りも、小さな箱の中にある。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が少し熱かった。
「おいしいです」
シャーロットは小さく言った。
アメリアが優しく頷く。
「そう。よかったわ」
ガルドも一口飲み、少しだけ意外そうな顔をした。
「悪くねえな」
「よかったです」
シャーロットは微笑んだ。
その笑顔は、戦場で見せるものとは違った。黒龍を討つ魔法使いでも、星雨・黎明を使う星纏いの魔女でもなく、初めて自分のために茶葉を選んだ、一人の女性の笑顔だった。
アメリアが静かに言う。
「これから少しずつ覚えましょう」
「何をですか?」
「自分のために選ぶこと」
シャーロットは杯を見つめた。
「はい」
少し間を置いて、彼女は続ける。
「少しずつ、覚えます」
ガルドがいつものように言う。
「少しずつか」
「はい」
「まあ、お前ならそれでいい」
アメリアも微笑んだ。
食堂の灯りは温かかった。外では夜風が吹いている。獅子の咆哮の本部は、今日も人が帰ってくる場所として静かにそこにあった。
シャーロットは、自分で買ったお茶をもう一口飲んだ。
受け取っていいもの。
自分のために使っていいもの。
まだ少し難しい。
けれど、今日は一つ覚えた。
翌日、シャーロットが新しい髪飾りをつけて訓練場へ出ると、アメリアがすぐに気付いた。
「似合っているわ」
ソフィアも笑顔で言った。
「とても素敵です」
ガルドは少しだけ視線を逸らして、短く言った。
「いいんじゃねえか」
シャーロットは、照れたように髪飾りへ触れた。
「ありがとうございます」
その日一日、彼女はいつもより少しだけ嬉しそうだった。
そして獅子の咆哮の団員達は、誰もそれをからかわなかった。
星纏いの魔女が、自分のために選んだ小さな髪飾り。
それは、黒龍を討つ魔法よりも、星雨・黎明よりもずっと小さな出来事だった。
けれど、シャーロットにとっては、確かに大切な一歩だった。




