星杖シリウス、磨かれる
獅子の咆哮の本部が静かになる時間がある。
昼間は訓練場の掛け声、工房の槌音、食堂の笑い声、救護棟の足音でにぎやかな本部も、夜になると少しだけ息を潜める。遠征帰りの団員達が温かいスープを飲み終え、装備点検場の灯りが一つずつ落とされ、廊下を歩く足音もまばらになる。
その夜、ガルドは訓練場脇の小さな整備室に灯りが残っていることに気付いた。
「まだ誰かいるのか」
独り言のように呟き、扉の前まで行く。
中からは、金属を削る音ではなく、布が木と石を撫でるような、柔らかい音がした。職人の作業音ではない。もっと静かで、丁寧な音。
ガルドは扉を軽く叩いた。
「入るぞ」
「あ、はい」
返ってきた声で、誰がいるのかはすぐに分かった。
扉を開けると、整備室の机の前にシャーロットが座っていた。星帽ポラリスは外され、髪はゆるくまとめられている。星衣リゲルも掛け台にかけられ、彼女は薄い室内用のローブ姿だった。
机の上には、一本のスタッフが置かれていた。
星杖シリウス。
星脈晶ヴェガでも、星帽ポラリスでも、星衣リゲルでもない。獅子の咆哮で作られた装備ではなく、シャーロットがずっと以前から持っていた私物のスタッフだ。
深い夜空を閉じ込めたような核が、整備室の灯りを受けて静かに光っている。
シャーロットは柔らかい布で、その核の周囲を丁寧に磨いていた。
「珍しいな。こんな時間に」
「少しだけ、手入れをしていました」
「少しだけ、で済むのか?」
「今日は資料作成ではないので、大丈夫です」
「その言い方だと、資料作成だったら駄目って分かってるんだな」
シャーロットは少しだけ視線を逸らした。
「分かっています」
「ならいい」
ガルドは整備室の壁に背を預け、シリウスを見る。
「そいつを磨いてるの、初めて見るな」
「そうかもしれません。普段は部屋でしていますから」
「大事なんだな」
「はい」
シャーロットの返事は、いつもより少しだけ早かった。
彼女は布を持ち替え、スタッフの柄をゆっくり拭いていく。古い傷がいくつもあった。大きく欠けているわけではない。けれど、長い年月を一緒に過ごしたことが分かる細かな跡だった。
ガルドはその傷を見て、少し目を細める。
「学校の時から持ってたやつか」
「卒業制作の頃からです。学生の頃は、練習用のワンドをよく壊してしまっていたので」
「ワンドクラッシャーか」
「その呼び方は、少し恥ずかしいです」
シャーロットは困ったように笑った。
ガルドは覚えている。
冒険者学校時代、彼女は普通に魔法を使っているつもりで、練習用のワンドを壊していた。周りは制御が下手なのだと思っていたが、実際は違った。普通の練習道具が、彼女の魔力量と密度に耐えられなかっただけだ。
その頃から、シャーロットはずれていた。
本人だけが、それをあまり分かっていなかった。
「この杖は、壊れなかったんです」
シャーロットが静かに言った。
ガルドは視線を戻す。
「普通の杖では、私の魔力を受けるとすぐにひびが入ってしまって。でも、この子は受けてくれました。最初に魔力を通した時も、少し震えただけで、ちゃんと流してくれたんです」
「この子、か」
「はい」
シャーロットは少し恥ずかしそうにしながらも、シリウスの柄を撫でた。
「変でしょうか」
「いや」
ガルドは短く答えた。
「大事な道具なら、そう呼ぶ奴もいるだろ」
「そうですか」
「ああ」
シャーロットはほっとしたように微笑んだ。
「銀翼にいた頃も、シリウスだけは私物だったので、手元に置けました。普段の任務では、支給されたワンドを使うことが多かったですけど……大きな術式が必要な時や、どうしても普通のワンドでは足りない時は、この子に助けてもらっていました」
ガルドの表情が、少しだけ険しくなる。
銀翼が彼女に渡していた粗末なワンドを、彼は知っている。曇った魔石、使い古された柄、まともに整備もされていない支給品。獅子の咆哮の新人魔法使いが使う予備ワンドよりもひどかった。
そんなものを、シャーロットは十年も使っていた。
そして本当に必要な時だけ、この星杖シリウスを使っていたのだろう。
「もっと使えばよかったんじゃねえのか」
ガルドが言うと、シャーロットは少し考えた。
「大きすぎるんです」
「出力がか?」
「はい。シリウスは、大型術式に向いています。普段の支援や結界補助、細かな魔力調整には、少し大げさで」
「だから、あのボロいワンドを使ってたのか」
「ボロ……」
シャーロットは困ったように笑う。
「支給品でしたから」
「支給品でも限度がある」
「今は分かります」
その言葉は、静かだった。
昔なら、彼女はたぶん本気で分かっていなかった。
与えられたものを使う。足りなければ工夫する。壊れそうなら抑える。誰かが困っているなら助ける。自分の装備が悪いことより、目の前の危険をどう処理するかを考える。
そうして、十年。
ガルドは壁にもたれたまま、低く息を吐いた。
「お前、本当に一人で何でもやってたんだな」
「何でもではありません」
「出たな」
「本当に、何でもではありません」
シャーロットは少し真面目な顔で言う。
「できないこともあります。だから、シリウスに助けてもらっていました。ヴェガにも、ポラリスにも、リゲルにも、皆さんにも」
それから、彼女はシリウスを見た。
「この杖は、ずっと一緒にいてくれたんです」
その声は、懐かしむようで、少しだけ寂しそうだった。
「銀翼の部屋が狭くなった時も、装備置き場がほとんどなくなった時も、シリウスだけは布に包んで、壁際に立てかけていました。たまに磨くと、少し安心したんです」
ガルドは何も言わなかった。
小さな、汚い、物置のような部屋。
私物を置く余裕もほとんどなく、まともな風呂にも自由に入れず、給料も最低限。そんな場所で、彼女はこの杖を磨いていた。
誰にも見られずに。
誰にも褒められずに。
それでも、丁寧に。
シャーロットは、布で核の周りを拭きながら微笑んだ。
「シリウスは、怒りませんから」
「怒る?」
「はい。私がうまく使えなくても、壊れないように受けてくれました。魔力を抑えすぎても、強すぎても、ただそこにいてくれました」
「道具は怒らねえだろ」
「そうですね」
「でも、人は怒る」
ガルドが言うと、シャーロットは手を止めた。
彼は続ける。
「今は怒る奴がいる。アメリアも、ソフィアも、俺も。無理したら怒る。黙ってたら怒る。大丈夫じゃねえのに大丈夫って言ったら怒る」
シャーロットはゆっくり顔を上げた。
「はい」
「だから、杖だけに安心しなくていい」
その言葉に、彼女は目を瞬かせた。
ガルドは、少し気まずそうに視線を逸らす。
「……変なこと言ったな」
「いえ」
シャーロットは首を横に振った。
「嬉しいです」
「そうかよ」
「はい」
整備室に、少しだけ静かな時間が流れた。
窓の外には夜空が広がっている。王都の灯りが遠くに見え、その上に本物の星が瞬いていた。机の上の星杖シリウスの核は、その夜空を映すように深く輝いている。
シャーロットは手入れ用の油を少しだけ布に含ませた。
「ガルドさん」
「何だ」
「少し、持ってみますか?」
ガルドは眉を上げた。
「俺が?」
「はい。魔力は流さなければ大丈夫だと思います」
「思います、って言ったな」
「……持つだけなら大丈夫です」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんが出たな」
シャーロットは少し困ったように笑った。
ガルドはため息をつきながらも、机へ近づいた。シリウスの柄を慎重に持つ。
重い。
物理的な重量だけではない。中に眠っている魔力の気配が、手のひら越しに伝わってくる。眠っている獣ではない。もっと静かで、遠い。夜空そのものを持っているような、不思議な圧だった。
「……これを普段から持ってたのか」
「はい」
「普通のスタッフじゃねえな」
「そうみたいです」
「そうみたい、じゃねえだろ」
ガルドは慎重に机へ戻した。
魔力を流していないのに、少し肩が凝った気がした。
「俺は大剣の方がいい」
「ガルドさんには、その方が似合います」
「お前には、これが似合うな」
シャーロットは少し驚いた顔をした。
「シリウスが、ですか?」
「ああ」
ガルドは星杖シリウスを見る。
「派手なだけじゃない。重い。強い。けど、ちゃんと持つ奴を選んでる感じがする」
「持つ人を選ぶんでしょうか」
「たぶんな。少なくとも俺じゃない」
「でも、ガルドさんも持てました」
「持っただけだ」
「それでも、シリウスは嫌がっていませんでした」
ガルドは一瞬だけ黙った。
「杖の機嫌まで分かるのかよ」
「なんとなくです」
「お前のなんとなくは、だいたい当たるから困る」
シャーロットは小さく笑った。
そしてまた、丁寧にシリウスを磨き始める。
ガルドはその横に立ったまま、しばらく黙って見ていた。
戦場のシャーロットは、星纏いの魔女だ。
黒龍を討ち、緑竜を落とし、国家級スタンピードを終わらせた魔法使い。空に星を灯し、星雨を降らせ、戦場全域を整える規格外の存在。
だが今、目の前にいる彼女は、一つの道具を大切に磨いているだけの女性だった。
昔から一緒にいた杖を、感謝するように、傷を確かめるように、静かに手入れしている。
その姿を見て、ガルドは少しだけ胸の奥が重くなった。
もっと早く、気付けていれば。
学校を出たあと、彼女が銀翼でどう扱われているのか、もっと早く知れていれば。
そんな考えが、一瞬よぎる。
だが、シャーロットは顔を上げて言った。
「ガルドさん」
「何だ」
「今、少し難しい顔をしています」
「元からだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「でも、ありがとうございます」
「まだ何も言ってねえ」
「いてくれるので」
その一言に、ガルドは言葉を失った。
シャーロットはシリウスを磨きながら、穏やかに続ける。
「昔は、一人で磨いていました。でも今は、見てくれる人がいます。変ですね。同じ手入れなのに、少し違って感じます」
「……そうか」
「はい」
ガルドは、整備室の窓の外を見た。
夜空には星が出ている。
机の上には、夜空を閉じ込めたような星杖シリウスがある。
そしてその隣で、シャーロットが笑っている。
「これからは」
ガルドは、ぽつりと言った。
「一人で磨かなくてもいいだろ」
シャーロットの手が止まる。
「え?」
「俺が手入れできるわけじゃねえけどな。見てるくらいはできる」
シャーロットはしばらく彼を見ていた。
それから、少しだけ頬を緩める。
「では、また見に来てください」
「ああ」
「シリウスも、喜ぶと思います」
「杖に気を遣われるのは変な気分だな」
「嫌ですか?」
「別に」
「よかったです」
シャーロットは最後に、柔らかい布で星杖シリウスの核をそっと磨いた。
深い夜空のような石が、静かに光る。
その光は、黒龍戦の時のような圧倒的な輝きではなかった。星雨・黎明のように戦場を覆うものでもない。ただ、整備室の小さな灯りの中で、穏やかに瞬いている。
シャーロットは両手でシリウスを持ち、丁寧に布へ包んだ。
「いつもありがとうございます」
小さな声で、そう言った。
ガルドは聞こえないふりをした。
聞こえないふりをしたまま、少しだけ笑った。
星杖シリウス。
シャーロットが誰にも見られなかった頃から、ずっと一緒にいた杖。
そして今は、その杖を磨く時間を、誰かが見ている。
それだけのことが、彼女にとっては新しい日常だった。
「さて」
ガルドが言う。
「終わったなら寝ろ」
「もう少しだけ、記録を――」
「寝ろ」
「はい」
即答したシャーロットに、ガルドは満足そうに頷いた。
「少しは学んだな」
「皆さんに怒られますので」
「いい傾向だ」
整備室の灯りが消える。
廊下へ出ると、夜の獅子の咆哮は静かだった。
けれど、それは寂しい静けさではない。
誰かが帰ってくる場所の静けさだった。
シャーロットは布に包んだ星杖シリウスを大切に抱え、ガルドと並んで歩いた。
もう、一人で磨くだけの夜ではなかった。




