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第2節 初級ダンジョン

初級ダンジョンは、王都から馬車で半刻ほど離れた丘陵地帯にあった。入口は古い石造りの遺跡のようになっていて、崩れた柱の間に薄い青白い膜が揺れている。そこを抜けると、内部は地下へ続く石の通路になっていた。初級と呼ばれてはいるが、遊び場ではない。弱い魔物しか出ないとはいえ、足を滑らせれば怪我をする。隊列を崩せば孤立する。恐怖で判断を誤れば、簡単に命を落とす。


アメリアは入口前で全員を止めた。


「私はここで待機します。中には基本的に入りません。あなた達は教官の指示ではなく、現場の状況を見て動きなさい。ただし、シャーロットさんから指示が出た場合は最優先で従うこと。分かったわね?」


「はい!」


新人達の返事は揃っていたが、声は少し硬かった。


アメリアは視線をシャーロットへ向ける。


「任せるわ」


「はい。行ってきます」


シャーロットは軽く頭を下げた。ガルドは入口脇に立ち、腕を組んでいる。同行はしない。けれど、その目は新人達ではなく、シャーロットを見ていた。


「無理はするなよ」


「はい。新人さん達を無事に帰します」


「いや、お前自身も含めて言ってるんだが」


「はい?」


ガルドは何か言いかけて、やめた。今言っても伝わらない顔だったからだ。


「……行ってこい」


「はい」


シャーロットは新人達へ向き直った。


「では、入ります。前衛のお二人が前、斥候さんは前に出すぎず、魔法使いさんと補助役さんは中央寄りに。私は後ろから見ていますね」


「はい!」


新人達は隊列を組んで、青白い膜をくぐった。


空気が変わる。外の風が途切れ、湿った石の匂いが鼻を掠めた。壁には淡い光を放つ鉱石が点々と埋まっており、暗すぎはしない。だが、奥へ進むほど音が吸われていくような感覚があった。


盾役の少年――トマは、丸盾を構えながら一歩目を踏み出した。もう一人の前衛、リックは短槍を持ち、少しだけ前のめりになっている。斥候役の少女ミナは視線を鋭く前方へ向けていたが、肩が固い。魔法使いの少年エルンはワンドを握りしめ、補助役の少女リリは全員の動きを見ようとして、逆に視線が落ち着いていなかった。


シャーロットは最後尾を歩きながら、そのすべてを見ていた。


足音が少し乱れている。トマは盾を構える腕に力を入れすぎていて、長く歩くと疲れる。リックは敵が出た時に一歩先へ出すぎる癖がありそうだ。ミナは罠を探す目は悪くないが、天井への警戒が抜けている。エルンは詠唱前に息を止める癖がある。リリは状況を見ようとしているが、何を優先すべきか決められていない。


直したい。


全部、今すぐ直したい。


だが、シャーロットは口を開かなかった。


まだ危険ではない。今は彼ら自身に歩かせる時間だ。すぐに手を入れすぎれば、彼らは自分の癖に気付けない。


通路の先で、小さな影が動いた。


「前方、魔物!」


ミナが声を上げる。飛び出してきたのは、角兎が二体。初級ダンジョンではよく出る魔物だが、突進力は侮れない。受け損ねれば足を裂かれる。


「盾、前へ!」


トマが一歩出る。だが、出る角度が少し浅い。リックがその横から槍を構えようとして、二人の肩がぶつかりかけた。


シャーロットの指先が、ほんの少し動く。


床石の継ぎ目に薄い土属性の補助が走り、トマの足裏をわずかに支えた。同時にリックの踏み出す位置を、目立たない程度に滑りにくくする。


「トマさん、盾は半歩だけ左です。リックさん、槍は盾の横から。前に出すぎないで」


「は、はい!」


ガンッ、と角兎が盾にぶつかった。トマの腕が沈む。しかし足は崩れない。リックの槍が横から伸び、角兎の進路を止める。ミナが短剣で二体目を牽制し、エルンが小さな火球を放った。


ぼんっ、と火が弾ける。


威力は高くない。だが十分だった。角兎は壁際へ吹き飛び、リックがとどめを刺す。もう一体もトマの盾で動きを止められ、ミナの短剣が急所を捉えた。


「討伐確認。怪我はありませんか?」


リリが慌てて全員を見る。


「大丈夫!」


「こっちも平気!」


新人達の顔に、少しだけ安堵が広がった。初めての実地戦闘ではないが、教官以外の前で動く緊張はあったのだろう。


シャーロットは微笑んだ。


「今のは良かったです。ただ、トマさんは盾を少し正面に置きすぎました。敵が二体いる時は、全部受け止めようとするより、片方の進路を狭める方が楽です。リックさんは前に出る力が強いので、盾役さんの半歩後ろを意識してください」


「はい!」


「エルンさんは火球を撃つ前に息を止めています。詠唱が詰まりやすくなるので、吐きながら魔力を流すと安定します」


「えっ、分かるんですか?」


「はい。肩が少し上がっていました」


エルンは驚いたように自分の肩を見た。


シャーロットは続ける。


「リリさんは確認が早くて良かったです。ただ、戦闘中に全員を一度に見ようとすると混乱します。まず前衛、次に魔法使いさん、最後に自分の位置。順番を決めると楽ですよ」


「はい……!」


リリは真剣な顔で頷いた。


新人達の表情が、少し変わった。最初にシャーロットを見た時の不安が、わずかに薄れている。ボロいローブの魔法使い。銀翼を追放されたばかりの人。そういう印象の奥に、別のものを感じ始めていた。


この人は、見ている。


自分達ができていないところを、責めるためではなく、生き残らせるために見ている。


通路をさらに進む。


次の小部屋では、壁際に苔のような魔物が張り付いていた。近づくと胞子を吐く種類だ。ミナが足跡を確認して前に進もうとした瞬間、シャーロットは柔らかく声をかけた。


「ミナさん、天井も見てください」


「天井?」


ミナが見上げる。そこには、半透明の粘液が細く垂れていた。天井に張り付く小型の粘体魔物。気付かず通れば、首筋に落ちてくる位置だった。


「うわっ……!」


「焦らなくて大丈夫です。今はまだ動いていません。エルンさん、火ではなく風を使えますか?」


「風は少しだけなら」


「では、弱く。落とすのではなく、壁側へ流してください」


「はい!」


エルンがワンドを構える。風が不安定に揺れた。強すぎれば粘体魔物が落ちる。弱すぎれば動かない。シャーロットは後ろから、ほんの少しだけ風の流れを整えた。エルンの魔法が急に安定する。


本人は気付かない。


粘体魔物は壁際へずるりと移動し、ミナが距離を取って短剣を投げる。リックが追撃し、無事に処理した。


「今の、私の魔法……安定していました」


エルンが自分の手を見つめる。


シャーロットはにこりと笑う。


「落ち着いていましたから」


「そ、そうでしょうか」


「はい。次もその感覚を覚えておいてください」


エルンは嬉しそうに頷いた。


その後も探索は続いた。


細い通路でトマの盾が壁にぶつかりそうになる前に、シャーロットは「盾の角度を少し下げましょう」と声をかけた。足元のひびにリリが気付けなかった時は、「そこは体重をかけない方がいいです」と先に示した。ミナが罠の跡を見つけた時は、すぐに答えを言わず、「何が残っていますか?」と考えさせた。


魔物は出る。


しかし妙に少ない。


本来なら、初級ダンジョンでももう少し遭遇するはずだった。角兎、洞窟鼠、小型粘体、石虫。新人達にとって練習になる程度の敵は現れるが、危険になりすぎる数では出てこない。


「今日は、なんだか歩きやすいですね」


リリがぽつりと言った。


「初級ダンジョンって、もっと魔物が出ると思っていました」


「運がいいのかもな」


リックが笑う。


シャーロットは最後尾で、少しだけ視線を横へ向けた。


二本先の通路に、洞窟狼が一体。初級ダンジョンに出ることはあるが、新人五人には少し荷が重い。こちらへ曲がりかけていた魔力反応に向けて、シャーロットは指先だけで小さな光を流した。攻撃ではない。洞窟狼の嫌う光の揺らぎを、反対側の通路に置いただけだ。


洞窟狼の反応が止まり、進路を変える。


さらに奥の小部屋には、毒胞子を持つ苔魔物が群れている。こちらの進路を少しだけ変えれば、遭遇せずに済む。シャーロットは壁の風穴から流れる空気を読み、自然に見える形でミナへ問いかけた。


「ミナさん、この先、風の流れが少し重いと思いませんか?」


「え? ……あ、本当だ。湿った匂いが強いです」


「そういう場所には、胞子を出す魔物がいることがあります。どうしますか?」


ミナは少し考え、左の通路を指した。


「迂回します」


「はい。良い判断です」


新人達は、自分達で危険を避けたと思った。


それでいい。


シャーロットはそう思った。答えを奪わず、けれど危険になりすぎる前に気付ける場所へ誘導する。銀翼でも何度もやってきたことだ。


ただし、今回は少し違う。


今回は、見ている人がいる。


ダンジョン入口付近で待機しているアメリアは、中の様子を直接見ることはできない。だが、連絡用の小さな魔道具を通じて、進行状況は受け取っていた。新人達の声。報告。進路変更。戦闘終了の合図。


その報告の中で、アメリアは違和感を覚えていた。


魔物との遭遇数が、少なすぎる。


初級ダンジョンとして危険な範囲ではない。だが、ここまで都合よく新人向けの敵だけが出て、少し危険な敵との遭遇が避けられているのは不自然だった。


「……まさか、もう調整してる?」


アメリアは入口脇で腕を組み、眉を寄せた。


シャーロットは中に入ってまだ半刻も経っていない。戦闘らしい戦闘は数回。報告だけ見れば、新人達が順調に学びながら進んでいるように見える。


だが、順調すぎる。


本来なら、初級ダンジョンでも小さな失敗はいくつか起きる。驚いて隊列が崩れる。罠を見落とす。余計な敵を引っかける。軽い怪我をする。それを教官が止める。


しかし、今のところ危険の芽が大きくなる前に、すべて丸められている。


アメリアは小さく息を吐いた。


「ガルドが言っていた意味、少し分かってきたわ」


ダンジョンの中では、新人達が少しずつ自信をつけ始めていた。


「次の小部屋、僕達だけで確認してもいいですか?」


トマが言った。


シャーロットは微笑む。


「はい。では、まず入口で止まってください。全員で入らず、斥候さんが中を見て、前衛さんが入口を押さえます。魔法使いさんは詠唱できる距離を保ってください」


「はい!」


ミナが慎重に小部屋を覗く。中には石虫が三体。硬い外殻を持つが、動きは遅い。新人達の訓練にはちょうどいい相手だった。


「敵三体。石虫です」


「どう動きますか?」


シャーロットが聞く。


トマが少し考えて答える。


「入口で一体ずつ止めます。リックが横から突いて、エルンが火で弱らせる。リリは後ろで状態確認」


「いいと思います」


「よし、行こう!」


新人達が動く。


最初の石虫が入口へ向かってくる。トマが盾で止める。リックの槍が外殻の隙間を狙う。少しずれた。弾かれる。石虫が脚を鳴らし、ギチギチと音を立てる。


「焦らず。外殻ではなく、脚の付け根です」


シャーロットの声が通る。


リックが息を整え、もう一度突く。今度は入った。エルンの火球が続き、石虫が転がる。二体目、三体目も同じように処理していく。途中、トマの盾が押されて半歩下がったが、リリがすぐに気付いて声をかけた。


「トマ、右足!」


「あっ!」


踏み直す。崩れない。


戦闘が終わった時、新人達の顔にははっきりと達成感があった。


「できた……!」


「今の、良かったですよ」


シャーロットが言うと、五人は同時に笑った。


「ありがとうございます!」


その笑顔を見て、シャーロットも嬉しくなった。銀翼でも何度も見た笑顔だ。できなかったことができるようになった時の顔。死なずに帰れるかもしれないと、自分自身を信じ始める顔。


だから彼女は、この仕事が嫌いではなかった。


評価にはならなかったけれど。


それでも、誰かが育つのを見るのは、嬉しかった。


小部屋を出る時、シャーロットはふと奥の通路へ視線を向けた。


一瞬だけ、空気が沈んだ気がした。


ほんのわずか。新人達なら絶対に気付かない。普通の教官でも、疲れや空気の流れと誤認する程度の違和感。


けれど、シャーロットの探知に、細い棘のような魔力が触れた。


「……?」


彼女は足を止めた。


「シャーロットさん?」


リリが振り返る。


シャーロットはすぐに笑った。


「少しだけ確認しますね。皆さんはこの場で待機してください。隊列は崩さないで」


「はい」


新人達は指示通りに止まる。


シャーロットは探知を少し広げた。普段よりも狭い。新人教育中だから、必要以上に広げるつもりはなかった。だが、奥の方に妙な空白がある。魔物の反応が不自然に散っている。まるで、何かを避けるように。


その奥で、重い魔力がゆっくり動いた。


初級ダンジョンにいるはずのない密度。


シャーロットの表情が、わずかに変わった。


「……皆さん、今から来た道を少し戻ります」


「え?」


「走らなくて大丈夫です。でも、静かに、急いで。トマさんは前ではなく最後尾に。リックさん、私の隣へ。ミナさんは足元だけ見てください。奥は見なくていいです」


指示の内容が変わったことに、新人達の顔がこわばった。


「何か、いるんですか?」


エルンが小さく聞く。


シャーロットは笑った。


「確認中です。大丈夫。私の指示通りに動けば、皆さんは無事に帰れます」


その声は穏やかだった。


だからこそ、新人達は逆に背筋が冷えた。


穏やかすぎる。


まるで、危険があることを知った上で、恐怖をこちらへ渡さないようにしている声だった。


ダンジョンの奥で、低い音が響いた。


ズン。


石床の下から突き上げるような振動。


新人達が一斉に振り返る。


ズン。


もう一度。


通路の奥、暗がりの向こうで、何か大きなものが動いていた。

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