第3節 聞こえるはずのない足音
ズン。
重い音が、通路の奥から響いた。
石床がわずかに震え、壁に埋まった淡い鉱石の光が揺れる。新人達は一瞬で言葉を失った。
角兎でも、石虫でも、小型粘体でもない。
初級ダンジョンで聞く音ではなかった。
「……な、何ですか、今の」
エルンの声が震えた。ワンドを握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。
トマは盾を構えようとして、盾先を揺らした。リックは槍を握り直し、前に出ようとする。ミナは奥を見ようとして足を止めた。リリは全員を見ようとして、視線だけが忙しく動いている。
このままだと崩れる。
シャーロットは息を吸った。
「全員、私の声を聞いてください」
声は、思ったより静かに出た。
通路に反響しても、尖らない。新人達の視線が、彼女へ戻る。
「トマさん、最後尾に。盾は後ろではなく斜め後ろへ向けてください。追ってくるものを止めるためです。リックさんは私の左。槍を構えたまま、前に出ないでください。ミナさんは足元と横道だけ確認。奥は見なくていいです」
「は、はい!」
「エルンさん、詠唱はしないで魔力を抑えて。リリさん、全員の呼吸を見てください。走らせすぎないように」
返事は揃わなかった。
それでも、新人達は動いた。
ズン。
また足音。
さっきより近い。
湿った石の匂いに、獣の体臭のような重い臭いが混じる。新人達の顔から血の気が引いた。
シャーロットは探知を狭く深く通す。
通路の奥。
大型の人型魔物。
肩幅は通常のオーガより広い。魔力核が濃い。体内の魔力が歪み、筋肉と骨格が変質している。
変異種。
シャーロットの指先が冷えた。
さらに探る。胸部にあるはずの核がない。額でもない。首の付け根から頭蓋の奥へ、ずれている。
胴を狙えば外れる。
頭を狙っても、骨に阻まれる。
新人達では無理だ。
「シャーロットさん……」
リリが小さく呼んだ。
シャーロットは振り返らずに答える。
「大丈夫です。帰ります」
ズンッ。
暗がりの奥で、何かが壁にぶつかった。石片が飛び、ガラガラと床を転がる。
次の瞬間、太い腕が通路の角から現れた。
灰黒い皮膚。膨れ上がった筋肉。爪のように伸びた指。壁を掴んだだけで、石がめり、と嫌な音を立てて欠ける。
新人達が息を呑む。
「オーガ……?」
トマが呟いた。
だが、現れたものは彼らが知るオーガより大きかった。
頭は天井近くまで届き、肩が通路に擦れている。片目は濁り、もう片方は赤黒く光っていた。口元から漏れる息は白く濁り、皮膚の下で魔力の筋が脈打っている。
グォォォォ……。
低い唸り声が、腹の底に響いた。
「変異オーガ……!」
ミナの声が裏返る。
リックが一歩前に出かけた。
「下がって」
シャーロットの声が飛ぶ。
リックの足が止まった。
直後、変異オーガの腕が横薙ぎに振られる。
ブォンッ!
空気が裂けた。
リックが半歩でも前に出ていれば、直撃していた。腕は通路の壁を抉り、石片が散弾のように飛ぶ。
「きゃっ!」
リリが身をすくめた。
シャーロットが指を動かす。飛んできた石片の前に薄い結界が一瞬だけ浮かび、カン、カン、カンッ、と乾いた音を立てて弾いた。
「止まらないで。今のうちに下がります」
「で、でも、シャーロットさんは!」
「すぐ追いつきます」
「でも……!」
変異オーガが吠えた。
ゴアアアアアアッ!
轟く声に、空気が震える。
新人達の膝がすくんだ。エルンの魔力が乱れ、ワンドの先に小さな火花が散る。暴発しかけている。
シャーロットは振り返らずに言った。
「エルンさん、息を吐いて」
「え……」
「吸わなくていいです。吐いて。ゆっくり」
「は、はい……!」
エルンが震えながら息を吐く。
火花が消えた。
「リリさん、エルンさんの肩を軽く叩いてあげてください。大丈夫だと伝えるだけでいいです」
リリははっとして、エルンの肩に手を置いた。
「大丈夫。大丈夫だから」
「う、うん」
「ミナさん、左の通路に罠は?」
「な、ないです。さっき確認しました」
「もう一度、足元だけ見てください」
「はい!」
「トマさん、盾を構えたまま下がる時、足を交差しないで。リックさんはトマさんの右後ろ。私が合図したら、二人はそのまま左通路へ入ってください」
「はい!」
指示を出しながら、シャーロットは一歩前へ出た。
怖くないわけではない。
けれど今、怖がる順番は最後でいい。
変異オーガの赤黒い目が、シャーロットを捉える。
「こっちです」
シャーロットは静かに言った。
変異オーガが地面を蹴る。
ドンッ!
石床が砕けた。
巨体が通路いっぱいに迫る。速い。大きさに似合わない速さだった。新人達が悲鳴を上げる間もない。
シャーロットの手が、腰のワンドへ伸びる。
最初に指先が触れたのは、銀翼を出る時に渡された古いワンドだった。
濁った魔石。傷だらけの軸。
いつもの癖で、握りかける。
けれど、すぐに手を止めた。
道具に無理をさせるな。
アクセルの声が、頭をよぎる。
シャーロットは古いワンドから手を離し、獅子の咆哮で用意された予備ワンドを抜いた。
大きな魔法陣は出さない。
強い魔力も流しすぎない。
ここで大きく撃てば、通路ごと崩れる。今必要なのは、倒すことではない。
まず、止める。
彼女の足元に、薄い魔法陣が一つだけ浮かんだ。
一層。
ただ一枚の結界。
変異オーガの拳が、そこへ叩きつけられる。
ズンッ――!
重い衝撃が走った。
床石がびしりと鳴り、壁の鉱石が震え、天井から細かな砂が落ちる。新人達の体が後ろへ押されるほどの圧だった。
だが、結界は割れなかった。
変異オーガの拳だけが、透明な壁に押し止められている。
新人達は、息を忘れた。
「……え?」
誰かが小さく呟く。
変異オーガが唸り、もう一度拳を振り上げる。
シャーロットは結界越しにその動きを見ながら、後ろへ声を飛ばした。
「今です。左通路へ。走らないで、でも急いで」
「は、はい!」
新人達が動く。
トマが盾を構えたまま下がり、リックが横を支える。ミナが先導し、リリがエルンの背中を押す。
全員が左通路へ入ったのを確認して、シャーロットは少しだけ息を吐いた。
まず、正面から外せた。
変異オーガの二撃目が落ちる。
ゴォンッ!
拳が結界を打つ。
音だけなら、岩盤が割れたようだった。
けれど、一層の結界はそこにある。
左通路の入口で、トマが震えた声を漏らした。
「一枚……ですよね?」
リックが口を開けたまま頷く。
「一枚、だよな……?」
エルンはワンドを握ったまま、完全に固まっていた。
「結界って、重ねて張るものじゃ……」
誰も答えられなかった。
シャーロットだけが、変異オーガから目を離さない。
「皆さん、そのまま待機してください」
声はまだ静かだった。
「これから少し、危ない音がします」
新人達は返事ができなかった。
その頃、ダンジョン入口。
アメリアは、連絡用の魔道具から漏れた声に表情を変えていた。
『変異オーガ……!』
『左通路へ!』
『結界が――』
途切れ途切れの声。
遠くから響く轟音。
石壁を伝って届く、重い振動。
アメリアは即座に立ち上がった。
「ガルド!」
「分かってる」
ガルドはすでに大剣に手をかけていた。
アメリアは入口の青白い膜へ向かう。
「救援に入るわ。新人達を最優先で保護する」
「シャーロットは?」
「助けに行くに決まっているでしょう」
その声に迷いはなかった。
アメリアがダンジョンへ駆け込む。ガルドも続いた。
通路の奥から、また轟音が響く。
ゴォンッ!
結界を殴る音だった。
入口の青白い膜が、遅れて大きく揺れた。




