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第3節 変異オーガ①

ズン。


重い音が、通路の奥から響いた。


石床がわずかに震え、壁に埋まった淡い鉱石の光が揺れる。新人達は一瞬で言葉を失った。角兎でも、石虫でも、小型粘体でもない。初級ダンジョンで聞くはずのない足音だった。


「……な、何ですか、今の」


エルンの声が震えた。ワンドを握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。トマは盾を構えようとしたが、その盾先がわずかに揺れていた。リックは槍を握り直し、前に出ようとする。ミナは奥を見ようとして、逆に足が止まっている。リリは全員を見ようとして視線が泳いだ。


シャーロットは、その全部を見た。


恐怖で視野が狭くなっている。前衛が前に出すぎる。斥候が情報を取りに行こうとしている。魔法使いの魔力が乱れている。補助役は優先順位を決められていない。


このままだと、崩れる。


「全員、私の声を聞いてください」


シャーロットの声は、驚くほど静かだった。


低すぎず、高すぎず、よく通る。通路に反響しても、耳に刺さらない。それだけで、新人達の視線が彼女へ戻る。


「トマさん、最後尾に。盾は後ろではなく斜め後ろへ向けてください。追ってくるものを止めるためです。リックさんは私の左。槍を構えたまま、前に出ないでください。ミナさんは足元と横道だけ確認。奥は見なくていいです。エルンさん、詠唱はしないで魔力を抑えて。リリさん、全員の呼吸を見てください。走らせすぎないように」


「は、はい!」


返事は揃っていない。けれど、動き出した。


ズン。


また足音。


さっきより近い。通路の奥から、濃い魔力が押し寄せてくる。湿った石の匂いに、獣の体臭のような重い臭いが混じった。新人達の顔が青ざめる。


シャーロットは探知を狭く深く通した。


通路の奥、大型の人型魔物。肩幅は通常のオーガより広い。魔力核が異様に濃い。初級ダンジョンに紛れ込んだ通常個体ではない。体内の魔力が歪み、筋肉と骨格が変質している。


変異種。


しかも、ただの変異オーガではない。魔力核、つまりコアが胸部ではなく頭部寄りに移動している。額ではない。頭蓋の奥、首の付け根から上へずれた位置。普通に頭を砕こうとすれば、分厚い骨と筋肉に阻まれる。胴を狙えば外れる。


新人達では無理だ。


「シャーロットさん……」


リリが小さく呼んだ。


「大丈夫です」


シャーロットは即答した。


「皆さんは無事に帰れます」


その言い方は、励ましではなかった。決定事項のようだった。


ズンッ。


暗がりの奥で、何かが壁にぶつかった。石片が飛び、ガラガラと床を転がる。次の瞬間、太い腕が通路の角から現れた。灰黒い皮膚。膨れ上がった筋肉。爪のように伸びた指。壁を掴んだだけで、石がめり、と嫌な音を立てて欠ける。


新人達が息を呑んだ。


「オーガ……?」


トマが呟いた。


だが、姿を現したものは、彼らが知るオーガよりも大きかった。頭が天井近くまで届き、肩が通路に擦れている。片目は濁り、もう片方は赤黒く光っていた。口元から漏れる息が、白く濁っている。体のあちこちに魔力の筋が走り、皮膚の下で脈打っていた。


グォォォォ……。


低い唸り声が、腹の底に響く。


「変異オーガ……!」


ミナの声が裏返った。


初級ダンジョンに出るはずがない。新人教育任務で遭遇していい魔物ではない。中堅冒険者の班でも、準備なしで出会えば撤退を選ぶ相手だ。


リックが一歩前に出かけた。


「下がって」


シャーロットの声が飛ぶ。


それだけで、リックの足が止まった。直後、変異オーガの腕が横薙ぎに振られる。


ブォンッ!


空気が裂けた。リックが半歩でも前に出ていれば、直撃していた。腕は通路の壁を抉り、石片が散弾のように飛ぶ。


「きゃっ!」


リリが身をすくめる。シャーロットが指を動かすと、飛んできた石片の前に薄い結界が一瞬だけ浮かび、カン、カン、カンッ、と乾いた音を立てて弾いた。


「止まらないで。今のうちに下がります」


「で、でも、シャーロットさんは!」


「私は後で行きます」


「後でって……!」


変異オーガが吠えた。


ゴアアアアアアッ!


轟く声に、空気が震える。新人達の膝がすくんだ。エルンの魔力が乱れ、ワンドの先に小さな火花が散る。暴発しかけている。


シャーロットは振り返らずに言った。


「エルンさん、息を吐いて」


「え……」


「今、魔力が詰まっています。吸わなくていいです。吐いて。ゆっくり」


「は、はい……!」


エルンが震えながら息を吐く。火花が消えた。


「リリさん、エルンさんの肩を軽く叩いてあげてください。大丈夫だと伝えるだけでいいです」


リリははっとして、エルンの肩に手を置いた。


「大丈夫。大丈夫だから」


「う、うん」


「ミナさん、左の通路に罠は?」


「な、ないです。さっき確認しました」


「もう一度、足元だけ見てください」


「はい!」


「トマさん、盾を構えたまま下がる時、足を交差しないで。リックさんはトマさんの右後ろ。もし私が合図したら、二人はそのまま左通路へ入ってください」


「はい!」


指示を出しながら、シャーロットは一歩前へ出た。


変異オーガが、それに反応する。


赤黒い目がシャーロットを捉えた。獲物を見つけた獣の目ではない。強い魔力へ引き寄せられる魔物の本能。シャーロットの中にある膨大な魔力を、変異オーガは餌か敵として認識した。


「こっちです」


シャーロットは静かに言った。


変異オーガが地面を蹴る。


ドンッ!


石床が砕けた。巨体が通路いっぱいに迫る。速い。大きさに反して、異様に速い。新人達が悲鳴を上げる間もない。


シャーロットはワンドを上げた。


古いワンドの濁った魔石に、淡い光が宿る。大きな魔法陣は出さない。強い魔力も流さない。今ここで大きく撃てば、通路ごと崩れる。新人達を守るために必要なのは、倒すことではなく、まず止めること。


彼女の足元に、薄い魔法陣が一つだけ浮かんだ。


一層。


ただ一枚の結界。


変異オーガの拳が、そこへ叩きつけられる。


ズンッ――!


重い衝撃が走った。床石がびしりと鳴り、壁の鉱石が震え、天井から細かな砂が落ちる。新人達の体が後ろへ押されるほどの圧だった。


だが、結界は割れなかった。


揺れもしなかった。


まるで透明な城壁がそこにあるかのように、変異オーガの拳だけが止まっている。


新人達は、息を忘れた。


「……え?」


誰かが小さく呟いた。


変異オーガが唸り、もう一度拳を振り上げる。シャーロットは結界越しにその動きを見ながら、後ろへ声を飛ばした。


「今です。左通路へ。走らないで、でも急いで」


「は、はい!」


新人達が動く。


トマが盾を構えたまま下がり、リックが横を支える。ミナが先導し、リリがエルンの背中を押す。全員が左通路へ入ったのを確認して、シャーロットは少しだけ息を吐いた。


第一段階は終わった。


新人達は、変異オーガの正面から外れた。


あとは、この魔物をどう処理するか。


変異オーガの二撃目が落ちる。


ゴォンッ!


拳が結界を打つ。音だけなら、岩盤が割れたようだった。だが一層の結界は、なおもそこにある。


左通路の入口で、トマが震えた声を漏らした。


「一枚……ですよね?」


リックが口を開けたまま頷く。


「一枚、だよな……?」


エルンはワンドを握ったまま、完全に固まっていた。


普通の結界は、多層で張る。薄い層を何枚も重ね、衝撃を分散させる。学院でも、ギルドの講習でも、そう教わる。強い結界ほど層が多く、安定した結界ほど衝撃を逃がす構造を持つ。


だがシャーロットの結界は一枚だった。


薄く見える。


なのに、変異オーガの拳を受け止めている。


「皆さん、そのまま待機してください」


シャーロットは変異オーガから目を離さずに言った。


「これから少し、危ない音がします」


新人達は返事ができなかった。


その頃、ダンジョン入口。


アメリアは連絡用の魔道具から流れ込んできた声に、表情を変えていた。


『変異オーガ……!』

『左通路へ!』

『結界が――』


途切れ途切れの声。遠くから響く轟音。初級ダンジョンではあり得ない衝撃。


アメリアは即座に立ち上がった。


「ガルド!」


「分かってる」


ガルドはすでに大剣に手をかけていた。


アメリアの判断は早かった。入口待機の予定は終わりだ。試験どころではない。初級ダンジョンに変異オーガが出たなら、これは緊急事態だ。


「救援に入るわ。新人達を最優先で保護する」


「シャーロットは?」


「彼女なら生きてる。でも、だから放置していい理由にはならない」


アメリアは短くそう言って、ダンジョンへ駆け込んだ。


通路の奥から、また轟音が響く。


ゴォンッ!


それは結界を殴る音だった。


だがアメリアには、まだ分からない。


その先で、ボロいローブの魔法使いが一枚の結界だけで変異オーガを止めていることを。


そして、その魔法使いが、恐怖で動けなくなった新人達を一人も傷つけずに帰すため、すでに次の一手を計算していることを。

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