表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/93

第3節 聞こえるはずのない足音

ズン。


重い音が、通路の奥から響いた。


石床がわずかに震え、壁に埋まった淡い鉱石の光が揺れる。新人達は一瞬で言葉を失った。


角兎でも、石虫でも、小型粘体でもない。


初級ダンジョンで聞く音ではなかった。


「……な、何ですか、今の」


エルンの声が震えた。ワンドを握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。


トマは盾を構えようとして、盾先を揺らした。リックは槍を握り直し、前に出ようとする。ミナは奥を見ようとして足を止めた。リリは全員を見ようとして、視線だけが忙しく動いている。


このままだと崩れる。


シャーロットは息を吸った。


「全員、私の声を聞いてください」


声は、思ったより静かに出た。


通路に反響しても、尖らない。新人達の視線が、彼女へ戻る。


「トマさん、最後尾に。盾は後ろではなく斜め後ろへ向けてください。追ってくるものを止めるためです。リックさんは私の左。槍を構えたまま、前に出ないでください。ミナさんは足元と横道だけ確認。奥は見なくていいです」


「は、はい!」


「エルンさん、詠唱はしないで魔力を抑えて。リリさん、全員の呼吸を見てください。走らせすぎないように」


返事は揃わなかった。


それでも、新人達は動いた。


ズン。


また足音。


さっきより近い。


湿った石の匂いに、獣の体臭のような重い臭いが混じる。新人達の顔から血の気が引いた。


シャーロットは探知を狭く深く通す。


通路の奥。


大型の人型魔物。


肩幅は通常のオーガより広い。魔力核が濃い。体内の魔力が歪み、筋肉と骨格が変質している。


変異種。


シャーロットの指先が冷えた。


さらに探る。胸部にあるはずの核がない。額でもない。首の付け根から頭蓋の奥へ、ずれている。


胴を狙えば外れる。


頭を狙っても、骨に阻まれる。


新人達では無理だ。


「シャーロットさん……」


リリが小さく呼んだ。


シャーロットは振り返らずに答える。


「大丈夫です。帰ります」


ズンッ。


暗がりの奥で、何かが壁にぶつかった。石片が飛び、ガラガラと床を転がる。


次の瞬間、太い腕が通路の角から現れた。


灰黒い皮膚。膨れ上がった筋肉。爪のように伸びた指。壁を掴んだだけで、石がめり、と嫌な音を立てて欠ける。


新人達が息を呑む。


「オーガ……?」


トマが呟いた。


だが、現れたものは彼らが知るオーガより大きかった。


頭は天井近くまで届き、肩が通路に擦れている。片目は濁り、もう片方は赤黒く光っていた。口元から漏れる息は白く濁り、皮膚の下で魔力の筋が脈打っている。


グォォォォ……。


低い唸り声が、腹の底に響いた。


「変異オーガ……!」


ミナの声が裏返る。


リックが一歩前に出かけた。


「下がって」


シャーロットの声が飛ぶ。


リックの足が止まった。


直後、変異オーガの腕が横薙ぎに振られる。


ブォンッ!


空気が裂けた。


リックが半歩でも前に出ていれば、直撃していた。腕は通路の壁を抉り、石片が散弾のように飛ぶ。


「きゃっ!」


リリが身をすくめた。


シャーロットが指を動かす。飛んできた石片の前に薄い結界が一瞬だけ浮かび、カン、カン、カンッ、と乾いた音を立てて弾いた。


「止まらないで。今のうちに下がります」


「で、でも、シャーロットさんは!」


「すぐ追いつきます」


「でも……!」


変異オーガが吠えた。


ゴアアアアアアッ!


轟く声に、空気が震える。


新人達の膝がすくんだ。エルンの魔力が乱れ、ワンドの先に小さな火花が散る。暴発しかけている。


シャーロットは振り返らずに言った。


「エルンさん、息を吐いて」


「え……」


「吸わなくていいです。吐いて。ゆっくり」


「は、はい……!」


エルンが震えながら息を吐く。


火花が消えた。


「リリさん、エルンさんの肩を軽く叩いてあげてください。大丈夫だと伝えるだけでいいです」


リリははっとして、エルンの肩に手を置いた。


「大丈夫。大丈夫だから」


「う、うん」


「ミナさん、左の通路に罠は?」


「な、ないです。さっき確認しました」


「もう一度、足元だけ見てください」


「はい!」


「トマさん、盾を構えたまま下がる時、足を交差しないで。リックさんはトマさんの右後ろ。私が合図したら、二人はそのまま左通路へ入ってください」


「はい!」


指示を出しながら、シャーロットは一歩前へ出た。


怖くないわけではない。


けれど今、怖がる順番は最後でいい。


変異オーガの赤黒い目が、シャーロットを捉える。


「こっちです」


シャーロットは静かに言った。


変異オーガが地面を蹴る。


ドンッ!


石床が砕けた。


巨体が通路いっぱいに迫る。速い。大きさに似合わない速さだった。新人達が悲鳴を上げる間もない。


シャーロットの手が、腰のワンドへ伸びる。


最初に指先が触れたのは、銀翼を出る時に渡された古いワンドだった。


濁った魔石。傷だらけの軸。


いつもの癖で、握りかける。


けれど、すぐに手を止めた。


道具に無理をさせるな。


アクセルの声が、頭をよぎる。


シャーロットは古いワンドから手を離し、獅子の咆哮で用意された予備ワンドを抜いた。


大きな魔法陣は出さない。


強い魔力も流しすぎない。


ここで大きく撃てば、通路ごと崩れる。今必要なのは、倒すことではない。


まず、止める。


彼女の足元に、薄い魔法陣が一つだけ浮かんだ。


一層。


ただ一枚の結界。


変異オーガの拳が、そこへ叩きつけられる。


ズンッ――!


重い衝撃が走った。


床石がびしりと鳴り、壁の鉱石が震え、天井から細かな砂が落ちる。新人達の体が後ろへ押されるほどの圧だった。


だが、結界は割れなかった。


変異オーガの拳だけが、透明な壁に押し止められている。


新人達は、息を忘れた。


「……え?」


誰かが小さく呟く。


変異オーガが唸り、もう一度拳を振り上げる。


シャーロットは結界越しにその動きを見ながら、後ろへ声を飛ばした。


「今です。左通路へ。走らないで、でも急いで」


「は、はい!」


新人達が動く。


トマが盾を構えたまま下がり、リックが横を支える。ミナが先導し、リリがエルンの背中を押す。


全員が左通路へ入ったのを確認して、シャーロットは少しだけ息を吐いた。


まず、正面から外せた。


変異オーガの二撃目が落ちる。


ゴォンッ!


拳が結界を打つ。


音だけなら、岩盤が割れたようだった。


けれど、一層の結界はそこにある。


左通路の入口で、トマが震えた声を漏らした。


「一枚……ですよね?」


リックが口を開けたまま頷く。


「一枚、だよな……?」


エルンはワンドを握ったまま、完全に固まっていた。


「結界って、重ねて張るものじゃ……」


誰も答えられなかった。


シャーロットだけが、変異オーガから目を離さない。


「皆さん、そのまま待機してください」


声はまだ静かだった。


「これから少し、危ない音がします」


新人達は返事ができなかった。


その頃、ダンジョン入口。


アメリアは、連絡用の魔道具から漏れた声に表情を変えていた。


『変異オーガ……!』


『左通路へ!』


『結界が――』


途切れ途切れの声。


遠くから響く轟音。


石壁を伝って届く、重い振動。


アメリアは即座に立ち上がった。


「ガルド!」


「分かってる」


ガルドはすでに大剣に手をかけていた。


アメリアは入口の青白い膜へ向かう。


「救援に入るわ。新人達を最優先で保護する」


「シャーロットは?」


「助けに行くに決まっているでしょう」


その声に迷いはなかった。


アメリアがダンジョンへ駆け込む。ガルドも続いた。


通路の奥から、また轟音が響く。


ゴォンッ!


結界を殴る音だった。


入口の青白い膜が、遅れて大きく揺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ