第4節 変異オーガ②
ゴォンッ!
三度目の拳が、シャーロットの結界を叩いた。重い衝撃が石床を伝って走り、左通路に避難した新人達の足元まで震わせる。天井からぱらぱらと砂が落ち、壁に埋まった発光鉱石が明滅した。
それでも、結界は割れない。
透明な一枚の膜が、変異オーガの巨腕を真正面から受け止め続けている。普通なら、多層障壁を何枚も重ねて衝撃を逃がす場面だ。だがシャーロットの結界は一枚だけだった。見た目は薄い。新人達が授業で最初に習うような、単純な一層障壁にしか見えない。
なのに、変異オーガの拳は通らない。
「お、おかしいだろ……」
リックが震えた声で呟いた。
トマは盾を構えたまま、言葉を失っていた。彼は前衛だからこそ分かる。あの拳を盾で受けたら、盾ごと腕が折れる。いや、腕だけで済めばいい。体ごと壁に叩きつけられても不思議ではない。そんな一撃を、シャーロットは細いワンド一本で受け止めている。
しかも、平然と。
「皆さん、少し目を閉じる準備をしてください」
シャーロットの声が通路に響いた。
新人達は反射的に彼女を見る。こんな状況で、声が乱れていない。焦ってもいない。怒鳴ってもいない。ただ、次に必要なことを伝えている。
「強い光を使います。合図をしたら、目を伏せてください。耳も少し塞いだ方がいいです」
「み、耳もですか?」
エルンが震えながら聞いた。
「はい。音が出ます」
音が出る。
その言い方があまりに静かだったせいで、新人達は逆に怖くなった。
変異オーガが口を開いた。喉の奥に赤黒い魔力が集まる。咆哮だけではない。体内の魔力を声に乗せて、前方を押し潰す衝撃波にしようとしている。
初級ダンジョンの通路でそんなものを放たれれば、新人達は立っていられない。鼓膜が破れ、平衡感覚を失い、恐慌状態になる。
シャーロットは一歩前へ出た。
「駄目です」
短い言葉。
次の瞬間、彼女の足元から細い魔法陣が伸びた。大きく広がるのではなく、床石の目地をなぞるように変異オーガの足元へ走る。土属性の固定。風属性の圧縮。さらに薄い結界で通路の反響を抑える。新人達には何が起きているか分からない。ただ、変異オーガの唸り声が不自然に低く押し潰されたことだけが分かった。
グ、ォ……ッ。
咆哮になりきらなかった音が、喉の奥で詰まる。
シャーロットはその一瞬を逃さなかった。
彼女の視線は、変異オーガの額には向いていない。胸でもない。分厚い筋肉の奥、頭蓋のさらに奥、首の付け根から上へずれた位置。歪んだ魔力が渦を巻いている一点。
コア。
通常個体なら胸部にあることが多い魔力核が、この変異種では頭部寄りにずれている。表面からは見えない。額を撃っても届かない。胸を貫いても外れる。骨と筋肉、暴走した魔力の層。そのすべてを読み、最短の線を通さなければならない。
「目を伏せてください」
シャーロットが言った。
新人達が慌てて目を伏せる。
その瞬間、彼女の古いワンドの魔石が白く輝いた。
炎ではない。
雷でもない。
爆発でもない。
ただ、細く、硬く、極限まで圧縮された光だった。ワンドの先端に集まった光は、球にも刃にも見えない。針に近い。けれどただの針ではない。膨大な魔力を、髪の毛ほどの細さに絞り込み、ぶれることなく一点へ向けている。
変異オーガが本能的に危険を察した。
巨体をひねる。腕を上げる。頭を守ろうとする。だが遅い。
シャーロットは、静かに撃った。
バシュンッ――ゴォンッ!
音が二つ重なった。
最初の音は、光が空気を貫いた音。細い白線が通路を走り、変異オーガの額の少し下、眉間でも喉でもない奇妙な一点を通り抜ける。次の音は、内部のコアが撃ち抜かれた音だった。肉を焼く音でも、骨を砕く音でもない。高密度の魔力核が内側から潰れ、圧縮された魔力が逃げ場を失って沈黙する、重く鈍い轟音。
変異オーガの背後の壁は壊れていない。
通路も崩れていない。
新人達にも傷はない。
ただ、変異オーガの体だけが止まっていた。
赤黒く光っていた片目から、光が消える。膨れ上がっていた筋肉が一瞬震え、全身を走っていた魔力の筋がぶつぶつと途切れていく。巨体はゆっくりと膝をついた。
ズゥン……。
石床が鳴る。
それから、前のめりに崩れた。
ドォンッ!
衝撃で砂埃が舞い上がる。新人達は耳を塞いだまま、恐る恐る顔を上げた。
そこには、倒れた変異オーガがいた。
頭部が吹き飛んでいるわけではない。体が爆散しているわけでもない。外見上の破壊は、額の下に開いた小さな焦げ跡だけ。だが、魔物としての反応は完全に消えていた。
コアだけを撃ち抜かれていた。
「……終わり、ました?」
リリの声が震えた。
シャーロットは変異オーガの反応を確認し、静かに頷く。
「はい。もう動きません」
誰もすぐには動けなかった。
トマは盾を持ったまま座り込みそうになり、リックは槍を落としかけた。ミナは口元を押さえ、エルンは自分のワンドとシャーロットのワンドを交互に見ている。補助役のリリだけが、かろうじて全員の怪我を確認しようとしていたが、その手も震えていた。
その時、通路の向こうから足音が響いた。
「シャーロット!」
アメリアの声だった。
彼女は息を切らしながら角を曲がり、倒れた変異オーガと新人達、そして一人だけ前に立つシャーロットを見た。
状況は一目で分かった。
新人は全員生きている。軽い擦り傷こそあるが、致命傷はない。恐怖で固まってはいるが、隊列は完全には崩れていない。変異オーガは倒れている。通路は崩れていない。壁も天井も無事。味方への被害は最小限。
そしてシャーロットは、古いローブのまま、粗末なワンドを握って立っていた。
アメリアは一瞬、言葉を失った。
聞いてはいた。
ガルドから、彼女は異常だと聞いていた。学校時代、一度も勝てなかったと聞いていた。銀翼の評価がおかしいのだろうとも思っていた。
けれど、見るのと聞くのとでは違った。
初級ダンジョンに出るはずのない変異オーガ。新人五人。狭い通路。崩落の危険。恐怖で動けない未熟な冒険者達。
その全部を抱えた状態で、シャーロットは周囲を壊さず、誰も巻き込まず、コアだけを撃ち抜いた。
圧倒的な火力ではない。
いや、火力も圧倒的だった。
けれど、それ以上に異常なのは制御だった。
「……聞いてはいたけど」
アメリアは小さく呟いた。
「何、あの子」
その声には、恐怖だけではない。驚き。困惑。そして、それ以上の高揚が混じっていた。
見つけた。
そんな感覚があった。
Aランククランが、さらに上を目指すために必要なもの。力だけではない。新人を守れる判断力。恐怖の中で声を通す冷静さ。戦場を壊さずに終わらせる制御。そして、誰かを死なせないために迷わず前へ出る性質。
アメリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
これは、とんでもない人材だ。
横から遅れて駆け込んできたガルドが、倒れた変異オーガを見て、次にシャーロットを見た。
「終わってるじゃねえか」
「はい。皆さん無事です」
「そっちじゃねえ。いや、そっちが一番大事だが」
ガルドは頭を抱えた。
シャーロットは少しだけ困ったように笑う。
「通路が狭かったので、あまり大きな魔法は使えませんでした」
新人達が一斉に彼女を見た。
あれで。
あの光で。
変異オーガを一撃で沈黙させておいて。
あまり大きな魔法は使えなかった。
エルンが小さく呟く。
「……魔法使いって、何でしたっけ」
リックが力なく答えた。
「俺に聞くな……」
アメリアは一歩前に出た。
「新人全員、怪我の確認。リリ、できる?」
「は、はい!」
「トマとリックは変異オーガから距離を取って警戒。ミナは周囲確認。ただし奥へは行かない。エルンは魔力を落ち着けて。深呼吸」
アメリアの指示で、新人達がようやく動き始める。
シャーロットはそれを見て、ほっとしたように息を吐いた。
その瞬間だった。
ピシッ。
小さな音がした。
シャーロットの手元から。
彼女が握っていた古いワンドの魔石に、細い亀裂が入っていた。白く光っていた魔石が濁り、軸の部分にもひびが走る。
ピキ、ピシッ。
さらに音が重なる。
シャーロットは目を伏せた。
「あ……」
ガルドの顔色が変わる。
「ワンドを離せ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃ――」
パキン。
乾いた音を立てて、ワンドの魔石が割れた。
軸も途中から裂け、先端が力なく傾く。先ほどまで変異オーガを止め、コアを撃ち抜く光を通した粗末なワンドは、そこで完全に限界を迎えた。
新人達が青ざめる。
「ワンドが……!」
「シャーロットさん!」
だが、シャーロットは慌てなかった。
腰に差していた予備の貸与ワンドを、すぐに抜く。流れるような動作だった。壊れたワンドを左手に持ち替え、右手で予備ワンドを構える。周囲の探知。結界の再展開。新人達の位置確認。変異オーガの沈黙確認。すべてを同時に行う。
「皆さん、そのまま動かないでください。周囲を確認します」
声は変わらない。
ワンドが壊れても、彼女は現場を止めなかった。
アメリアはその動きに、また息を呑んだ。
壊れたワンドに驚くより先に、安全確認を続けている。戦闘後こそ事故が起こると知っている動きだ。勝ったから終わりではない。新人が安心して動いてしまう前に、周囲を押さえる。撤退路を見る。怪我人を見る。魔物の残存反応を見る。
完全に現場慣れしている。
それも、自分が称賛される側の動きではない。
誰かを帰す側の動きだった。
しばらくして、シャーロットは静かに頷いた。
「周囲に大きな反応はありません。撤退できます」
「よし。全員、撤退準備」
アメリアが指示を出す。
新人達が動き始める中、シャーロットは壊れたワンドを両手で包んだ。割れた魔石。裂けた軸。もう魔力は通らない。銀翼から渡されたばかりの餞別のワンド。粗末で、古くて、魔石も濁っていた。それでも、さっきまで自分の魔法を通してくれた。
シャーロットは小さく頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
その声は、本当に静かだった。
アメリアの胸が、強く痛んだ。
こんな道具で、戦わせていたのか。
いや、銀翼はこれを餞別として渡した。十年所属した魔法使いに。攻撃魔法使いとして評価が低いと切り捨てた相手に。変異オーガのコアを撃ち抜けるような魔法使いに。
粗末なワンド一本を持たせて。
アメリアは唇を引き結んだ。
怒りと同時に、別の感情が湧いてくる。
この子には、ちゃんとした装備が必要だ。
普通の装備では足りないかもしれない。いや、今見た魔力の密度と制御を考えれば、普通の高級品でも怪しい。けれど少なくとも、こんな壊れかけの道具を「まだ使える」と言わせてはいけない。
ガルドも同じことを考えていたのだろう。倒れた変異オーガよりも、壊れたワンドを見つめるシャーロットの横顔を見て、低く呟いた。
「……帰ったら、鍛冶師と魔導具職人を呼ぶ」
アメリアは頷いた。
「ええ。最優先で」
シャーロットは不思議そうに二人を見る。
「あの、予備ワンドがありますので、しばらくは大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
ガルドとアメリアの声が重なった。
新人達は、そのやり取りを聞きながら、ようやく理解し始めていた。
自分達は今、とんでもないものを見たのだと。
そして、この人が銀翼の剣で役立たずと呼ばれていたことが、どれほどおかしな話なのかを。




