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第4節 一枚の結界

ゴォンッ!


三度目の拳が、シャーロットの結界を叩いた。


重い衝撃が石床を伝い、左通路に避難した新人達の足元まで震わせる。天井から砂が落ち、壁に埋まった発光鉱石が明滅した。


それでも、結界は割れない。


透明な一枚の膜が、変異オーガの巨腕を真正面から受け止めている。見た目は薄い。新人達が講習で最初に習うような、一層の障壁にしか見えない。


けれど、拳は通らない。


「お、おかしいだろ……」


リックが震えた声で呟いた。


トマは盾を構えたまま、言葉を失っている。前衛だからこそ分かる。あの拳を盾で受けたら、腕ごと持っていかれる。壁に叩きつけられても不思議ではない。


その一撃を、シャーロットは止めていた。


「皆さん、目を伏せる準備をしてください」


シャーロットの声が通路に響いた。


新人達は反射的に彼女を見る。


「強い光を使います。合図をしたら、目を伏せてください。耳も少し塞いだ方がいいです」


「み、耳もですか?」


エルンが震えながら聞く。


「はい。音が出ます」


エルンの喉がこくりと鳴った。


変異オーガが口を開く。喉の奥に赤黒い魔力が集まっていた。


咆哮ではない。


衝撃を乗せた声だ。


あれを通路の中で放たれれば、新人達は立っていられない。耳をやられ、平衡感覚を失い、逃げる方向すら分からなくなる。


シャーロットは一歩前へ出た。


「駄目です」


短い言葉と同時に、彼女の足元から細い魔法陣が伸びる。


大きく広がるのではない。床石の目地をなぞるように走り、変異オーガの足元へ届く。土属性の固定。風属性の圧縮。さらに薄い結界が、通路の反響を押さえ込んだ。


グ、ォ……ッ。


咆哮になりきらなかった音が、喉の奥で潰れる。


シャーロットは、その一瞬を逃さなかった。


右手の予備ワンドは、結界を維持したまま離せない。


だから左手を、腰の古いワンドへ伸ばした。


銀翼を出る時に渡された、濁った魔石のついた一本。


「……少しだけ、お願いします」


小さく呟いて、抜く。


彼女の視線は、変異オーガの額には向いていない。胸でもない。分厚い筋肉の奥、首の付け根から頭蓋の奥へずれた一点。


そこだけ、魔力が歪んでいる。


コア。


胸を撃っても外れる。額を撃っても届かない。


通すなら、細く。


深く。


余計なものを壊さずに。


「目を伏せてください」


シャーロットが言った。


新人達が慌てて目を伏せる。


古いワンドの魔石が白く輝いた。


炎ではない。


雷でもない。


爆発でもない。


ただ、細く、硬く、極限まで絞られた光だった。ワンドの先端に集まった光は、球にも刃にも見えない。針に近い。


変異オーガが巨体をひねる。腕を上げ、頭を守ろうとした。


遅い。


シャーロットは、静かに撃った。


バシュンッ――ゴォンッ!


音が二つ重なった。


白い線が通路を走る。変異オーガの額の少し下、眉間でも喉でもない一点を抜けた。


次の瞬間、巨体の奥で鈍い音が沈む。


背後の壁は壊れていない。


通路も崩れていない。


新人達にも傷はない。


ただ、変異オーガの動きだけが止まった。


赤黒く光っていた片目から、光が消える。膨れ上がっていた筋肉が一度震え、全身を走っていた魔力の筋がぶつぶつと途切れた。


巨体が、ゆっくり膝をつく。


ズゥン……。


石床が鳴った。


それから、前のめりに崩れる。


ドォンッ!


砂埃が舞い上がった。


新人達は耳を塞いだまま、恐る恐る顔を上げる。


倒れた変異オーガの頭部は吹き飛んでいない。体も爆散していない。外見上の破壊は、額の下に開いた小さな焦げ跡だけだった。


「……終わり、ました?」


リリの声が震える。


シャーロットは探知を通し、変異オーガの反応が消えていることを確かめた。


「はい。もう動きません」


誰もすぐには動けなかった。


トマは盾を持ったまま座り込みそうになり、リックは槍を落としかける。ミナは口元を押さえ、エルンは自分のワンドとシャーロットのワンドを交互に見ていた。


リリだけが、震える手で全員の怪我を見ようとしている。


その時、通路の向こうから足音が響いた。


「シャーロット!」


アメリアの声だった。


彼女は息を切らしながら角を曲がり、倒れた変異オーガと新人達、そして一人だけ前に立つシャーロットを見た。


新人は全員生きている。


軽い擦り傷はある。恐怖で固まってもいる。けれど致命傷はない。


通路は崩れていない。


天井も落ちていない。


変異オーガだけが倒れている。


アメリアは一瞬、言葉を失った。


聞いてはいた。


ガルドから、彼女は異常だと聞いていた。銀翼の評価がおかしいのだろうとも思っていた。


けれど、目の前の光景は、その言葉よりずっと静かで、ずっとおかしかった。


「……本当に、何をしたの」


答えを求めた声ではなかった。


横から遅れて駆け込んできたガルドが、倒れた変異オーガを見て、次にシャーロットを見た。


「終わってるじゃねえか」


「はい。皆さん無事です」


「そっちじゃねえ。いや、そっちが一番大事だが」


ガルドは頭を抱えた。


シャーロットは少し困ったように笑う。


「通路が狭かったので、大きな魔法は使えませんでした」


新人達が一斉に彼女を見た。


あれで。


変異オーガを一撃で沈黙させておいて。


大きな魔法ではない。


エルンが小さく呟く。


「……魔法使いって、何でしたっけ」


リックが力なく答えた。


「俺に聞くな……」


アメリアはすぐに表情を戻した。


「新人全員、怪我の確認。リリ、できる?」


「は、はい!」


「トマとリックは変異オーガから距離を取って警戒。ミナは周囲確認。ただし奥へは行かない。エルンは魔力を落ち着けて。深呼吸」


アメリアの指示で、新人達がようやく動き始めた。


シャーロットはそれを見て、ほっとしたように息を吐く。


その瞬間だった。


ピシッ。


小さな音がした。


シャーロットの左手から。


古いワンドの魔石に、細い亀裂が入っていた。白く光っていた魔石が濁り、軸にもひびが走る。


ピキ、ピシッ。


音が重なる。


シャーロットは目を伏せた。


「あ……」


ガルドの顔色が変わる。


「ワンドを離せ」


「大丈夫です」


「大丈夫じゃ――」


パキン。


乾いた音を立てて、魔石が割れた。


軸も途中から裂け、先端が力なく傾く。先ほどまで変異オーガのコアを撃ち抜く光を通していた粗末なワンドは、そこで完全に限界を迎えた。


新人達が青ざめる。


「ワンドが……!」


「シャーロットさん!」


シャーロットは壊れたワンドを左手に持ったまま、右手の予備ワンドで周囲を確認した。


探知。


結界の再展開。


新人達の位置。


変異オーガの沈黙。


奥の通路の魔力反応。


全部を確かめてから、静かに言う。


「皆さん、そのまま動かないでください。周囲を確認します」


声は変わらない。


ワンドが壊れても、現場を止めない。


アメリアは息を呑んだ。


褒められるのを待つ動きではない。驚いて立ち尽くす動きでもない。戦闘後に事故が起きることを知っている動きだった。


しばらくして、シャーロットは頷く。


「周囲に大きな反応はありません。撤退できます」


「よし。全員、撤退準備」


アメリアが指示を出す。


新人達が動き始める中、シャーロットは壊れたワンドを両手で包んだ。


割れた魔石。


裂けた軸。


もう魔力は通らない。


粗末で、古くて、魔石も濁っていた。けれど、さっきまで自分の魔法を通してくれた。


シャーロットは小さく頭を下げる。


「今まで、ありがとうございました」


その声は、本当に静かだった。


アメリアは唇を引き結んだ。


ガルドも、倒れた変異オーガではなく、壊れたワンドを見つめるシャーロットを見ていた。


「……帰ったら、杖職人と魔導具職人を呼ぶ」


アメリアは頷く。


「ええ。最優先で」


シャーロットは不思議そうに二人を見る。


「あの、予備ワンドがありますので、しばらくは大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


ガルドとアメリアの声が重なった。


シャーロットは少しだけ肩を揺らし、壊れたワンドを胸元に寄せた。


新人達は、そのやり取りを聞きながら、誰も笑わなかった。


倒れた変異オーガ。


崩れていない通路。


割れたワンド。


そして、古いローブのまま立っているシャーロット。


エルンは自分のワンドを見下ろし、何も言えないまま握り直した。

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