第5節 割れたワンドと合格
変異オーガが倒れても、シャーロットはすぐに新人達を歩かせなかった。
「まず呼吸を整えましょう。トマさん、盾は下ろして大丈夫です。ただし手放さないでください。リックさん、槍先を下げて。ミナさん、周囲確認は入口側だけでいいです。奥は見ないでください。エルンさん、ワンドを握る手を緩めましょう。リリさん、皆さんの顔色を見てください」
新人達は、ほとんど反射で頷いた。
トマは盾を下ろした途端、自分の腕が震えていることに気付いた。リックは強がろうとしていたが、槍の穂先が小刻みに揺れている。ミナは何度も奥を振り返りかけ、そのたびにシャーロットの声で視線を戻した。
エルンはワンドを握る手を緩めようとして、指が固まっていることに気付く。リリは全員を見ようとして、途中で一度息を吸った。
前衛。
魔法使い。
自分の位置。
さっき教わった順番を、必死に思い出している。
アメリアは口を挟まなかった。
シャーロットの指示は短い。できていないことを責めず、次にすることだけを渡している。恐怖で頭が真っ白になった新人達でも、ぎりぎり動ける長さだった。
「リリさん、怪我の確認をお願いします。擦り傷、打撲、耳の違和感、気分が悪い人。小さいことでも言ってください」
「は、はい!」
リリが一人ずつ確認していく。
トマの腕に石片が掠めた傷。リックの膝に小さな打撲。エルンは咆哮の圧で少し耳鳴りがしている。ミナは転びかけた時に手のひらを擦っていた。リリ自身も肩に小さな傷があった。
重傷者はいない。
シャーロットは予備ワンドを軽く振った。淡い光が手元に集まる。大きな治癒術ではない。傷口を塞ぎ、出血を止め、痛みを少し和らげる程度の応急処置だ。
「本職の治癒術師さんほどではありませんが、応急処置だけしますね」
まずトマの腕。薄く切れた皮膚が静かに塞がり、血が止まる。次にミナの手のひら。リリの肩。リックの膝には冷却と軽い固定をかけた。エルンの耳鳴りには、回復ではなく魔力の乱れを整える補助を使う。
エルンが目を丸くした。
「シャーロットさん、回復もできるんですか?」
「簡単なものだけです。ちゃんとした治療は、専門の方に見てもらった方がいいですよ」
「でも、今の……」
エルンは言いかけて、黙った。
リリが小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。私、補助役なのに、すぐに動けませんでした」
「動けていましたよ」
「え?」
「最初は混乱していました。でも途中から、順番を思い出していました。前衛さん、魔法使いさん、自分の位置。その順番で確認できていました」
リリの目が揺れる。
「……見てたんですか?」
「はい」
「戦いながら?」
「はい」
新人達が一斉に黙った。
トマが、丸盾を握り直す。
「俺、盾の角度、途中で崩れました」
「でも、下がる時に足を交差しませんでした。最初より良くなっています」
シャーロットはリックへ視線を向けた。
「リックさんは前に出そうになりましたけど、止まれました。ミナさんは怖かったと思いますが、横道を見てくれました。エルンさんは魔力を抑えられました。リリさんは全員を確認しようとしていました」
一人ずつ見て、静かに言う。
「今日は、それで十分です。生きて帰るための動きは、できていました」
誰も、すぐには返事ができなかった。
彼らは変異オーガを倒していない。
倒したのはシャーロットだ。
それでも、失敗者として扱われてはいなかった。
アメリアは短く息を吐き、指示を出す。
「撤退するわ。変異オーガの確認は後続に任せます。今は新人の帰還を優先。ガルド、後方警戒。シャーロット、前を見られる?」
「はい」
「新人達はシャーロットさんの指示に従って。隊列を組み直します」
「はい!」
今度の返事は、少しだけ強かった。
帰り道、シャーロットは先頭ではなく、少し横にずれた位置を歩いた。ミナに先導させ、トマとリックに隊列を維持させる。エルンとリリは中央。ガルドが最後尾で後方を押さえ、アメリアが全体を見る。
危険な魔物の反応は、いくつかあった。
だが、シャーロットが先に進路をずらし、風の流れを変え、足音を消し、魔力の気配を薄くする。新人達は気付かないまま通り過ぎた。
リックが途中で小さく言う。
「帰り、魔物少ないな」
ミナが首を傾げた。
「さっきの変異オーガで逃げたのかも」
シャーロットは何も言わず、にこりと笑った。
ガルドが後ろから低く呟く。
「またやってるな」
アメリアも気付いていた。帰路が不自然に安全すぎる。だが今はそれでいい。新人達はすでに限界に近い。
入口の青白い膜が見えた。
外の光が差し込む。風が入る。湿った石の匂いが薄れ、草と土の匂いが戻ってくる。
全員が外へ出た瞬間、トマがその場に座り込みそうになった。リックが慌てて支える。エルンは膝に手をつき、リリは涙目で笑う。ミナは何度も後ろを振り返り、ようやく息を吐いた。
アメリアは全員を見回す。
「新人五名、全員帰還。重傷者なし。任務は中止。以降の訓練は延期。帰還後、医務室で再確認を受けること」
「はい!」
「それと」
アメリアの声が少し柔らかくなった。
「よく指示に従いました。怖かったでしょう。でも勝手に動かず、生きて戻った。それは大事な成果です」
新人達の顔が、少し明るくなる。
自然に、全員の視線がシャーロットへ向いた。
トマが深く頭を下げる。
「ありがとうございました。俺、盾役なのに、何もできなくて」
「できていましたよ。最後尾で盾を構えたまま下がれました。撤退時には、とても大切です」
リックも続いた。
「俺、前に出そうになりました。あれ、止められてなかったら……」
「止まれたので大丈夫です。次は、怖い時ほど一歩待つ練習をしましょう」
ミナは唇を噛む。
「私、奥を見ようとしてました。斥候なのに、周りが見えていませんでした」
「危険を知ろうとしたのは悪いことではありません。でも、見る場所を選ぶのが大切です。今日はそれを覚えられました」
エルンはワンドを胸に抱えたまま言った。
「魔力、暴発しかけました」
「息を吐いて抑えられました。次は、怖くなる前に呼吸を整えましょう」
リリは涙声だった。
「私、皆を見なきゃって思ったのに、何もできなくて」
「最後は確認できていました。順番を決めることも覚えました。補助役さんは、全部を一度に背負わなくて大丈夫です」
リリは何度も頷いた。
「はい……」
アメリアはそのやり取りを黙って見ていた。
慰めだけではない。できたことと、次に直すことを分けている。新人達の顔から、少しずつ「怖かった」だけではない色が戻っていく。
「シャーロット」
アメリアが声をかけた。
「はい」
「あなたには、この後、医務室で念のため確認を受けてもらうわ。それから団長達に報告する」
「私は怪我していませんよ?」
「ワンドが壊れるほどの魔法を使ったでしょう。魔力回路に負担が出ている可能性があるわ」
「でも、あの程度なら」
「その“あの程度”を信用しないことにするわ」
シャーロットは困ったように笑った。
「すみません」
「謝らない」
「はい」
ガルドが横から言う。
「お前の“大丈夫”は信用できないって、もう決まった」
「そんなに信用ないですか?」
「ない」
即答だった。
新人達が思わず小さく笑う。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
その笑いを聞いて、シャーロットもほっとしたように息を吐いた。
獅子の咆哮本部へ戻ると、すぐに医務室で確認が行われた。
新人達は軽傷。精神的な疲労は強いが、数日休めば問題ない。シャーロットは魔力消費こそあったが、倒れるほどではない。ただし、壊れかけのワンドを通して高密度魔法を使った影響で、手首周辺の魔力流にわずかな乱れが出ていた。
医務担当が眉をひそめる。
「このワンドで、変異オーガを撃ったんですか?」
「はい」
「よく手が無事でしたね」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
ガルドが横から低く言う。
「ほら見ろ」
「でも、ちゃんと撃てました」
「撃てたかどうかの問題じゃない」
医務担当まで、ガルドと同じ顔をした。
その後、会議室で正式な報告が行われた。
アクセルとレオンの前で、アメリアが任務内容を説明する。
初級ダンジョン内で変異オーガに遭遇。
新人五名を即時退避。
シャーロットが一層障壁で攻撃を防ぎ、光魔法でコアを破壊。
通路の崩落なし。
新人への重傷なし。
戦闘後、ワンド破損。予備ワンドへ切り替え、安全確認後に撤退。
レオンのペンが途中で止まった。
「一層障壁で変異オーガの攻撃を止めた、で間違いありませんか?」
「間違いないわ」
「多層ではなく?」
「一層よ」
レオンは眼鏡を押し上げた。
「……記録上、どう書くべきか迷いますね」
アクセルは腕を組み、シャーロットを見る。
「コアを撃ち抜いたというのは?」
アメリアが答える。
「魔力核の位置を見抜いて、内部のコアだけを撃ち抜いています。周囲の損傷は最小限。新人達にも被害なし」
ガルドが鼻で笑った。
「だから言っただろ」
「言ったな」
アクセルは短く返し、それからシャーロットへ視線を向けた。
「シャーロット。今回の任務、自分ではどう評価する?」
シャーロットは少し考えた。
「新人さん達が全員無事に戻れたので、良かったと思います。ただ、変異オーガを事前に察知するのが少し遅れました。もっと早く気付けていれば、接敵前に避けられたかもしれません」
会議室が静かになる。
レオンがゆっくりと顔を上げた。
「初級ダンジョンで想定外の変異オーガを察知し、新人を退避させ、単独で止めて、被害なしで討伐した。その自己評価が“察知が少し遅れた”ですか」
「はい。新人さん達を怖がらせてしまいましたので」
アメリアは額に手を当てた。
ガルドは天井を見る。
アクセルはしばらく黙っていたが、やがて低く笑った。
「なるほどな」
それから、椅子から立ち上がる。
「結論を出す。シャーロット、お前は幹部候補試験に合格だ」
シャーロットは目を瞬かせた。
「合格、ですか?」
「ああ。新人全員を無事に帰した。想定外の危険も処理した。撤退判断、現場指示、戦闘制御、戦闘後の安全確認。どれも十分だ」
「でも、私、試験中にワンドを壊してしまいました」
「それは装備の方が悪い」
ガルドとアメリアと医務担当が同時に頷いた。
アクセルは続ける。
「本日付で、獅子の咆哮はシャーロットを幹部候補として正式に迎える。扱いは候補生ではなく、幹部候補。部屋と支援体制もそれに合わせる。レオン、手続きを進めろ」
「承知しました」
レオンが新しい書類を取り出す。
シャーロットはしばらく言葉を失っていた。
追放された翌日。
評価が低いと言われた自分が、別のクランで幹部候補として迎えられる。
すぐには、胸の中へ落ちてこなかった。
「私で、いいんですか?」
アクセルは真っ直ぐ答える。
「お前がいい」
シャーロットは息を止めた。
アメリアも頷く。
「新人達を見れば分かるわ。あの子達は今日、怖い思いをした。でも、潰れていない。次に進める形で帰ってきた」
ガルドは少し乱暴に言った。
「いい加減、自分が必要とされてることくらい覚えろ」
シャーロットは困ったように笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
膝の上で、指がきゅっと丸まる。
「……ありがとうございます」
声が小さく震えた。
「頑張ります」
アクセルは頷く。
「頑張るのはいい。ただし、壊れかけのワンドで無茶をするのは禁止だ」
「はい」
「装備点検を最優先で入れる。鍛冶師と魔導具職人も呼ぶ。お前の装備は、一度全部見直す」
「そんな、大げさな」
「大げさじゃない」
今度は会議室の全員が言った。
シャーロットは少し肩を跳ねさせ、それから壊れたワンドへ視線を落とした。
会議室の机の上には、割れた古いワンドが布の上に置かれている。
銀翼を出る時に渡された、粗末な一本。
レオンのペンが、書類の上を走る。
所属欄。
獅子の咆哮。
扱い。
幹部候補。
シャーロットは、その文字を見つめたまま、割れたワンドにそっと指を添えた。




