第7節 救護棟の先生
獅子の咆哮の救護棟は、以前よりずっと大きくなっていた。
SSランク認定後、獅子の咆哮には王国各地から研修希望の治癒術師や救護補助員が集まるようになった。理由は単純だった。国家級スタンピードでの救護体制が、王国軍やギルドの記録に残るほど優れていたからだ。
負傷者を治すだけではない。
搬送路を作る。
軽傷者と重傷者を分ける。
前線の疲労を読む。
魔法使いの魔力切れを見抜く。
盾役の腕が落ちる前に交代を促す。
避難民の流れと救護所の位置を調整する。
そして、怪我が起きる前に、その兆候を拾う。
それらを救護班の中で体系化した中心に、ソフィアがいた。
今では彼女の名は、王国中の治癒術師に知られている。
王国でも指折りの治癒術師。
そう呼ばれることもある。
だが、本人はその呼び名を少し苦手にしていた。
「指折り、という言い方は少し困ります。治癒術は一人で完成するものではありませんから」
研修に来た若い治癒術師達を前に、ソフィアはそう言った。
場所は獅子の咆哮の救護棟に併設された訓練室だ。壁際には担架、包帯、薬草箱、魔力回復水、止血布、簡易固定具が並んでいる。床には模擬搬送路が白線で引かれ、中央には訓練用の人形が置かれていた。
若い治癒術師達は、少し緊張した顔でソフィアを見ている。
彼らにとって、ソフィアは憧れの存在だった。
国家級スタンピードを経験した救護班の中心人物。
星纏いの魔女の負荷を見抜き、救護体制を支えた治癒術師。
今では王国軍の戦場医療講習にも招かれる、若き実力者。
けれど、目の前のソフィアは穏やかだった。
偉ぶることもなく、声を荒げることもない。
ただ、見逃さない。
それが彼女の強さだった。
「では、始めましょう。今日は治癒術そのものではなく、救護班の目についてです」
若い治癒術師の一人が首を傾げる。
「救護班の目、ですか?」
「はい」
ソフィアは訓練室の白線を指した。
「負傷者がここに運ばれてきてから治す。それはもちろん大切です。でも、戦場ではそれだけでは足りません。負傷者が運ばれてくる前に、どこで誰が倒れそうかを見る必要があります」
彼女は訓練用の人形を一体、前線役の位置へ置いた。
「盾役の右腕が下がっている。呼吸が浅い。足の位置が半歩遅れている。こういう時、次の突進を受ければ肩を壊します」
次に、魔法使い役の人形を置く。
「魔法使いの唇の色が悪い。詠唱が早口になっている。魔力を押し込みすぎている。この場合、術式の暴発か魔力切れが起きます」
さらに、搬送路の白線上に小さな箱を置いた。
「搬送路に障害物がある。負傷者を運ぶ人がここで詰まる。すると、次の負傷者が前線側で止まり、治療開始が遅れます」
若い治癒術師達は真剣に聞いていた。
その中の一人が、恐る恐る手を上げる。
「あの……それは、治癒術師が見ることなのでしょうか?」
ソフィアは、その問いに少しだけ微笑んだ。
昔の自分なら、同じことを思ったかもしれない。
怪我をした人を治す。
それが治癒術師の仕事だと考えていた。
もちろん、それは間違いではない。
だが、それだけでは届かないものがある。
「治癒術師だけで全部を見る必要はありません」
ソフィアは言った。
「前線には前衛がいます。指揮官がいます。結界術師がいます。斥候がいます。補給班もいます。救護班だけで戦場を支えるわけではありません」
若い治癒術師達が頷く。
「でも、救護班だからこそ見えるものがあります。どんな怪我が多いか。どの位置から負傷者が来るか。どの部隊が消耗しているか。誰が無理を隠しているか。治療をしていると、戦場の歪みが見えてきます」
ソフィアは、自分の手を見下ろした。
国家級スタンピードの日。
シャーロットが星雨・黎明を展開している間、自分は救護所を離れられなかった。すぐそばへ行きたかった。鼻血を拭って、手を握って、今すぐ止まってくださいと言いたかった。
でも、行けなかった。
負傷者がいたから。
救護班を動かす必要があったから。
あの時の悔しさと恐怖は、今でも覚えている。
だからこそ、彼女は学んだ。
自分の場所で支えること。
見えるものを見ること。
終わった後に、必ず診ること。
「私は、ある人から教わりました」
ソフィアは静かに言った。
若い治癒術師達の表情が変わる。
その「ある人」が誰なのか、聞かなくても分かっている。
星纏いの魔女。
シャーロット。
「怪我を治す前に、怪我を減らす見方があるのだと」
訓練室が静かになる。
「最初は、まったく分かりませんでした。魔力の流れ、敵の進路、味方の足運び、結界位置、探知範囲。説明を聞いても、頭が追いつきませんでした」
若い治癒術師の一人が、小さく息を呑む。
ソフィアは少し照れたように笑った。
「私は、その場で『分かりません』と言いました」
緊張していた研修生達の間に、少しだけ笑いが起きる。
「でも、分からないから終わりではありません。分からないなら、まず一つ見る。前衛の腕を見る。搬送路を見る。魔法使いの呼吸を見る。負傷者の出る方向を見る。一つずつ増やしていけばいいのです」
彼女は若い治癒術師達を見渡した。
「皆さんは、星纏いの魔女と同じことをする必要はありません」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「同じように全属性を扱う必要もありません。広域探知をする必要もありません。結界を張る必要も、緑竜を落とす必要もありません」
ソフィアの声は、優しかった。
「皆さんは治癒術師です。負傷者を救う力があります。それは、誰かの真似ではなく、皆さん自身の役目です」
一人の若い治癒術師が、少し震える声で言った。
「でも、星纏いの魔女様のように戦場全体を見られなければ、足りないのでは……」
ソフィアは首を横に振った。
「最初から全体を見る必要はありません。私も今でも、あの人と同じようには見えません」
それは卑下ではなかった。
事実として、静かに受け入れている言葉だった。
「けれど、私は私の場所から見ます。負傷者の呼吸。出血の量。搬送者の足。前衛の疲労。救護所の混雑。治療順。戻すべき人と休ませるべき人。その全部を見て、誰かが死なないように動きます」
若い治癒術師達は、息を呑んで聞いていた。
ソフィアは、訓練用の人形を一体持ち上げた。
「では、実践しましょう。前線から負傷者が三人同時に来ます。一人は出血、一人は骨折、一人は魔力切れです。さらに、搬送路の右側に障害物があります。皆さんなら、誰をどこへ運び、誰に最初の治癒術を使いますか?」
研修生達が一斉に動き出す。
「出血を先に!」
「魔力切れは横に!」
「骨折の人は動かしすぎない方が……」
「搬送路を開けて!」
「水を!」
ソフィアはその動きを見ながら、すぐに指摘する。
「出血者を寝かせる位置が通路を塞いでいます。半歩右へ」
「はい!」
「魔力切れの方に水を飲ませる前に、意識確認です」
「はい!」
「骨折者を運ぶ人、足元を見てください。あなたが転ぶと二人目の負傷者になります」
「す、すみません!」
「謝るより直しましょう」
厳しいが、冷たくない。
若い治癒術師達は次第に動きを整えていく。
ソフィアは、その様子を見て小さく頷いた。
数年前、銀翼にいた頃の自分は、ここまで見えていなかった。治癒術に自信はあった。負傷者を救いたい気持ちもあった。けれど、戦場全体を見る視点はまだなかった。
シャーロットに出会って、それを知った。
最初は理解不能だった。
けれど、追いかけた。
全部を真似るためではない。
自分の仕事を、もっと深く果たすために。
訓練が一段落した頃、救護棟の入口から小さな拍手が聞こえた。
ソフィアが振り返る。
そこに、シャーロットが立っていた。
星帽ポラリスは被っていない。今日は星衣リゲルでもなく、軽い私服に近いローブ姿だった。隣には、見張り役のようにガルドがいる。
「シャーロットさん」
ソフィアは少し驚いた。
「今日の午後は研究院との資料確認では?」
「終わりました。半分だけです」
ガルドが横から言う。
「半分で切り上げさせた」
「偉いです」
ソフィアが即座に言った。
シャーロットは少し複雑そうな顔をする。
「褒められているんですよね?」
「はい。とても」
「それなら、よかったです」
研修生達は、目の前に星纏いの魔女が現れたことで固まっていた。
シャーロットはその視線に気付き、少し困ったように笑う。
「お邪魔でしたか?」
「とんでもありません!」
一人が勢いよく答える。
別の研修生が緊張しながら頭を下げた。
「星纏いの魔女様……!」
シャーロットは少しだけ眉を下げる。
「シャーロットで大丈夫です」
「む、無理です!」
ガルドが横で笑った。
「諦めろ。有名人」
「まだ慣れません」
「数年経ってそれか」
「少しは慣れました」
「少しか」
そんなやり取りに、研修生達の緊張が少し緩む。
ソフィアはシャーロットへ歩み寄った。
「見ていたんですか?」
「少しだけ。とても分かりやすい講習でした」
「ありがとうございます」
「私が説明するより、ずっと分かりやすいです」
ソフィアは目を瞬かせた。
「そうでしょうか」
「はい。私は、つい魔力の流れや敵の進路から話してしまうので」
ガルドがうなずく。
「初手から難しいんだよ、お前は」
「自覚は少しあります」
「少しか」
ソフィアは小さく笑った。
シャーロットは訓練室の人形や白線を見て、穏やかに言う。
「ソフィアさんの講習は、治癒術師の方がどこから見ればいいか分かります。とても大事です」
その言葉に、ソフィアの胸が温かくなった。
かつて彼女は、シャーロットに教えてほしいと願った。
治癒術だけではなく。
怪我を治す前に、怪我をさせない戦場の見方を。
その願いは、今、別の形で実を結んでいる。
「私は、シャーロットさんと同じことはできません」
ソフィアは静かに言った。
シャーロットは不思議そうに首を傾げる。
「でも、同じでなくていいと思っています」
ソフィアは続けた。
「私は治癒術師です。負傷者を救うことが私の役目です。でも、今はそれだけではありません。負傷者が出る前の兆候を見ること、救護班を動かすこと、治療順を判断すること、戦場の中で人が死なないように支えること。それが、私の形です」
シャーロットは少しだけ目を細めた。
嬉しそうに。
誇らしそうに。
「はい。とても素敵だと思います」
ソフィアは少し頬を赤くした。
「ありがとうございます」
研修生達は、その会話を息を詰めて聞いていた。
星纏いの魔女と、王国でも指折りと呼ばれる治癒術師。
二人は師弟のようでもあり、仲間のようでもあった。
どちらかがどちらかの代わりになるのではない。
それぞれの場所で、同じものを見ている。
誰かが死なないように。
そのために、できることを増やしてきた。
シャーロットがふと、訓練用の人形の配置を見る。
「この配置なら、右奥の魔法使い役の人も三分後に魔力切れを起こしそうですね」
研修生達が一斉に人形を見る。
ソフィアも少し驚いた。
「今の配置だけで分かるんですか?」
「はい。搬送路が詰まると補助魔法が遅れて、右奥の人が結界維持を伸ばすことになるので」
研修生達の顔が青ざめる。
ガルドが額を押さえた。
「ほら、急に難しいこと言い出した」
シャーロットははっとした。
「すみません」
ソフィアはくすりと笑った。
「では、それを治癒術師向けに分解してみましょう」
「お願いします」
「まず、搬送路が詰まると誰の負担が増えるかを見ます。次に、その人が負担を隠すタイプかどうかを見る。最後に、三分後に出る症状を予測する。こうです」
研修生達が一斉に頷いた。
「分かりやすい……!」
「なるほど、そう見るんですね」
「魔力切れの前に、搬送路を見る……」
シャーロットは感心したようにソフィアを見る。
「やっぱり、ソフィアさんの説明はすごいです」
「シャーロットさんの視点があってこそです」
「いえ、ソフィアさんが形にしてくださったんです」
ガルドが横でぼそりと言う。
「二人で褒め合ってると終わらねえぞ」
ソフィアとシャーロットは顔を見合わせ、少し笑った。
その日の講習後、若い治癒術師達は口々に言った。
「治癒術って、傷を治すだけじゃないんですね」
「戦場の流れを見るのも、救護なんですね」
「怪我をする前に減らす……難しいけど、やってみたいです」
ソフィアはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「一度に全部はできません。まず一つ、見えるものを増やしましょう」
その姿を、シャーロットは少し離れた場所から見ていた。
隣でガルドが言う。
「いい弟子になったな」
シャーロットは少し考える。
「弟子、というより……もう、立派な先生ですね」
「そうだな」
「私も見習わないと」
「お前はまず、昼寝の練習をしろ」
「そこですか?」
「そこだろ」
シャーロットは少しだけ不満そうにしたが、すぐに笑った。
救護棟の窓からは、訓練場が見える。
新人達が走り、前衛班が声を上げ、アメリアが誰かを叱り、レオンが資料を抱えて歩き、アクセルが団員達に指示を出している。
獅子の咆哮の日常。
その中に、ソフィアの救護班も確かに根付いていた。
かつて銀翼で出会った若い治癒術師は、もう迷っていない。
負傷者を救う力。
戦場医療を整える力。
救護班を育てる力。
怪我をする前に兆候を拾う力。
そして、人を死なせないために、自分の場所で踏みとどまる力。
それが、ソフィアの成長だった。
シャーロットは嬉しそうに呟いた。
「ソフィアさん、本当にすごいですね」
ガルドは横で小さく笑う。
「お前が言うと、本人が照れるぞ」
「では、あとで直接言います」
「言うんだな」
「はい。大事なことなので」
ガルドは呆れたようにしながらも、少しだけ優しい顔をした。
救護棟の中では、ソフィアが若い治癒術師達に向き直っている。
「では、次は実戦想定です。負傷者が来る前に、どこを見るか。もう一度、最初からやってみましょう」
「はい!」
若い声が揃う。
ソフィアは静かに微笑んだ。
治癒術師として、負傷者を救う。
救護班として、戦場を支える。
そして、誰かが死なないように、怪我が起きる前を見る。
それは、彼女が自分で選んだ形だった。
星纏いの魔女に憧れ、学び、分からないところから始めて、それでも諦めなかった先にある、ソフィア自身の形。
訓練室に、研修生達の声が響く。
「搬送路、確認します!」
「魔力切れ役、呼吸を見ます!」
「出血者、通路を塞がない位置へ!」
ソフィアは一つずつ頷き、必要なところだけ短く直した。
その目は、もう迷っていなかった。




