第6節 数年後の獅子の咆哮
数年が過ぎた。
獅子の咆哮の本部には、今日も朝から人の声が響いている。
訓練場では新人達が走り込みをし、前衛班が木剣を打ち合わせ、魔法班が結界の基礎術式を反復している。救護班は搬送訓練を行い、補給班は遠征用の水と保存食を確認していた。工房区画からは槌音が聞こえ、装備点検場には剣、盾、弓、ローブ、ワンド、スタッフ、靴、荷紐までが並べられている。
史上初のSSランククラン。
そう呼ばれるようになってから、獅子の咆哮の仕事は大きく変わった。
王国内の災害対応。
国境近くの魔物異常調査。
王国軍との合同訓練。
ギルド支部への緊急支援。
王立研究院との安全研究。
希少素材を用いた装備改良。
重大危機への独立作戦。
以前より責任は重くなった。
だが、獅子の咆哮の中身が別物になったわけではない。
帰還者には温かい食事と飲み物が出る。
装備点検日は新人から幹部まで全員対象。
無理を隠した者は怒られる。
怪我をした者は救護班へ引きずられる。
徹夜で書類を増やそうとする者はアメリアに止められる。
そして、訓練場の中央には、今日もシャーロットがいた。
「はい、結界は厚くすればいいというものではありません。大事なのは、受ける向きと、逃がす方向です」
星帽ポラリスを被り、星衣リゲルをまとい、星脈晶ヴェガを手にした彼女は、数年前と変わらない明るい声で新人達に説明していた。
相変わらず、本名で呼ばれることは少ない。
王都では、彼女の名よりも二つ名の方が先に出る。
星纏いの魔女。
黒龍を討ち、緑竜を落とし、国家級スタンピードを星雨・黎明で終わらせた魔法使い。
王都の子供達は今でも星纏いの魔女ごっこをする。新聞は災害対応のたびにその名を載せる。地方のギルド支部では、彼女が派遣されると聞いただけで避難誘導が落ち着くことすらある。
だが、本人は今日も新人相手に、真剣な顔で結界の基礎を教えていた。
「普通は多層障壁を使います。一枚だけだと、衝撃を受けた時に割れやすいからです」
新人の一人が手を上げる。
「でも、シャーロットさんは一枚ですよね?」
「私は少し特殊なので、真似しないでください」
訓練場の端で聞いていた魔法班の先輩達が、一斉に頷いた。
「絶対に真似するなよ」
「一枚で受けるな。普通は割れる」
「星纏い基準で考えるな」
シャーロットは少し困った顔をする。
「そんなに危ない言い方をしなくても……」
「危ないのはあなたの基準よ」
背後からアメリアの声が飛んだ。
相変わらず、彼女は面倒見がいい。新人の姿勢、救護班の配置、シャーロットの顔色、全て見ている。年数が経っても、シャーロットへの監視だけは緩まなかった。
「シャーロット、今日は探知訓練は五キロまで」
「はい」
「緊急時でもないのに広げない」
「はい」
「新人に見せるために十五キロまで広げるとか言い出さない」
「言いません」
「本当に?」
「……言いません」
ほんの少し間があった。
アメリアの目が細くなる。
「今、考えたわね」
「説明として分かりやすいかと、一瞬だけ」
「却下」
「はい」
訓練場の新人達が笑いをこらえる。
星纏いの魔女は、王国を救った伝説の魔法使いである。
そして、獅子の咆哮では今も普通に怒られる幹部だった。
その様子を、訓練場の端でガルドが見ていた。
大剣を肩に担ぎ、壁にもたれかかっている。以前より少しだけ落ち着いた雰囲気になったが、目つきの鋭さと口の悪さは変わらない。
「相変わらずだな」
「ガルドさん」
シャーロットが振り返る。
「今日の合同訓練、前衛班はもう終わったんですか?」
「終わった。新人が三人、足腰死んでる」
「大丈夫でしょうか」
「死んでるのは気分だけだ。ソフィアに見られてる」
「それなら安心ですね」
「安心していいのは新人の方だ。お前も後で診られるぞ」
「私は今日は元気です」
ガルドはじっと彼女を見る。
「朝から新人訓練、結界講義、魔力制御補助、装備点検の相談。それで午後に王立研究院との資料確認だろ」
「はい。ですから、まだ探知はしていません」
「そういう問題じゃねえ」
アメリアが深く頷く。
「まったくその通りね」
シャーロットは二人に見られ、少しだけ肩をすぼめた。
「では、午後の資料確認を短めにします」
「違う」
ガルドが即答する。
「昼に休め」
「お昼は食べます」
「食べながら資料を見るな」
「……はい」
また少し間があった。
ガルドが呆れたように息を吐く。
「お前、数年経ってもそこは変わらねえな」
「私も成長していると思うのですが」
「してる。だから止めやすくなった」
「それは成長なんでしょうか」
「成長だろ」
アメリアが横から言った。
「昔なら、止める前にもう資料を作っていたもの」
「……そうかもしれません」
シャーロットは少しだけ照れたように笑った。
その笑顔は、昔より穏やかだった。
銀翼を出たばかりの頃、普通の部屋を与えられただけで泣いていた彼女は、もういないわけではない。あの時の涙も、傷も、十年の記憶も消えたわけではない。
けれど今の彼女には、帰る部屋がある。
休めと言ってくれる人がいる。
無理をすれば怒ってくれる人がいる。
装備を整えてくれる職人達がいる。
治療してくれるソフィアがいる。
信じて背を預けられるガルドがいる。
獅子の咆哮という、自分の居場所がある。
本部の二階から、レオンが訓練場を見下ろしていた。
手には分厚い資料。王国軍との合同災害対応計画の更新版だ。SSランクとなった獅子の咆哮には、定期的に国家規模の防衛計画への協力要請が来る。面倒ではあるが、レオンはそれを嫌がらない。
「シャーロットさんの午後の予定は、研究院との資料確認を半分に減らします」
下へ向けて淡々と告げる。
シャーロットが顔を上げた。
「半分ですか?」
「はい。残りは明日です」
「明日もあるんですね」
「あります。ただし、一日で全部やろうとしないための明日です」
ガルドが小さく笑う。
「完全に読まれてるな」
「レオンさんまで……」
「必要な管理です」
レオンは平然としていた。
アクセルも本部入口から訓練場へ出てきた。
「今日の午後、王国軍から使者が来る。北西国境の魔物異常について相談だ」
アメリアがすぐに反応する。
「緊急?」
「今すぐ出るほどではない。調査依頼の事前協議だ」
シャーロットが一歩前に出かける。
「では、探知資料を――」
「休憩後だ」
アクセルが言った。
「はい」
「即答できるようになったな」
「皆さんに怒られますので」
「いい傾向だ」
アクセルは豪快に笑った。
SSランクになっても、獅子の咆哮は浮つかなかった。
もちろん、誇りはある。王都を救ったこと、史上初のランクを得たこと、国家から信頼されたこと。それは団員達の胸に確かに残っている。
だが、彼らは知っていた。
特別な称号は、日々の積み重ねの代わりにはならない。
装備を点検する。
新人を育てる。
怪我人を減らす。
撤退判断を鍛える。
帰還者を休ませる。
食べさせる。
眠らせる。
無理を隠させない。
支える。
そういう当たり前のことを積み重ねた先に、黒龍戦も、国家級スタンピードもあった。
だから今日も、獅子の咆哮はいつも通り動いている。
「シャーロットさん!」
新人の一人が声を上げた。
「はい」
「魔力制御補助、もう一回お願いします!」
「分かりました。では、今度は自分の魔力の流れを意識して――」
「その前に水」
アメリアが言った。
シャーロットはぴたりと止まる。
「はい」
「新人も水」
「はい!」
訓練場に笑いが起きる。
シャーロットは水筒を受け取り、一口飲んだ。
それから新人の前に立ち、ヴェガを軽く構える。
「では、続けましょう。魔力は押し込むのではなく、流れを見て整えるんです。無理に強くしようとしなくて大丈夫ですよ」
新人達は真剣に頷いた。
彼らの目に映るシャーロットは、伝説の魔法使いであり、優しい指導者であり、少し自覚の薄い幹部であり、アメリアやガルドにしょっちゅう止められる人でもあった。
遠い英雄ではない。
ちゃんと同じ場所にいて、笑い、教え、食べ、休まされ、また誰かを守る人。
それが、今の星纏いの魔女だった。
その日の昼、食堂では帰還者用の温かいスープが出された。
シャーロットは新人達に囲まれながら食事をしていた。隣にはガルドが座り、向かいにはアメリア。少し離れた席ではアクセルが前衛班と話し、レオンが書類を読みながらも食事をしている。
「レオンさん、食べながら書類は駄目では?」
シャーロットが言うと、レオンは顔を上げた。
「あなたに言われるとは思いませんでした」
「私も言われていますので」
ガルドが笑う。
「言われてる側が言うな」
アメリアは満足そうに頷いた。
「でも、いいことよ。自分が止められる側だと、他人も止められるようになるもの」
「そういうものですか?」
「そういうものよ」
シャーロットは少し考え、そして微笑んだ。
「では、私も少しは獅子の咆哮らしくなれたんでしょうか」
ガルドが即答する。
「とっくになってる」
シャーロットは目を瞬かせた。
「そうですか?」
「そうだろ」
ガルドはスープを飲みながら言った。
「お前が来てから、このクランは変わった。Sになって、SSになった。でも、それだけじゃねえ。新人の見方も、救護の動きも、装備点検も、撤退判断も、全部変わった」
「私だけではありません」
「分かってる。だから、獅子の咆哮らしいんだろ」
シャーロットは少し言葉に詰まった。
アメリアが微笑む。
「そうよ。あなた一人の色に染まったわけじゃない。あなたが来て、皆があなたを見て、皆も変わった。あなたも変わった。そうやって今の獅子の咆哮になったの」
シャーロットは、スープの湯気越しに食堂を見た。
笑っている新人達。
食事を取る前衛班。
装備の話をする職人達。
救護班の若い治癒術師達。
指示を飛ばすアメリア。
静かに資料をまとめるレオン。
豪快に笑うアクセル。
隣で当たり前のように座っているガルド。
ここが、自分の場所なのだと、改めて思った。
「はい」
シャーロットは小さく頷いた。
「私、ここに来られてよかったです」
ガルドは少しだけ視線を逸らした。
「今さらだな」
「今さらでも、言いたくなりました」
「そうかよ」
彼の耳が少し赤いことに、アメリアは気付いていた。
もちろん、指摘はしなかった。
代わりに、スープを一口飲んでから、何でもない顔で言う。
「午後の資料確認は半分ね」
「はい」
「その後は休憩」
「はい」
「夕方の訓練を覗きに行かない」
「……はい」
「今、また間があったわ」
食堂に笑い声が広がる。
シャーロットも笑った。
SSランククラン、獅子の咆哮。
国家戦力級の権限を持ち、王国から信頼され、災害時には国中から名を呼ばれる存在。
けれど、その中心にあるのは、こういう日常だった。
誰かを見て、支え、止め、笑い、食べさせ、休ませる。
その当たり前を積み重ねるクランだからこそ、星纏いの魔女は今日もここで笑っている。
そして、また誰かを守る日のために。
攻撃魔法使いの彼女は、攻撃以外のことも、相変わらずたくさんやっていた。




