第5節 それぞれの再出発
獅子の咆哮が史上初のSSランククランに認定されたという報せは、その日のうちに王都中へ広がった。
ギルド本部前の掲示板には、王国と冒険者ギルドの連名による告示が張り出された。
黒龍討伐。
国家級スタンピード終息。
百体規模の緑竜群への対応。
三十万規模の魔物群の選別殲滅。
王都防衛。
民間被害抑制。
王国軍および各クランとの連携。
それらの功績により、獅子の咆哮は既存のSランクを超える特別等級、SSランクとして認定された。
掲示板の前には、人だかりができていた。
「SSランク……?」
「Sの上ってことか?」
「そんなもの、聞いたことないぞ」
「史上初らしい」
「獅子の咆哮が、史上初のSSランククラン……」
「でも、あのスタンピードを止めたんだろ? 緑竜の群れも落としたって聞いたぞ」
「星纏いの魔女がいるクランだもんな」
「いや、告示を見ろ。星纏いの魔女だけじゃなくて、獅子の咆哮全体の功績って書いてある」
「全体?」
「王国軍との連携、避難民保護、救護班支援、戦場指揮……本当に全部やったんだな」
驚きと納得が、王都のあちこちで混じり合っていた。
酒場では杯が掲げられ、職人街では復興作業の合間にその話で持ちきりになった。子供達はさっそく「SSランクごっこ」を始め、星纏いの魔女役の子供が「星雨・黎明!」と叫んでは、大人達に「危ないから本当に真似するなよ」と笑われた。
その報せは、銀翼の剣にも届いた。
かつてSランクだったその本部では、今は古い旗が掲げられている。灰色がかった布に、不器用な剣と翼が描かれた、Bランク時代の旗だ。白銀の立派な旗は降ろされ、倉庫にしまわれたままになっていた。
銀翼は今、Bランククランとして再出発している。
華やかさは消えた。高額依頼も減った。スポンサーの支援も縮小した。残った団員達は、以前よりずっと泥臭い仕事をしていた。
新人教育。
低ランク帯の再訓練。
装備点検。
医務室の立て直し。
避難誘導支援。
搬送訓練。
撤退判断の講習。
かつてなら、Sランククランの仕事ではないと軽んじられたかもしれないこと。
だが、今の銀翼はそこからやり直していた。
その日の午後、ノアは古い団長室で、ギルドから届いた告示写しを読んでいた。
机は、Sランク時代の豪華なものではない。Bランクだった頃に使っていた傷だらけの古い机だ。足は少し歪み、天板には古いインク染みが残っている。だが、ノアはあえてその机を使い続けていた。
そこに、現団長代行と数名の古参、そして新しく低ランク帯支援を任された若い管理職員が並んでいる。
誰もすぐには口を開かなかった。
ノアは告示を最後まで読み、静かに机へ置いた。
「獅子の咆哮が、SSランクか」
現団長代行が低く答える。
「はい。史上初とのことです」
「そうか」
ノアの声に、驚きはなかった。
むしろ、どこか納得しているようだった。
古参の一人が、少し苦い顔で言う。
「シャーロットがいるクランですからね」
ノアは首を横に振った。
「違う」
その場の空気が静まる。
古参が顔を上げる。
「違う、とは」
「シャーロットがいるから、ではない」
ノアは告示の一文を指で叩いた。
『獅子の咆哮は、星纏いの魔女個人の能力のみならず、組織としてその力を支え、王国軍および各クランと連携し、国家級危機を終息へ導いた功績を評価されるものとする』
ノアはゆっくりと言った。
「ここだ」
誰も言葉を挟まなかった。
「見ろ。あれが、支えるということだ」
その言葉は、静かだった。
だが、銀翼の者達には重く響いた。
ノアは続ける。
「獅子の咆哮は、シャーロットを一人で使い潰さなかった。情報を渡し、前線を支え、救護を整え、負荷を見て、終われば休ませた。王国はそこを見ている」
現団長代行が目を伏せる。
「我々が、できなかったことですね」
「ああ」
ノアは否定しなかった。
「俺達は、シャーロットが何をしていたのかを見なかった。支援、結界、探知、撤退判断、応急処置、新人教育、魔力調整。全部、現場では必要だったのに、評価表の外に置いた」
古参の一人が拳を握った。
「俺達も、助けられていたのに」
「そうだ」
ノアは彼を見る。
「助けられていた者も、見ていなかった。見ていた者も、声を上げなかった。制度の外にあるものを、仕方ないと流した。その結果が、今の銀翼だ」
団長室に、重い沈黙が落ちる。
だが、それは以前のような逃げ場のない沈黙ではなかった。
認めるための沈黙だった。
若い管理職員が、少し震える声で言う。
「では、私達は……何をすればいいのでしょうか」
ノアは彼女を見る。
「見えるようにする」
「見えるように、ですか」
「ああ。誰かが誰かを支えているなら、記録に残す。低ランク帯で事故を防いだなら評価する。撤退判断を早めて怪我人を減らしたなら、それを成果として扱う。装備の不具合を見つけた者、救護導線を整えた者、新人の無理を止めた者。そういうものを、見えないままにしない」
若い管理職員は、真剣に頷いた。
ノアは机の上に、別の書類を置いた。
『低ランク帯支援評価案』
『装備点検記録表』
『撤退判断報告書』
『負傷予防報告欄』
『新人教育補助評価』
『救護班連携記録』
どれも、まだ粗い。
今まで銀翼が軽視してきたものを、何とか形にしようとしている書類だった。
「獅子の咆哮の真似をすればいいわけではない」
ノアは言った。
「俺達には俺達のやり方が必要だ。だが、見えない支えを見ないままにするな。それだけは、二度と繰り返すな」
現団長代行は深く頭を下げた。
「はい」
その時、扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、若いDランク冒険者だった。少し前まで、撤退判断が遅れて怪我をしたことのある者だ。今は再訓練中で、古参の指導を受けている。
彼は緊張した様子で頭を下げた。
「失礼します。北門外の訓練帰りの報告書です」
「そこに置け」
「はい」
若い冒険者は書類を机に置くと、少し迷ったようにノアを見た。
ノアが問う。
「何だ」
「その……今日の訓練で、魔法班のリーナが、魔物役の動きに気付いて早めに撤退合図を出しました。おかげで、前衛が挟まれる前に下がれました」
「報告書には?」
「書きました。でも、評価欄にどう書けばいいのか分からなくて」
ノアはその報告書を手に取った。
そこには、まだ拙い字でこう書かれていた。
『リーナが右側の魔力反応の乱れに気付き、撤退を提案。前衛が囲まれる前に下がれた。負傷者なし』
ノアはしばらくその文字を見つめた。
かつてなら、こういう報告は備考欄に埋もれただろう。
攻撃実績ではない。
討伐数ではない。
決定打ではない。
目立つ成果ではない。
だが、負傷者なし。
それは、確かな成果だった。
ノアは若い管理職員へ報告書を渡した。
「評価欄に書け」
「はい」
「撤退判断による負傷予防。魔力反応観察。前衛保護。これを成果として記録する」
若い管理職員は、少し驚いたように目を見開き、それから大きく頷いた。
「はい!」
Dランク冒険者も、驚いた顔をしていた。
「成果……なんですか?」
ノアは彼を見る。
「怪我人が出なかったんだろう」
「はい」
「なら、成果だ」
その言葉に、若い冒険者の表情が少し変わった。
驚きと、安堵と、少しだけ誇らしさ。
「分かりました。リーナにも伝えます」
「ああ。伝えろ」
若い冒険者は頭を下げて出ていった。
扉が閉まる。
ノアは、机の上のSSランク認定告示をもう一度見た。
獅子の咆哮は、遠い。
史上初のSSランク。
王国軍と同列に連携する国家防衛級の特別戦力。
今の銀翼が、簡単に届く場所ではない。
だが、目指すべきものは、ランクそのものではなかった。
「俺達は、SSにはなれん」
ノアは静かに言った。
誰も否定しなかった。
「少なくとも、今はな」
現団長代行が顔を上げる。
ノアは続ける。
「だが、誰かを見失わないクランにはなれる。見えない支えを記録するクランにはなれる。低ランク帯を使い捨てにしないクランにはなれる」
古参達が、ゆっくり頷く。
「そこからだ」
ノアは言った。
「銀翼は、そこからやり直す」
外では、訓練場の声が聞こえていた。
「撤退合図、早めに!」
「右側、見て!」
「無理に押すな! 下がるのも判断だ!」
以前の銀翼なら、弱気だと笑われたかもしれない言葉。
今は、それが訓練の中心になっている。
団長室の窓から、ノアはその光景を見た。
Bランクの旗が、風に揺れている。
地味で、古く、少し不格好な旗。
けれど、そこから始めるにはちょうどよかった。
その夜、王都の酒場では、獅子の咆哮SSランク認定の話で盛り上がっていた。
「獅子の咆哮、すごいな」
「SSランクだぞ、SS」
「星纏いの魔女様、まだ静養中らしいぞ」
「そりゃそうだろ。あれだけやったら寝かせろ」
「あの人、放っておくとまた働きそうだもんな」
「獅子の咆哮なら止めるだろ」
「だな。あそこは止める」
笑い声が起きる。
その酒場の隅に、銀翼の古参が一人座っていた。
彼は、かつてシャーロットが低ランク帯を助けていた頃を知っている男だった。知っていたのに、何も変えられなかった男でもある。
彼は杯を持ったまま、獅子の咆哮の話を聞いていた。
妬ましさは、少しだけあった。
だが、それ以上に、胸に残るものがあった。
「止める、か」
ぽつりと呟く。
銀翼では、止めなかった。
シャーロットが無理をしても、必要だったからと受け取った。大丈夫ですと言えば、そのままにした。支援も、撤退判断も、応急処置も、低ランク帯の安定も、彼女がやってくれるものだと思っていた。
獅子の咆哮は、違った。
使うだけではなく、止める。
支える。
怒る。
休ませる。
その違いが、SSとBの差なのだろう。
古参は杯を静かに置いた。
翌日から、彼は新人訓練で一つだけ口癖を変えた。
「無理するな」ではなく。
「無理を隠すな」
そう言うようになった。
銀翼の再出発は、派手ではなかった。
王都中が獅子の咆哮のSSランク認定に沸く中、銀翼はBランクの仕事を続けた。新人を見て、装備を点検し、撤退判断を練習し、救護導線を整え、見えない支えを記録に残した。
それは、失ったものの大きさを認めたあとに、ようやく踏み出した、痛みを伴う小さな一歩だった。
シャーロットは復讐しなかった。
戻らなかった。
ただ、獅子の咆哮で自分の場所を選び、仲間と共に国を救った。
獅子の咆哮は史上初のSSランクへ到達した。
銀翼は、Bランクからやり直している。
その差は、あまりにも大きい。
けれど、ノアはそれを恥じるだけでは終わらせなかった。
「見ろ。あれが、支えるということだ」
その言葉は、銀翼の中で少しずつ広がっていった。
かつて役立たずと呼ばれた魔法使いが、攻撃以外も全部やっていたこと。
そして、その全部を見ようとしなければ、組織は人を失うのだということ。
銀翼はようやく、それを学び始めていた。




