第11節 代償
国家級スタンピードは、終わった。
王都の外に広がっていた黒い魔物の海は、もう動いていない。緑竜の影も空にはない。地響きは止み、ブレスの炎も消え、魔物の咆哮も聞こえなくなった。
残っているのは、戦場の煙と、割れた石畳と、折れた結界杭と、疲れ切った兵士達の息遣い。
そして、王都がまだそこにあるという事実だった。
「王都は……守られたのか」
王国兵の一人が、呆然と呟いた。
誰かが頷く。
「守られた」
その言葉が、少しずつ周囲へ広がる。
「守られたんだ」
「終わった……」
「生きてる」
「王都が、残った……!」
歓声が上がった。
最初は小さく、次第に大きく。兵士達が武器を掲げ、冒険者達が肩を叩き合い、避難民達が泣きながら抱き合う。救護班の中には、その場に座り込む者もいた。王国軍の将官は指揮所の机に手をつき、長く息を吐いた。
誰もが理解していた。
これは、ただの勝利ではない。
国が救われた瞬間だった。
三十万規模の魔物群。
緑竜百体。
王都外縁の防衛線。
逃げ遅れた避難民。
修復途中の城塞区画。
王国軍と全Sランククランの総力戦。
普通なら、壊滅的な被害を避けられなかった。
その災害を、星纏いの魔女が終わらせた。
「星纏いの魔女だ!」
誰かが叫んだ。
「星纏いの魔女が、王都を救った!」
歓声がさらに大きくなる。
だが、その中心にいるシャーロットは、歓声へ応える余裕がなかった。
星杖シリウスを地面につき、ガルドに支えられながら、どうにか立っている。星衣リゲルの胸元には、小さな赤い染みがある。鼻血はもう止まりかけていたが、顔色は明らかに悪い。
手が震えていた。
指先だけではない。腕の奥が、細かく震えている。星杖シリウスを握る指に力が入りきらず、何度も滑りそうになる。星帽ポラリスの内側では、補助術式が熱を持ち、星衣リゲルは魔力回路の熱を逃がそうと淡く明滅していた。
「倒れてはいません」
シャーロットは小さく言った。
ガルドは彼女を支えたまま、低く返す。
「その言葉、もう禁止にしろ」
「でも、本当に……」
「立ててねえだろ」
「支えられているだけです」
「それを立ってるとは言わねえ」
ガルドの声は怒っているようで、少し震えていた。
シャーロットはそれに気付いて、言葉を止めた。
ガルドは、戦場で恐れない。黒龍の前にも立った。緑竜の巨体が落ちてきても、大剣を構えて受け流した。どんな魔物を前にしても、彼の声は揺れない。
そのガルドの声が、今は少しだけ揺れている。
それは、シャーロットが思っていたよりずっと、自分が心配をかけているということだった。
「……すみません」
「謝る相手は俺だけじゃねえぞ」
その直後だった。
「シャーロットさん!」
ソフィアが救護所から走ってきた。
治療用の布袋を腰に下げ、手には水と薬草包を持っている。息を切らしているが、足は止めない。彼女の顔は青ざめていた。怒っている。泣きそうでもある。けれど、治癒術師としての目は揺れていなかった。
シャーロットの前まで来ると、ソフィアはまず鼻血を確認し、次に瞳、呼吸、手の震え、魔力の流れを見た。
そして、表情をさらに険しくした。
「座ってください」
「でも、まだ周囲の確認が……」
「座ってください」
「ソフィアさん、私は……」
「座ってください!」
その声に、近くの兵士達まで背筋を伸ばした。
シャーロットは口を閉じた。
ガルドがすぐに近くの瓦礫を避け、壊れていない木箱を引き寄せる。シャーロットはそこへ座らされた。自分から座ったというより、ガルドとソフィアの圧に押し切られた形だった。
ソフィアは膝をつき、シャーロットの手首に指を当てる。
「魔力回路が熱を持っています。呼吸も浅いです。手の震え、視界の揺れ、鼻血。頭痛はありますか」
「少しだけ」
「少し、ではありませんね」
「……あります」
「めまいは」
「少し」
ソフィアの目が細くなる。
「あります」
「最初からそう言ってください」
「はい」
ガルドが横で腕を組む。
「怒られてるな」
「ガルドさんも後でです」
ソフィアが即座に言った。
ガルドが珍しく黙る。
「俺もか?」
「近くにいたのに、ここまでさせました」
「止められる状況じゃなかっただろ」
「分かっています。でも怒ります」
「理不尽じゃねえか?」
「心配したので」
ガルドは何も言えなくなった。
シャーロットが少しだけ笑いそうになったが、その瞬間に頭痛が走り、顔をしかめた。
ソフィアはすぐに気付く。
「笑わないでください。今、頭に響きましたね」
「……はい」
「まったく」
ソフィアは治癒術を発動した。
淡い緑の光が、シャーロットのこめかみと胸元を包む。ただし、傷を塞ぐ時のような強い治癒ではない。熱を持った魔力回路を冷まし、乱れた呼吸を整え、過剰に緊張した身体を落ち着かせるための補助だ。
治癒術師としてのソフィアの手つきは、以前よりずっと落ち着いていた。
銀翼にいた頃の彼女なら、目の前の症状だけを追っていたかもしれない。だが今は違う。シャーロットが何をしたのか、その負荷がどこに出ているのかを考えている。
十五キロ探知。
王都結界。
星槍レグルス。
星雨・黎明。
その全てが、身体と魔力回路に重なっている。
「これは、普通の魔力切れではありません」
ソフィアは低く言った。
「魔力量が尽きたというより、演算負荷と制御負荷で身体側が悲鳴を上げています。魔力回路の熱もあります。頭痛と鼻血は、探知と星雨・黎明の多重処理の反動ですね」
シャーロットは小さく頷く。
「星雨・黎明は、少し処理が多かったので」
「少し?」
「……かなり」
「かなり、でも足りません」
そこへアメリアが来た。
彼女も戦場全体の指揮を終えたばかりで、髪に砂埃がついている。頬には小さな擦り傷があり、服も汚れていた。だが、その目はいつものように鋭い。
「シャーロット」
「はい」
「説教の時間よ」
「今ですか?」
「今よ」
アメリアは腕を組み、シャーロットを見下ろした。
「あなた、私が何度言ったか覚えている?」
「一人で全部やろうとしないこと、です」
「覚えているのね」
「はい」
「では、今日のあなたはどうだった?」
シャーロットは少しだけ視線を横へ向けた。
ガルドが黙って見ている。
ソフィアも見ている。
レオンも情報盤を抱えたまま、少し離れた場所でこちらを見ていた。アクセルも前線から戻り、腕を組んで立っている。
逃げ場はなかった。
「……皆さんに、かなり助けていただきました」
「そこは正しいわ」
アメリアは頷いた。
「レオンが情報を渡し、ガルドが近くを守り、アクセルが大型種をまとめ、私が全軍に指示を出し、ソフィアさんが救護と負荷確認をした。獅子の咆哮全体であなたを支えた。それは良かった」
シャーロットは少しだけ安心しかけた。
しかし、アメリアの声はそこで冷たくなる。
「でも、あなた自身の限界申告が遅い」
シャーロットの肩が小さく跳ねた。
「鼻血が出た時点で報告。手が震え始めた時点で報告。視界が揺れた時点で報告。頭痛が出た時点で報告。あなたは、どれも自分からは言っていない」
「戦闘中でしたので……」
「戦闘中だからこそ言うの」
アメリアの声は厳しかった。
「あなたが倒れたら、術式が崩れる。術式が崩れれば、味方も民間人も危険になる。あなたの身体の状態は、あなた一人の問題ではないわ」
その言葉に、シャーロットは目を伏せた。
自分の身体を後回しにすることは、昔からの癖だった。
必要だったから。
自分ならできるから。
少し無理をすれば間に合うから。
銀翼では、それで回っていた。
でも、獅子の咆哮では違う。
彼女の状態を、皆が見る。
彼女の負荷を、皆が心配する。
彼女が倒れれば、皆が傷つく。
それを、まだ十分に理解できていなかったのかもしれない。
「……すみません」
今度の謝罪は、少し深かった。
アメリアは息を吐いた。
「謝るより、次から言うこと」
「はい」
「ソフィアさん」
「はい」
「診断を」
ソフィアはすぐに答えた。
「少なくとも数日は静養が必要です。魔力を大きく使う行為は禁止。探知も禁止。訓練指導も禁止。術式整理も禁止。資料作成も禁止です」
「資料作成もですか?」
シャーロットが思わず聞き返す。
ソフィアとアメリアの視線が同時に刺さった。
「禁止です」
「禁止よ」
「……はい」
ガルドが少し笑った。
「完全に読まれてるな」
「ガルドさんも笑わないでください」
「いや、今回は笑うだろ」
アメリアが言う。
「ガルド、あなたは見張り役」
「俺か?」
「あなたが一番近くにいるでしょう。シャーロットが資料を作ろうとしたら止めなさい。探知しようとしたら止めなさい。こっそりヴェガを持ち出そうとしたら取り上げなさい」
「了解」
「ガルドさん?」
「諦めろ。俺も怒られたくねえ」
シャーロットは困ったように眉を下げた。
アクセルがそこで、低く笑った。
「まあ、今回は休め。王都を救ったんだ。数日寝ていても誰も文句は言わん」
「でも、戦後処理が……」
レオンが眼鏡を直すような仕草をしながら言った。
「戦後処理はこちらで行います。あなたが作るべき報告書はありません。むしろ、あなたが動くと報告書が増えます」
「私が動くと増えるんですか?」
「増えます」
即答だった。
シャーロットは少ししょんぼりした。
その様子に、周囲の獅子の咆哮の団員達から小さな笑いが漏れる。
戦場の真ん中だった。
魔物の死骸が遠くに積み重なり、兵士達は疲れ切り、救護班はまだ忙しく動いている。王都は傷つき、防衛線もぼろぼろだった。
それでも、その小さな笑いは必要だった。
生きているから、笑える。
終わったから、叱れる。
守れたから、休ませられる。
ソフィアはシャーロットの手を包むようにして、もう一度治癒術を流した。
「本当に、怖かったんです」
その声は、少しだけ震えていた。
シャーロットは顔を上げる。
ソフィアは視線を逸らさなかった。
「星雨・黎明の間、ずっと見ていました。鼻血が出て、手が震えて、顔色が悪くなって。それでも止まらないから。私、どうしたらいいのか分からなくて」
「ソフィアさん……」
「治癒術師なのに、すぐそばに行けなくて。救護所を離れられなくて。でも、見ていなければいけなくて」
ソフィアは唇を噛んだ。
「だから、終わった後くらい、ちゃんと診させてください。怒らせてください。休ませてください」
シャーロットは、胸の奥が温かく、少し痛くなるのを感じた。
怒られることが、こんなに温かいものだとは、昔は知らなかった。
「はい」
今度は、素直に頷いた。
「お願いします」
ソフィアの目が少しだけ潤んだ。
「はい」
アメリアも、少し表情を和らげる。
「よろしい」
その時、王国軍の将官が近づいてきた。
彼は鎧に傷を受け、顔にも煤がついていた。だが、姿勢を正し、シャーロットの前で深く頭を下げた。
「星纏いの魔女殿。王国軍を代表して、感謝を申し上げる。あなたがいなければ、王都は守れなかった」
周囲の兵士達も、次々に頭を下げる。
シャーロットは慌てて立とうとしたが、ソフィアとガルドとアメリアに同時に止められた。
「座っていてください」
「動くな」
「そのまま」
「……はい」
シャーロットは座ったまま、少し困ったように頭を下げた。
「私一人ではありません。王国軍の皆さんが防衛線を支えてくれて、獅子の咆哮のみんなが支えてくれて、救護班や避難誘導の方々もいて……だから、守れました」
将官は、その言葉を聞いて静かに頷いた。
「その通りだ。だが、それでもあなたの功績は消えない」
シャーロットは言葉に詰まる。
将官は続けた。
「感謝は、受け取ってくれ」
その言葉は、数日前の酒場でアメリアに言われた言葉と似ていた。
感謝を断られると、渡す方も困るのよ。
シャーロットは、少しだけ目を伏せた。
そして、小さく頷く。
「……はい。ありがとうございます」
将官はもう一度頭を下げ、戦後処理へ戻っていった。
その背を見送りながら、シャーロットは空を見上げた。
星雨・黎明の光は、もう消えている。
昼の空が戻っていた。
けれど、その空の下に、王都は残っている。
酒場も。
広場も。
東通りも。
子供達も。
職人達も。
獅子の咆哮の本部も。
ソフィアが来てくれた場所も。
全部、まだここにある。
守れた。
その実感が、少し遅れて胸に落ちた。
力が抜けた。
ガルドがすぐに支える。
「おい」
「すみません。少し、安心しました」
「安心するのはいい。倒れるな」
「倒れてはいません」
「だから、それは禁止だ」
シャーロットは、今度こそ小さく笑った。
ソフィアがすぐに言う。
「笑っている場合ではありません。搬送します」
「搬送?」
「はい。救護所へ」
「歩けます」
「却下です」
「でも」
「却下です」
アメリアが頷く。
「担架ね」
「担架は大げさでは……」
ガルドが彼女を見下ろした。
「自分で歩いて倒れられるよりはいい」
「倒れません」
「禁止語が多いな、今日は」
「……はい」
結局、シャーロットは救護班の担架に乗せられた。
王都を救った星纏いの魔女が、真っ赤になりながら担架で運ばれる。その光景に、周囲の兵士達や冒険者達は最初驚き、それから小さく笑った。
誰も馬鹿にしているわけではない。
むしろ、安心していた。
あれほどの魔法を使った人が、ちゃんと周囲に怒られ、休まされ、運ばれている。それが、なぜか救いのように見えた。
「星纏いの魔女様でも、怒られるんだな」
兵士の一人が呟く。
別の兵士が笑った。
「そりゃ、鼻血出して大丈夫って言ったら怒られるだろ」
「違いない」
その声が聞こえて、シャーロットは担架の上でさらに顔を赤くした。
「聞こえています……」
ガルドが横を歩きながら言う。
「聞かせてんだろ」
「ひどいです」
「反省しろ」
「しています」
「本当か?」
「少しずつ」
「そこは全部しろ」
アメリアが後ろから言う。
「その会話、あとで説教に追加するわ」
「アメリアさん……」
ソフィアは担架の横で、真剣な顔のまま言った。
「説教の前に診察です」
「はい」
「診察の後に休養です」
「はい」
「休養中、資料作成禁止です」
「……はい」
少し間が空いたことに、全員が気付いた。
「今、間があったわね」
アメリアが言う。
「ありましたね」
ソフィアも言う。
「ありました」
ガルドも言う。
「そんなに見なくても……」
シャーロットは担架の上で小さくなった。
戦場には、まだ後処理が残っている。
魔物の確認。負傷者の搬送。防衛線の修復。王国軍への報告。避難民の帰還準備。やることは山ほどある。
だが、シャーロットはその全てから一度外されることになった。
それは彼女にとって少し落ち着かないことだったが、同時に、不思議な安心でもあった。
自分が全部やらなくても、皆が動いてくれる。
自分が倒れないように、皆が見てくれる。
自分が休むことを、皆が許してくれる。
いや、許すどころか、強制してくれる。
それは、銀翼にはなかったものだった。
救護所へ運ばれながら、シャーロットは遠くの王都を見た。
白い城壁。
修復途中の足場。
避難民の列。
空へ上がる煙。
それでも、そこにある街。
胸の奥に、酒場の笑い声が蘇る。
『星纏いの魔女に、乾杯!』
『獅子の咆哮に!』
『王都に!』
守れた。
そう思った瞬間、ようやく本当に力が抜けた。
ソフィアがすぐに気付く。
「シャーロットさん?」
「少し、眠いです」
「寝てください」
「でも、まだ……」
「寝てください」
今度は、シャーロットも逆らわなかった。
「はい」
目を閉じる。
戦場の音が、少しずつ遠のく。
ガルドの足音。
アメリアの指示。
ソフィアの治癒術の温かさ。
レオンの通信。
アクセルの号令。
王都の歓声。
その全てを聞きながら、シャーロットは短い眠りへ落ちていった。
星雨はもう降っていない。
それでも、彼女の周りには、彼女を見ている人達がいた。
彼女が誰かを守ったあと、今度は彼女を守るために。




