第9節 星雨・黎明①
「星雨・黎明の準備に入ります」
その言葉が通信線を通じて響いた瞬間、戦場の音が一瞬だけ遠のいたように感じられた。
実際には、静かになどなっていない。
地上では魔物の群れが押し寄せている。北東正面では王国軍第一、第二軍団が盾を並べ、魔法兵が火と雷を撃ち続けている。東側迂回群はなおも避難路へ圧力をかけ、北側修復区画では大型種が結界杭を踏み砕こうとしていた。
剣戟。
咆哮。
怒号。
悲鳴。
魔法の炸裂音。
大地を揺らす三十万の足音。
何一つ、終わっていない。
緑竜は落ちた。
空は取り戻した。
だが、地上にはまだ、黒い海のような魔物群が広がっていた。
「シャーロット」
ガルドの声が低くなる。
彼は大剣を構えたまま、彼女の横顔を見た。
星槍レグルスを広域展開した直後だ。緑竜群を撃ち落とした爽快な光景の裏で、彼女の手は確かに震えていた。星杖シリウスを握る指先がわずかに白くなり、星衣リゲルの内側で魔力循環が熱を帯びている。
十五キロ探知。
王都結界。
東側への先行救援。
緑竜群への星槍レグルス。
すでに普通の魔法使いなら、何度倒れていてもおかしくない負荷だった。
それなのに、彼女はさらに術式を広げようとしている。
「それは、今やる必要があるのか」
ガルドの問いに、シャーロットは地平を見たまま答えた。
「はい」
短い返事だった。
「今やらないと、防衛線が持ちません」
ガルドは奥歯を噛んだ。
その答えが正しいことを、彼も分かっていた。
王国軍は戦っている。Sランククランも戦っている。獅子の咆哮も戦っている。どの前線も、決して弱くはない。むしろ、この規模の魔物群を相手に、まだ王都外縁で受け止めているだけでも異常な粘りだった。
だが、数が違いすぎた。
三十万。
倒しても倒しても、次の魔物が来る。前衛が一体を斬れば、その後ろから十体が押す。魔法兵が群れを焼けば、煙の向こうから別の群れが走る。大型種を止めても、その影を小型がすり抜ける。
防衛線は、強さだけでは守れない。
押し寄せる数に、いつか削られる。
レオンの通信が入った。
『各防衛線の状況を共有します。北東正面、第一防衛線は維持。ただし交代兵力が不足。東側迂回群は一部を押し戻していますが、後続多数。北側大型群、獅子の咆哮前衛が支えていますが、結界杭の損耗が増加。現状のままでは、長時間維持は困難です』
事実だけの報告。
だからこそ重い。
アメリアの声が続く。
『シャーロット、星雨・黎明というのは何? あなたが今ここで使おうとしているものを、私達は知らないわ』
「広域殲滅術式です」
殲滅。
その言葉に、近くの王国兵が息を呑んだ。
だが、シャーロットはすぐに続ける。
「ただし、大火力で焼き払うものではありません。王都周辺の戦場全域を対象にして、魔物だけを選別して撃ちます」
通信線の向こうで、沈黙が落ちた。
レオンが、珍しくすぐに返せなかった。
やがて、慎重な声で問う。
『魔物だけを、ですか』
「はい」
『味方と避難民を除外して?』
「はい」
『建物、退避路、医務班、補給路、防衛線の結界杭も?』
「除外します」
『対象は、三十万規模の魔物群です』
「はい」
レオンの沈黙が、答えだった。
普通の魔法使いなら、そんなものは術式とは呼ばない。
夢物語だ。
広域魔法なら、範囲内を焼き払う。雷で薙ぎ払う。地面を裂く。炎の壁を作る。氷で閉じ込める。だが、それらは味方も巻き込む。建物も壊す。避難路も塞ぐ。
シャーロットが今言っているのは、そういう魔法ではない。
戦場全域を見て。
全対象を識別して。
敵味方を選別して。
構造物と人を避けて。
魔物だけを撃つ。
しかも、対象は三十万。
十五キロ探知は、見るだけだった。
今度は違う。
見て、選び、撃ち、外し、守り、更新し続ける。
演算負荷は、比べものにならない。
ソフィアの声が、通信線を割るように響いた。
『駄目です』
短い言葉だった。
シャーロットは少しだけ目を伏せた。
「ソフィアさん」
『駄目です。さっきの十五キロ探知だけで鼻血が出ました。王都結界でも手が震えていました。星槍レグルスの後、魔力循環が乱れています。今の状態でそれ以上の術式なんて、身体が持つはずありません』
「持たせます」
『そういう言い方をしないでください!』
ソフィアの声が震えた。
怒りだけではない。
怖いのだ。
この人は、本当にやってしまう。
必要だと思えば、笑って限界を踏み越える。誰かを死なせないためなら、自分の負荷を後回しにする。
だから、見ていなければならない。
止められなくても、見ていなければならない。
『シャーロットさん。どのくらいの負荷になりますか』
その問いに、シャーロットはすぐには答えなかった。
答えないことが、答えだった。
アメリアの声が低くなる。
『シャーロット』
「十五キロ探知より、かなり重いです」
『かなり?』
「はい」
『あなたの“かなり”は信用できないわ。具体的に』
シャーロットは星杖シリウスを見下ろした。
夜空を閉じ込めたような核が、深く光っている。
「探知だけなら、見るだけです。でも星雨・黎明は、見る範囲すべてに対して、攻撃と保護を同時に行います。魔物の位置、味方の位置、民間人、建物、退避路、医務所、補給線。全部を識別し続けます。その上で、星の一粒ごとに軌道と威力を変えます」
通信線の向こうが静まり返る。
「魔物が動けば再計算します。味方が前へ出れば避けます。避難民が転べば、その周囲を外します。建物が崩れそうなら、着弾角度を変えます。防衛線を越えそうな個体は優先して撃ちます」
シャーロットの声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
「全部、同時にやります」
ソフィアは息を呑んだ。
それはもう、魔法というより、戦場全体を一人で抱える行為だった。
アメリアが言う。
『代替案は?』
レオンがすぐに答えた。
『王国軍の全戦力を集中させても、全域殲滅は不可能です。防衛線を縮小すれば王都外縁区の一部を捨てることになります。避難民の移動はまだ完全ではありません。魔物群の後続が多すぎます』
アクセルの声が通信に乗る。
『こちらも限界ではない。だが、長くは持たん。大型種を止め続ければ前衛が削られる』
ガルドが低く言った。
「下は止める。だが、数は減らねえ」
全員、分かっていた。
星雨・黎明を使わなければ、王都は守り切れない。
だが、使えばシャーロットに大きすぎる負荷がかかる。
その狭間で、誰もすぐには決められなかった。
シャーロットは、ふと東側の通りを見た。
避難路の先で、馬車が進んでいる。
泣きながらも母親に抱かれている子供。
負傷者を支える兵士。
水を配る町人。
救護班に運ばれていく老人。
遠くでは、酒場の店主らしき大柄な男が、避難民の荷物を運ぶのを手伝っていた。
見間違いかもしれない。
でも、シャーロットにはそう見えた。
あの夜、甘い焼き菓子を出してくれた人。
星纏いの魔女に乾杯、と笑ってくれた人達。
皆が、まだ生きている。
なら、守る。
シャーロットは、通信線へ静かに声を流した。
「私は、全部を一人でやるつもりはありません」
ガルドが目を向ける。
アメリアも黙って聞いた。
「レオンさん。敵味方の大まかな配置を常に送ってください。私の探知だけで全部を見るより、情報盤の補助があれば演算を減らせます」
『了解。各防衛線から情報を集約します』
「アメリアさん。味方に、私の術式範囲内で無理に前へ出ないよう指示をお願いします。前衛が急に動くと、除外計算が増えます」
『任せて。全区域へ通達するわ』
「アクセルさん。大型種の進路をできるだけ一方向へまとめてください。散られると負荷が増えます」
『分かった。押し込む』
「ガルドさん」
「ああ」
「私の周囲をお願いします。術式中は、近くの敵への反応が遅れます」
「任せろ」
即答だった。
「ソフィアさん」
『はい』
「私の負荷を見ていてください。危険なら、言ってください」
『言ったら止まりますか』
シャーロットは少しだけ黙った。
「止まれるように、努力します」
『……そこは、止まりますと言ってほしかったです』
「すみません」
ソフィアは小さく息を吐いた。
『分かりました。見ます。絶対に見ます。無茶をしたら、戦場でも怒ります』
「はい」
『それと、終わったら数日休ませます』
「数日……」
『休ませます』
アメリアの声が重なる。
『異議なし』
ガルドも言う。
「逃げられると思うなよ」
シャーロットは少し困ったように笑った。
「分かりました」
そのやり取りが、わずかに戦場の緊張を緩めた。
だが、すぐに地響きがそれを押し潰す。
北東正面から、王国軍の悲鳴に近い報告が入る。
『主力接触! 第一防衛線、圧力増大!』
『東側迂回群、再接近!』
『北側大型群、結界杭二本破損!』
時間はない。
シャーロットは星杖シリウスを両手で握った。
星脈晶ヴェガを腰から外し、杖の根元へ添える。三つの星脈晶が淡く光り、シリウスから流れ込む大出力を受け、整え、逃がす。星帽ポラリスが索敵補助を最大限に近い形で展開し、星衣リゲルが彼女の魔力回路を守るように淡く輝いた。
それでも、足りるかどうか分からない。
だからこそ、獅子の咆哮全体が支える。
レオンの情報盤から、戦場の配置が送られてくる。
味方の防衛線。
王国軍の位置。
Sランククランの前線。
救護所。
避難路。
民間人の流れ。
補給馬車。
城壁。
修復区画。
魔物群。
シャーロットはそれを受け取り、自分の探知と重ねた。
頭の中に、王都周辺の戦場が広がる。
広い。
重い。
あまりにも多い。
だが、見える。
魔物の群れの中に、無数の点がある。
敵。
味方。
守るべきもの。
避けるべきもの。
撃つべきもの。
「星雨・黎明」
シャーロットは、静かに術式名を呼んだ。
足元に魔法陣が広がった。
黒龍戦の時よりも細かい。
星槍レグルスの時よりも広い。
王都の外縁、避難路、防衛線、救護所、補給路、城壁、地上の魔物群。それらすべてを結ぶように、青白い線が走る。
一つの円ではない。
いくつもの円。
いくつもの線。
いくつもの星点。
まるで、王都を中心に巨大な星図が地上へ描かれていくようだった。
王立研究院の魔法使いが、遠くの指揮所でそれを見て、呆然とした。
「また術式が変わった……」
記録板を持つ手が震える。
「さっきの星槍は対空用だった。これは違う。もっと広い。地上全域を……いや、待て。味方識別の術式がある。避難路の除外線もある。建物保護の補助式も……」
彼は途中で言葉を失った。
多すぎる。
あまりにも多すぎる。
「解析できない」
そう呟くしかなかった。
空に、星が灯り始める。
今度は槍ではない。
小さな光。
雨粒のように細かい星。
十。
百。
千。
さらに増えていく。
王都の空が、昼であるにもかかわらず、星空に変わっていく。
避難民が足を止め、空を見上げた。
兵士達も、冒険者達も、救護班も、補給班も、魔物と斬り結ぶ前衛達でさえ、ほんの一瞬だけ空を見た。
「星……?」
誰かが呟いた。
シャーロットの額に、汗が浮かぶ。
鼻の奥が熱い。
手の震えが強くなる。
だが、術式はまだ始まっていない。
これは、準備段階に過ぎない。
味方を外す。
民間人を外す。
建物を外す。
退避路を外す。
救護所を外す。
補給路を外す。
魔物だけを選ぶ。
一つずつ。
何千、何万、何十万の対象の中から。
選び続ける。
ソフィアが救護所からその姿を見ていた。
シャーロットの顔色が変わっている。
唇の色が少し薄い。
手が震えている。
呼吸が浅くなりかけている。
それでも、目だけは澄んでいる。
ソフィアは拳を握った。
止められない。
なら、見逃さない。
「救護班、準備してください」
周囲の治癒術師達が振り返る。
「何の準備を?」
ソフィアは、シャーロットを見たまま答えた。
「シャーロットさんを、倒れさせない準備です」
その言葉に、救護班の空気が変わる。
薬。
水。
布。
担架。
魔力回復補助。
熱を逃がす薬草。
治癒術師の配置。
全てが整えられていく。
ガルドはシャーロットのすぐ近くで、大剣を構えていた。
近づく魔物は、一体も通さない。
アメリアは全区域へ通達を飛ばしていた。
「全軍へ! 星纏いの魔女の術式範囲に入る! 前衛は無理に突出しない! 避難民を動かす時は指定経路を守って! 救護班、補給班、動線を変えない!」
レオンは情報盤に両手を置き、各区域の動きを拾い続ける。
「北東正面、味方位置更新。東側避難路、民間人移動中。北側大型群、アクセルさんが進路をまとめています。シャーロットさん、送ります」
「受け取っています」
シャーロットの声は、少しだけ細かった。
それでも、揺れなかった。
星が空に満ちていく。
魔物の群れはまだ押し寄せている。地響きは止まらない。防衛線は軋み、王国軍の怒号が響き、剣と牙がぶつかっている。
そのすべての上に、静かな星空が広がった。
シャーロットは星杖シリウスを握り、目を閉じた。
酒場の笑い声が浮かぶ。
子供達の声が浮かぶ。
ソフィアの若草色の布袋。
ガルドの「帰ってこい」という声。
アメリアの「休みなさい」という声。
レオンの冷静な記録。
アクセルの力強い号令。
獅子の咆哮の仲間達。
王都の人々。
守るものは、もう迷わない。
シャーロットは目を開けた。
空の星が、一斉に震えた。
「夜を、終わらせます」
静かな宣言だった。
そして、星雨・黎明が始まった。




