第6節 王都結界
東側外縁区に、戦う形が戻った。
ガルドが前に立ち、獅子の咆哮の前衛達が左右へ広がる。王国軍の支援部隊が崩れた木柵の内側へ入り、盾を並べた。搬送路は水路沿いへ切り替わり、避難民の馬車列が少しずつ動き出している。
だが、それだけで安心できる状況ではなかった。
地上には、まだ魔物が押し寄せている。
獣型の群れ。
甲殻を持つ大型種。
小型の牙持ち。
建物の隙間を抜けようとする魔物。
そして空には、緑竜三体。
さらに遠くの空にも、別の緑竜の影が見え始めていた。
東側外縁区は、王都の防衛線の中でも弱い場所になってしまっている。避難民が通り、兵士が押し戻し、救護班が負傷者を受け入れる。人の流れと戦闘の流れが近すぎる。
このままでは、もう一度崩れる。
シャーロットは星杖シリウスを手に取った。
「ガルドさん、前をお願いします」
「任せろ」
ガルドは振り返らずに答えた。
次の瞬間、彼の大剣が横薙ぎに走る。
ズォンッ!
地面を蹴って突っ込んできた大型魔物の前脚が砕け、巨体が傾いた。獅子の咆哮の前衛達が左右から槍を入れ、王国兵が盾で押し返す。
「今だ、押せ!」
ガルドの声に、前線が一歩だけ前へ出る。
その一歩が大きかった。
避難民との距離が広がる。救護班が動ける。馬車が進める。戦場に、わずかだが余白ができる。
シャーロットはその余白を見逃さなかった。
星杖シリウスの石が、深い夜空のように光る。
彼女は杖の先を石畳へ軽く置いた。
カン、と澄んだ音。
その音を中心に、青白い魔法陣が広がった。
最初は足元だけだった。
次に、崩れた防衛線へ。
さらに、水路沿いの退避路へ。
馬車列の周囲へ。
負傷者が集められている仮設救護所へ。
避難民が走る通りの上へ。
細い線が石畳を走り、建物の壁を伝い、空中で円を描く。線と線が繋がり、立体の星図のような術式へ変わっていく。
王国兵の一人が呆然と呟いた。
「結界……なのか?」
普通の結界ではなかった。
一枚の壁を張るのではない。
街区そのものを、薄い透明な膜で包み込むような結界だった。
だが、完全に閉じてはいない。避難民の通る道は開いている。味方の出入りもできる。魔物の進行方向だけを阻み、ブレスの射線だけを逸らし、瓦礫や破片が人に飛ばないように細かく流れを変える。
守るための結界であり、戦場を整えるための結界だった。
「王都結界、東側局所展開」
シャーロットの声は静かだった。
その瞬間、東側外縁区の空に、淡い星の光が灯った。
ドォンッ!
地上の大型種が結界にぶつかる。
透明な壁が揺れる。だが割れない。衝撃は結界の面を伝い、水路側ではなく、開けた空地へ逃がされた。巨体が横へ流れ、そこへガルドが踏み込む。
「こっちだ!」
大剣が振り下ろされる。
ゴォンッ!
魔物の頭部が石畳へ叩きつけられ、動きが止まる。
「いいぞ、シャーロット!」
「はい。次、右から来ます」
「分かってる!」
ガルドは笑うように答え、右から飛び込んできた獣型魔物を大剣の腹で弾き飛ばした。
その後方では、ソフィアが救護班の中で動いていた。
「重傷者はこちらへ! 軽傷者は壁際に座らせてください。水を飲ませて、呼吸を整えて!」
「ソフィアさん、肩を裂かれた兵士が!」
「先に止血します。治癒術の準備を!」
ソフィアは負傷者の肩へ手を当てた。
淡い緑の光が傷口を包む。流れる血が止まり、裂けた肉が閉じていく。ただし、全てを一瞬で治すわけではない。今は数が多い。命に関わる出血を止め、動かせる状態にする。重い治療は後方へ送ってからだ。
彼女は治療しながら、同時に前線へ視線を走らせた。
盾役の一人の呼吸が荒い。
魔法兵の一人が魔力を押し込みすぎている。
搬送路の入口に人が詰まり始めている。
負傷者を運ぶ兵士の足がもつれかけている。
見えた。
全部ではない。
シャーロットのように全体が流れとして見えるわけではない。
それでも、前より見える。
「盾役の方、交代を早めてください! 右腕が落ちています!」
「えっ、俺か?」
「あなたです! 次の突進を受けたら折れます!」
近くの兵士が慌てて交代に入る。
ソフィアは次に魔法兵へ声を飛ばす。
「詠唱を急がないでください! 息を吐いて、魔力を細く!」
魔法兵がはっとした顔で呼吸を整える。暴発しかけていた火属性魔法の揺れが収まり、狙いが安定した。
火球が飛ぶ。
ただし、市街地を焼かないように、結界の外側へ誘導される。
ボォンッ!
魔物だけを巻き込み、炎が弾けた。
ソフィアは一瞬だけ、シャーロットを見た。
シャーロットは前方を見たまま、結界の角度を微調整している。魔物の流れ、味方の位置、避難民の速度、建物の耐久、上空の緑竜の高度。それらを同時に見ている。
すごい。
そう思う。
でも、ただ見上げるだけでは終われない。
「搬送路、右へ少しずらしてください! このままだと次の負傷者と避難民がぶつかります!」
「了解!」
ソフィアの声で、救護班が動く。
シャーロットはそれを感じ取り、微かに微笑んだ。
ソフィアは負傷者を救っている。
そして、負傷者を増やさないためにも動いている。
自分だけではない。
ちゃんと、繋がっている。
その時、空が暗くなった。
緑竜三体が、同時に高度を下げた。
「上!」
誰かが叫ぶ。
一体目が喉に緑の光を溜める。
二体目も続く。
三体目は馬車列の上空へ回り込む。
三方向からのブレス。
逃げ場はない。
避難民の中から悲鳴が上がる。母親が子供を抱きしめ、老人が膝をつく。兵士達が盾を掲げるが、緑竜のブレスを盾で止められるはずもない。
シャーロットは星杖シリウスを握り直した。
「結界、上層展開」
王都結界の星図が、一段上へ広がる。
建物の屋根の高さ。
そのさらに上。
空中に薄い光の面が三枚、ずれて重なるように浮かんだ。
普通の多層障壁ではない。
一つ一つは一層。
ただし、位置も角度も役割も違う。
一枚目は、ブレスの正面圧を受ける。
二枚目は、流れを外へ逸らす。
三枚目は、熱と魔力の余波を上空へ逃がす。
三体の緑竜が、同時にブレスを吐いた。
ゴォォォォォッ!
緑の炎が空を埋める。
視界が染まった。
空気が焼けた。
通り全体が轟音に包まれた。
ドォンッ!
ゴォンッ!
ギィィィンッ!
ブレスが結界に叩きつけられるたび、東側外縁区の建物が震えた。屋根瓦が鳴り、窓ガラスが割れ、石畳の砂埃が舞い上がる。
だが、炎は落ちない。
避難民の上には届かない。
馬車列も、救護所も、搬送路も、燃えない。
「……止まってる」
王国兵が呆然と呟いた。
「三体のブレスを……」
別の兵士が言葉を失う。
シャーロットは、空を見上げたまま微笑んだ。
「大丈夫です。落ち着いて避難を続けてください」
その声は、驚くほど穏やかだった。
だから、避難民の足が動いた。
「走れ! 今のうちに!」
「子供を先に!」
「馬車を動かせ!」
「救護班、負傷者を下げろ!」
声が戻る。
動きが戻る。
恐怖で止まった人々が、再び前へ進み始めた。
ソフィアは負傷者へ治癒術をかけながら、シャーロットの手を見た。
震えている。
星杖シリウスを握る指が、わずかに震えている。
外から見れば、彼女は平然と結界を維持しているように見える。避難民に向けて笑い、安心させる余裕すらあるように見える。
でも違う。
十五キロ探知の負荷が残っている。
東側救援で三体の緑竜を相手にした。
さらに今、王都結界で避難民と建物を守りながら、三方向のブレスを逸らしている。
平気なはずがない。
ソフィアの胸が痛む。
「シャーロットさん……」
思わず声が漏れた。
シャーロットは振り返らなかった。
振り返れないのだと、ソフィアには分かった。
それでも、シャーロットは笑って言う。
「ソフィアさん、負傷者をお願いします」
ソフィアは唇を噛んだ。
泣きそうになるのを、こらえた。
ここで泣いても、誰も助からない。
だから、動く。
「はい!」
ソフィアは声を張った。
「救護班、搬送を急いでください! 結界が保っている間に、全員を下げます!」
「了解!」
王都結界の内側で、人々が動く。
外側では魔物が爪を立て、牙を鳴らし、結界へぶつかってくる。
ドォンッ!
ドォンッ!
ゴォンッ!
衝撃が重なる。
シャーロットは一つ一つを受け流しながら、避難民の通る道だけを開けていた。
完全に閉じれば楽だ。
魔物を外へ弾き、味方も民間人も全て結界の内側へ閉じ込めれば、防御だけなら単純になる。
だが、それでは避難できない。
負傷者を運べない。
味方が出入りできない。
だから彼女は、結界を閉じない。
開けたまま守る。
流しながら守る。
動く人々を包み、敵だけを遮り、ブレスだけを逸らし、瓦礫だけを防ぐ。
その演算負荷は、ただ硬い壁を張るよりはるかに重かった。
星衣リゲルの内側で、魔力循環が熱を帯びる。
星帽ポラリスの補助術式が細かく震える。
星杖シリウスの核が、夜空のように深く光る。
シャーロットの手の震えが、少しだけ強くなった。
ガルドが気付かないはずがなかった。
「シャーロット!」
「まだです」
「何も言ってねえ」
「止める声でした」
「分かってんなら考えろ」
「あと少しです」
ガルドは歯を噛みしめた。
前へ出る。
大剣を振る。
結界に取り付こうとする大型魔物を叩き落とす。
ズドンッ!
「だったら、その“あと少し”を短くする!」
ガルドの声に、獅子の咆哮の前衛達が応える。
「押せぇ!」
「避難路から引き離せ!」
「シャーロットさんにこれ以上負荷をかけるな!」
前線が熱を帯びる。
王国兵も続く。
「獅子の咆哮に続け!」
「魔物を結界から離せ!」
「避難民を守れ!」
戦場の流れが変わる。
シャーロットが守り、ガルドが押し返し、アメリアの指示が通り、レオンの情報が繋がり、ソフィアが救護を回す。
一人の力ではない。
それぞれの役割が、噛み合い始めていた。
そして、ついに最後の馬車が水路沿いの退避路へ入った。
「避難民、主要区画からの離脱完了!」
王国兵の声が響く。
ソフィアがすぐに確認する。
「救護班、残存者確認!」
「子供二名、老人一名、搬送済み!」
「負傷者五名、後方へ移送中!」
「歩ける者、全員退避路へ!」
ソフィアは顔を上げた。
「シャーロットさん、避難完了です!」
その言葉を聞いた瞬間、シャーロットの肩から、ほんの少し力が抜けた。
王都結界の光が、静かに揺れる。
緑竜三体が、なおも空で旋回している。
地上の魔物もまだいる。
だが、守るべき避難民は下がった。
ここからは、戦える。
シャーロットは星杖シリウスを握り直した。
手は震えている。
鼻の奥には熱が残る。
それでも、瞳は澄んでいた。
「では」
彼女は空を見上げる。
「緑竜を、落とします」
ガルドが大剣を構えたまま、口元を上げた。
「待ってた」
アメリアの通信が入る。
『シャーロット、負荷は?』
「まだ動けます」
『その言い方は信用しないわ。短く終わらせなさい』
「はい」
ソフィアが救護所から叫ぶ。
「終わったら診ます!」
「はい」
レオンの声も続く。
『緑竜三体、東側上空。高度、下降中。さらに北東から追加の緑竜群が分離しつつあります。ここで落とさないと、他区域へ散ります』
「分かりました」
シャーロットは星杖シリウスを掲げた。
空に、星が灯る。
一つ。
二つ。
三つ。
緑竜達が本能的に身を震わせる。
それは、まだ小さな星点だった。
だが、王都結界の内側にいた者達は、空気が変わったのを感じた。
黒龍戦を知る者は、息を呑んだ。
シャーロットは、静かに告げる。
「星槍レグルス、展開します」




