第5節 単身救援
東側外縁区の防衛線は、半ば崩れていた。
木柵は折れ、結界杭は三本が倒れ、石畳には馬車の車輪が砕けて転がっている。避難民を乗せた馬車列は途中で詰まり、兵士達が必死に人を下げようとしていた。だが、押し寄せる魔物の数が多すぎる。
獣型の魔物が柵を越える。
甲殻を持つ大型種が、通りの入口を押し潰す。
小型の魔物が、建物の隙間から避難民の方へ回り込もうとする。
そして上空には、緑竜が三体。
そのうち一体は、シャーロットの一層障壁にブレスを止められ、怒りに喉を鳴らしていた。
グォォォォォッ!
竜の咆哮が、外縁区の建物を震わせる。
避難民の中から悲鳴が上がった。子供を抱えた母親がしゃがみ込み、老人が荷物を落とし、兵士が盾を構え直す。誰もが限界だった。
その前に、シャーロットが立っていた。
星衣リゲルの裾が、熱を含んだ風で揺れる。星帽ポラリスの縁の内側で、索敵補助の術式が淡く光る。星脈晶ヴェガは、彼女の魔力を受け、整え、逃がしながら澄んだ音を立てていた。
「まず、避難路を開けます」
シャーロットは小さく言った。
誰かに聞かせるためではない。自分の中で、戦場を組み直すための言葉だった。
倒れた馬車。
崩れた柵。
避難民の位置。
兵士の疲労。
緑竜三体の高度。
地上魔物の流れ。
このままなら、逃げる人々の背後に小型魔物が回り込む。
それを、先に潰す。
シャーロットはヴェガを横へ振った。
「風よ、右へ」
強風ではない。
突風でもない。
通りを撫でるような細い風が、馬車の周囲に散らばった瓦礫を転がし、避難民の足元から遠ざける。同時に、倒れかけた荷車を柔らかく押し、道の端へ寄せた。邪魔なものを吹き飛ばすのではない。人に当たらないように、少しずつ、必要な分だけ動かす。
兵士の一人が目を見開く。
「道が……!」
「馬車を動かしてください。車輪は壊れていますが、下に土台を作ります」
シャーロットの足元から土属性の魔力が走った。
石畳の隙間から土が盛り上がり、壊れた車輪の下に簡易の滑り台のような傾斜を作る。兵士達が馬車を押すと、ぎしりと音を立てて車体が動いた。
「今です。避難民を左へ。建物沿いではなく、中央を通してください。右側の路地は魔物が来ます」
「りょ、了解!」
兵士達が慌てて誘導を始める。
シャーロットは次に、小型魔物の群れへ視線を向けた。
建物の影から、牙を剥いた魔物が走る。避難民を狙っている。兵士達は大型種に気を取られ、横の動きに気付くのが遅れていた。
「光針」
短い詠唱。
バシュッ、バシュッ、バシュッ!
細い光が三本走り、小型魔物の脚を撃ち抜く。致命傷ではなく、走れなくするための一撃。続けて結界を斜めに置き、群れの進路を変える。魔物達は避難民ではなく、兵士達が構える正面へ流された。
「そちらへ行きます!」
「受ける!」
兵士達が盾を並べる。
シャーロットは、その一瞬で後方へ声を飛ばした。
「負傷者を馬車の陰から出してください。そこは次のブレスの余波が来ます」
「分かった!」
「泣いている子を先に。足が止まります」
「おい、子供をこっちへ!」
指示は短い。
けれど、的確だった。
崩れた防衛線の中で、兵士達が再び動き始める。何をすればいいのか分からない混乱が、少しずつ形を取り戻す。
シャーロットは、敵を倒すだけではなかった。
戦場を整えていた。
だが、緑竜は待ってくれない。
一体目が翼を大きく広げ、再び喉に緑の光を溜める。二体目は地上へ降り、爪で建物の屋根を砕いた。三体目は上空を旋回し、避難列の後方へ回り込もうとしている。
「三体同時は、少し困りますね」
シャーロットはそう言いながら、少しも困っていないように見えた。
けれど、星帽ポラリスの内側で補助術式が一段強く光る。
探知。
方向補正。
魔力循環。
上空三体、地上魔物、避難民、兵士、建物。
全てを同時に見ながら、彼女はヴェガを構え直した。
一体目のブレスが来る。
「一層障壁、角度補正」
今度は正面で受け止めない。
薄い光の壁が斜めに立つ。緑のブレスが直撃した瞬間、轟音が通りを揺らした。
ゴォォォォッ――ギィンッ!
ブレスの流れが結界に沿って逸れ、空へ逃げる。建物にも避難民にも当たらない。熱だけが風となって通りを吹き抜けた。
「う、嘘だろ……」
兵士の一人が呟く。
黒龍の息吹を止めた一層障壁。
噂では聞いていた。
だが、実際に目の前で見ると理解が追いつかない。普通なら何枚も重ねてようやく耐える結界を、彼女は一枚で、しかも角度をつけて受け流している。
その間に、二体目の緑竜が地上から爪を振り下ろした。
狙いはシャーロットではない。
避難民を庇って前に出た兵士達だ。
「下がって」
シャーロットの声は穏やかだった。
けれど、次の瞬間には光が走っていた。
ヴェガの先端から放たれた光が、緑竜の爪の関節へ細く刺さる。
バシュンッ!
緑竜の爪が軌道を逸らした。地面を抉り、兵士達の横を叩く。石畳が砕け、砂と破片が舞い上がる。
シャーロットはその破片さえ、風で避難民から逸らした。
三体目が動く。
上空から後方へ回り込み、馬車列を狙う。
シャーロットの目が細くなった。
「そこは駄目です」
彼女はヴェガを空へ向ける。
しかし、その瞬間、背後の情報盤が光った。
レオンの声が、魔力通信で届く。
『シャーロットさん、聞こえますか』
「はい」
『東側救援、現在こちらで支援線を組み替えています。ガルドさんが最短退路を作ります。アメリアさんが王国軍へ避難誘導変更を通達済み。アクセルさんは北側防衛線を維持。あなたは三分、そこを保ってください』
シャーロットは一瞬だけ目を伏せた。
三分。
その短い言葉に、どれだけの動きが詰まっているのか分かる。
彼女を一人で放り出したのではない。
獅子の咆哮は、後ろで戦場を組み替えている。
レオンが情報を繋ぐ。
アメリアが指揮を動かす。
アクセルが本来の防衛線を持たせる。
ガルドが退路を作る。
ソフィアが救護班で負傷者と負傷予兆を見ている。
自分は、ここで三分を稼げばいい。
「分かりました」
シャーロットは答えた。
「三分、持たせます」
その声は、東側だけでなく、獅子の咆哮の連絡線全体に流れた。
北側修復区画。
ガルドはその声を聞き、大剣を肩に担ぎ直した。
「聞いたな」
近くの前衛達が頷く。
「三分で東側への退路を作る。邪魔な魔物は全部どけるぞ」
「了解!」
ガルドが走る。
大型種の脚を斬り、地面へ倒し、その巨体を壁代わりにして魔物の流れを分ける。獅子の咆哮の前衛達が続き、槍と盾で通路を広げる。彼はシャーロットの元へすぐには行けない。だから、彼女が戻れる道を作る。
「お前は帰ってこいよ」
誰にも聞こえない声で、ガルドは呟いた。
同じ頃、アメリアは王国軍の指揮所で声を張り上げていた。
「東側避難民は中央路ではなく水路沿いへ! 緑竜の射線から外れます! 兵を二十、いいえ三十回して。救護班は馬車列の後方ではなく側面へ移動!」
「しかし、中央路を捨てれば物資が……」
「物資より人命!」
アメリアの声に迷いはない。
「後で取り戻せるものと、失ったら戻らないものを間違えないで!」
王国軍の士官が一瞬言葉に詰まり、すぐに頷いた。
「了解! 東側誘導を水路沿いへ変更!」
レオンは情報盤の前で、目まぐるしく動く戦場を記録しながら指示を繋いでいた。
「シャーロットさんの位置、東側外縁区。緑竜三体。地上魔物およそ二千。避難民残存三百前後。ガルドさんの退路確保まで二分半」
彼の声が、各班へ流れる。
「魔法班、東側へ支援結界を二枚投射できますか」
『距離が厳しいです!』
「完全防御ではなく誘導用で構いません。シャーロットさんの結界に重ねないでください。進路を右へ流すだけです」
『了解!』
「救護班、ソフィアさん。東側から負傷者が流れます。受け入れ準備を」
『準備しています』
ソフィアの声は硬かった。
だが、震えてはいなかった。
救護班の前で、彼女は布袋から薬草包と小瓶を取り出している。
「重傷者用の寝台を二つ空けてください。軽傷者は座れる場所へ。搬送路の入口に水を。魔力切れの方は先に横にしてください。あと、前衛班に伝えてください。盾役の交代を早めないと、あと数分で腕が落ちます」
周囲の治癒術師が驚いたように見る。
ソフィアは顔を上げた。
「怪我をしてからでは、遅いです」
その声には、シャーロットから学び始めたものが確かにあった。
東側外縁区。
シャーロットは三分を稼いでいた。
一体目のブレスを逸らし、二体目の爪を止め、三体目の回り込みを光針で牽制する。地上魔物は結界で進路を変え、風で足を乱し、土で通路を塞ぎ、水で滑らせる。
火はほとんど使わない。
市街地だからだ。
建物を燃やさない。
避難民を驚かせすぎない。
煙で視界を奪わない。
使うなら光、風、土、水、結界。
必要な属性を、必要な分だけ。
「右へ! そのまま走ってください!」
「怪我人は馬車へ! 荷物は置いて!」
「そこの兵士さん、腕を下げてください。次の爪が来ます!」
兵士が反射的に腕を下げる。
直後、緑竜の爪が盾の上をかすめた。腕を上げたままだったら、肩ごと持っていかれていただろう。
兵士の顔が青ざめる。
「助かった……!」
「礼は後で。下がってください」
シャーロットは前を見たまま答える。
だが、負荷は確実に増えていた。
十五キロ探知の後だ。鼻の奥にはまだ熱が残っている。頭の奥が鈍く痛む。そこへ三体の緑竜と二千の魔物を相手にしながら、避難民を避け、建物を守り、兵士を動かしている。
普通なら、できることではない。
シャーロットでも、軽くはない。
星衣リゲルの内側で、魔力循環が熱を帯びる。
星帽ポラリスの補助術式が細かく震える。
ヴェガが、過剰な魔力を受け、逃がし続ける。
「あと、少し」
その時、三体の緑竜が同時に動いた。
一体目が上空からブレスを溜める。
二体目が地上から突進する。
三体目が馬車列の後方へ降下する。
三方向。
避難民はまだ全員下がりきっていない。
兵士達の顔に絶望が走る。
シャーロットは、静かに息を吸った。
「一層では、少し足りませんね」
ヴェガを地面に立てる。
キィン、と音が鳴る。
彼女の足元から、三つの結界線が同時に走った。
正面に一枚。
上空に一枚。
後方に一枚。
全て一層。
だが、それぞれ角度も密度も役割も違う。
正面の結界は、地上の緑竜の突進を逸らす。
上空の結界は、ブレスを空へ逃がす。
後方の結界は、馬車列の背後に降りる竜の爪を滑らせる。
ドォンッ!
ゴォォォンッ!
ギィィンッ!
三つの轟音が、ほぼ同時に響いた。
通り全体が揺れる。
窓ガラスが割れ、瓦礫が跳ね、避難民が悲鳴を上げる。
だが、誰にも届かない。
緑竜の攻撃は、全て逸らされていた。
「……は?」
兵士の誰かが、呆然と呟いた。
シャーロットは額に汗を浮かべながら、なおも微笑んだ。
「今です。走ってください」
その声に、避難民が動く。
馬車が進む。
兵士達が後退する。
そして、遠くから地響きとは違う音が聞こえた。
ズンッ!
大剣が地面を叩くような音。
次の瞬間、東側へ続く通路の魔物群が横から吹き飛んだ。
ガルドだった。
「待たせたな!」
大剣を担ぎ、土埃をまとって現れる。その背後には獅子の咆哮の前衛達。さらに王国軍の支援部隊が続いている。水路沿いの退路も開き、救護班への搬送路が繋がった。
シャーロットは、少しだけ肩の力を抜いた。
「待っていました」
「無茶してねえだろうな」
「三分、持たせました」
「答えになってねえ」
ガルドは大剣を構え、彼女の前に立った。
三体の緑竜が、怒りに咆哮する。
地上魔物が再び押し寄せる。
だが、もう単身ではない。
ガルドがいる。
支援部隊がいる。
退路がある。
救護班が待っている。
アメリアの指示が通っている。
レオンの情報線が繋がっている。
獅子の咆哮が、シャーロットを支えている。
「シャーロット」
ガルドが言った。
「ここからは、俺達もやる」
「はい」
シャーロットは微笑んだ。
「お願いします」
その返事に、ガルドは満足そうに笑った。
「任せろ」
大剣が唸る。
獅子の咆哮の前衛達が叫ぶ。
崩れかけていた東側防衛線に、再び戦う形が戻っていく。
そして空では、三体の緑竜がなおも旋回していた。
シャーロットは星杖シリウスへ手を伸ばす。
ここから先は、ただ守るだけでは足りない。
緑竜を落とす必要がある。
彼女の視線が、空へ向いた。
星杖シリウスを使う時が、近づいていた。




