第4節 東側防衛線崩壊
北側修復区画は、王都の傷跡そのものだった。
黒龍戦で城壁の一部が焼かれ、崩れ、まだ完全には戻っていない。石材は積まれている。足場も組まれている。職人達の手で急ぎ補修は進んでいた。だが、本来の厚みも、魔力補強も、まだ足りない。
そこへ、魔物の群れが迫っていた。
「杭を打て! 間を空けるな!」
「魔法班、結界線を繋いで!」
「救護班は第三層へ! 搬送路を塞がない!」
アメリアの声が飛ぶ。
獅子の咆哮の団員達は、迷いなく動いていた。前衛が防衛線に並び、魔法班が結界杭へ魔力を流し、補給班が水と薬を運ぶ。救護班は負傷者を受け入れる場所と搬送路を確認し、そこにソフィアも加わっていた。
ソフィアの顔は緊張していた。
だが、足は止まっていない。
「この位置だと、搬送者が前線から戻る時に結界杭の列とぶつかります。少し右へずらしてください!」
「了解!」
「盾役の方、腕が下がっています。交代を早めてください。魔力切れの兆候が出る前に!」
「分かった!」
自分でも驚くほど、声が出た。
銀翼にいた頃のソフィアなら、怪我人が運ばれてくる場所を整えることに集中していただろう。もちろん、それも大事だ。けれど今は、少しだけ違う。
怪我をする前の人を見る。
前線で崩れそうな人を見る。
搬送路が詰まりそうな場所を見る。
すべてを見られるわけではない。シャーロットのように、戦場全体を一つの流れとして捉えることなど、まだ到底できない。
それでも、分からないなりに見ようとしている。
「ソフィアさん、後方から負傷者三名!」
「軽傷二名、出血一名。出血の方を先に。軽傷の方は座らせて水を!」
「はい!」
救護班が動く。
ソフィアは治癒術を発動しながら、同時に前線へ視線を向けた。
怪我を治す。
けれど、怪我を増やさない。
その両方を、今ここでやる。
前方では、アクセルが大剣を振るっていた。
「押し返せ!」
大型の甲殻魔物が防衛線へ突っ込む。人の背丈をはるかに超える巨体。硬い外殻。槍のような脚。それが何体も連なり、柵と結界杭をまとめて踏み潰そうとしていた。
アクセルの大剣が唸る。
ズンッ!
甲殻の脚が一本、根元から砕けた。巨体が傾く。そこへ別の前衛達が一斉に槍を突き込み、魔法班が炎を叩きつける。
ガルドはその横で、さらに大きな個体を受け止めていた。
「おら、こっちだ!」
大剣の腹で突進を逸らす。
真正面から止めるのではない。力の方向をずらし、隣の空き地へ流す。巨大な甲殻魔物が地面を削りながら滑り、結界杭の前をかすめて倒れ込んだ。
「シャーロット!」
「はい!」
シャーロットが星脈晶ヴェガを振る。
一層の結界が、倒れた甲殻魔物の進路に薄く立つ。普通なら頼りなく見える、たった一枚の結界。だが、魔力密度が違った。魔物の巨体がぶつかった瞬間、結界は揺らぎもせず、進行方向だけをわずかに変える。
ドォンッ!
巨体は防衛線ではなく、開けた地面へ転がった。
「今!」
アメリアの合図で、魔法班が集中攻撃を叩き込む。
轟音。
甲殻が砕け、魔物が沈黙する。
獅子の咆哮の防衛線は、まだ保っていた。
だが、他の区域は違った。
「東側第二防衛線、圧力増大!」
レオンが情報盤に流れ込む報告を読み上げる。
「避難路変更は進んでいますが、迂回群の一部が予測より早いです。王国軍第三軍団が接触!」
「北東正面は?」
アメリアが問う。
「持っています。ただし緑竜の先行群が高度を下げています。対空結界に負荷あり」
空の向こうで、竜の咆哮が響いた。
グォォォォォッ!
上空を黒い影が横切る。
緑竜。
黒龍ほどの圧はない。だが、翼を広げた姿は十分に巨大で、喉奥には濁った緑の光が溜まっている。ブレスの予兆だ。
王国軍の魔法兵が対空結界を張る。
弓兵が矢を放つ。
数本は鱗に弾かれ、いくつかは翼膜に刺さった。緑竜が苛立ったように身を捩り、城壁の外側へブレスを吐く。
ゴォォォッ!
緑の炎が空を裂いた。
対空結界が受け止める。光の膜が大きく揺れ、城壁の上の魔法兵達が歯を食いしばった。
「まだ大丈夫です」
シャーロットは空を見上げながら言った。
「ですが、あの群れが分かれると厄介です」
「落とせるか?」
ガルドが問う。
「落とせます。ただ、今ここで大きく撃つと、他の緑竜が散ります。もう少し待った方がいいです」
「分かった」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
シャーロットが待つと言うなら、理由がある。
その信頼が、ここにはあった。
その時だった。
情報盤が赤く光った。
レオンの表情が変わる。
「東側避難路、第二防衛線が崩れました」
アメリアが振り返る。
「規模は?」
「迂回群の一部、推定二千から三千。加えて緑竜三体が高度を下げています。避難民の一部が、まだ外縁区に残っています」
「王国軍は?」
「第三軍団が対応中ですが、北東正面へ兵を取られて薄いです。Sランククランの一つが支援に向かおうとしていますが、自区域の大型種で足止めされています」
「救援不能?」
「現状、即応できる部隊はありません」
その言葉が、重く落ちた。
救援不能。
つまり、東側の避難民は、今その区域にいる者達だけで耐えなければならない。
アメリアが歯を噛む。
「距離は」
レオンが地図を確認する。
「ここから東南東へ約二・五キロ。通常移動では間に合いません」
「緑竜のブレスは?」
「予測進路上に避難民の馬車列があります」
シャーロットの目が、地図の一点に止まった。
東側外縁区。
その近くには、数日前に歩いた通りがある。
酒場の職人が言っていた。
妹一家が東通りに住んでいる、と。
子供達が星纏いの魔女ごっこをしていた広場も、あの方向だった。
焼き菓子を出してくれた店主の酒場も、決して遠くない。
シャーロットの胸の奥で、あの夜の笑い声が蘇る。
『星纏いの魔女に、乾杯!』
『獅子の咆哮に!』
『王都に!』
『明日も働く俺達に!』
杯の音。
笑い声。
歌声。
温かい酒場の灯り。
それが、今、魔物の群れに飲まれようとしている。
シャーロットは星杖シリウスへ手を伸ばした。
アメリアがその動きに気付く。
「シャーロット」
「行きます」
短い言葉だった。
ガルドが一歩前へ出る。
「俺も行く」
「ガルドさんは、ここをお願いします」
「一人で行く気か」
「私が一番早いです」
「それはそうだが」
「ここも危険です。大型種がまだ押しています。ガルドさんが抜けたら、防衛線が薄くなります」
ガルドは奥歯を噛んだ。
正しい。
だから余計に腹が立つ。
アメリアが素早く判断する。
「シャーロットが先行。完全な単独にはしないわ。レオン、東側へ王国軍の機動班と獅子の魔法班を回して。最短で後続を出す」
「了解」
レオンが即座に情報盤へ手を置く。
「王国軍第三軍団へ支援要請。獅子の魔法班二名、補給班一名を東側へ回します。シャーロットさんがブレスを止めた後、防衛線の穴を塞ぐ形で入ってください」
「助かるわ」
アメリアはシャーロットへ向き直った。
「あなたは先行救援。避難民を守り、緑竜の初撃を止める。けれど、全部を一人で処理しようとしないこと」
「はい」
「負荷は?」
「十五キロ探知ほどではありません。距離を絞れば、間に合います」
ソフィアが思わず声を上げる。
「それでも、さっき鼻血を出したばかりです!」
「はい。だから、短時間で終わらせます」
「そういう問題では……!」
ソフィアの声が揺れる。
怒っている。
心配している。
止めたい。
けれど、東側に避難民がいる。怪我人が出る前に止めなければならない。ソフィア自身、もうそれを分かっている。
シャーロットは、ソフィアへ穏やかに言った。
「ソフィアさん」
「……はい」
「ここをお願いします。怪我人を、お願いします」
ソフィアの手が震えた。
頼まれた。
治す役目を。
救う役目を。
シャーロットが負傷を減らすなら、自分は出てしまった負傷を救う。
二人の役割。
ソフィアは唇を噛み、強く頷いた。
「必ず戻ってきてください」
「はい」
「戻ってきたら、診ます」
「はい」
「怒ります」
シャーロットは少しだけ笑った。
「はい」
ガルドが深く息を吐いた。
「シャーロット」
「はい」
「無茶はするな、は無駄だな」
「できるだけしません」
「じゃあ、帰ってこい」
その言葉だけだった。
けれど、シャーロットは深く頷いた。
「はい。帰ってきます」
アクセルが防衛線から叫ぶ。
「行け! ここは持たせる!」
レオンが即座に情報盤を操作する。
「東側の座標を送ります。避難民の馬車列、崩壊した防衛線、緑竜三体の位置を共有。シャーロットさん、最短経路はこちらです」
地図上に光の線が走る。
建物の上を抜け、崩れた外壁の内側を回り、東側へ直行する線。
「ありがとうございます」
シャーロットは星衣リゲルの裾を翻した。
星脈晶ヴェガを握る。
足元に小さな魔法陣が咲く。
風属性と空間補助、足場補正、姿勢制御。派手な飛行魔法ではない。建物を壊さず、地面を抉らず、人の上に衝撃を落とさないための、精密な高速移動。
次の瞬間、彼女の姿が防衛線から消えた。
「速い……!」
王国兵の一人が声を漏らす。
シャーロットは城壁の影を蹴り、修復中の足場を風で撫でるように抜けた。瓦礫の上に一瞬だけ魔力の足場を作り、屋根の端を踏み、次の瞬間には通りを越えている。
王都の上を、星のような軌跡が走った。
東側から、悲鳴が聞こえる。
魔物の咆哮。
馬のいななき。
崩れる柵の音。
そして、緑竜の喉に溜まるブレスの魔力。
シャーロットの目が細くなる。
見えた。
東側外縁区。
防衛線は半ば崩れ、兵士達が必死に避難民を下げている。馬車が一台、車輪を壊して道を塞いでいた。周囲には子供と老人がいる。前方では大型の獣型魔物が柵を破り、さらに上空から緑竜三体が降下している。
そのうち一体の喉が、緑に光った。
避難民へ向けて、ブレスが吐かれる。
間に合わない。
誰もがそう思った。
「一層障壁」
シャーロットの声が、通りに落ちた。
キィン、と澄んだ音が響く。
避難民の前に、薄い光の壁が立った。
たった一枚。
だが、その一枚に、緑竜のブレスが直撃する。
ゴォォォォォッ!
緑の炎が広がり、通り全体が白く焼けるほどの光に包まれた。
避難民が悲鳴を上げる。
兵士達が腕で顔を庇う。
だが、炎は届かない。
一層の結界は、揺らがない。
ブレスの光が消えた時、避難民の前には、星衣リゲルをまとったシャーロットが立っていた。
「大丈夫です」
彼女は振り返り、微笑んだ。
「今のうちに、下がってください」
その声に、泣きかけていた子供が目を見開いた。
「星纏いの……」
その言葉が、周囲へ広がる前に、シャーロットは空を見上げた。
緑竜が三体。
地上には魔物群。
防衛線は崩れかけている。
後続の支援はまだ来ない。
彼女は星脈晶ヴェガを構えた。
「ここから先へは、行かせません」
その瞬間、東側外縁区の空気が変わった。
崩れた防衛線に、星の光が灯り始める。
王都の別区域で、先行救援が始まった。




