第2節 十五キロ探知
北東門の外には、すでに王国軍の臨時指揮所が設けられていた。
城壁の上には弓兵と魔法兵が並び、門の外側では土嚢と木柵が急いで組まれている。復興用に運び込まれていた資材まで防衛線の補強に回され、職人達が兵士に混じって杭を打ち込んでいた。
避難民を乗せた馬車が南西へ向かう。
戻ってきた空の馬車が、また外縁区へ走る。
空気が重かった。
まだ魔物の姿は見えない。
だが、大地の奥から低い振動が伝わってくる。遠雷のような、けれど雷ではない音。何万、あるいはそれ以上の足音が、地面そのものを揺らしている。
王国探知班は、指揮所の中央に設けられた魔法陣の周囲に集まっていた。
青白い線が地面に刻まれ、数名の探知魔法使いが額に汗を浮かべながら魔力を流している。前方哨戒から送られてくる反応を中継し、別の魔法使いが方角ごとの反応を記録板へ書き込んでいた。
だが、一度に読める範囲は限られている。
「北東方向、魔物反応多数!」
「詳細不明。密度が高すぎます!」
「上空反応、入りました。緑竜と思われますが、数が……数が取れません!」
「探知幅を五百まで広げろ!」
「無理です、反応が多すぎて潰れます!」
怒号が飛び交う。
通常の探知魔法の有効範囲は、半径三百メートル程度。上級者でも五百メートルが限界だ。広げれば広げるほど、演算魔法による負荷が増える。範囲内の魔力反応、地形、敵味方の識別、動きの変化。それらを読み取るには、魔力だけでなく頭脳と身体にも大きな負担がかかる。
まして今回は、相手の数が桁違いだった。
反応が多すぎる。
魔物の群れが重なり合い、地上の反応が一つの巨大な塊のように見えてしまう。そこへ上空の緑竜反応が混ざり、探知魔法使い達の視界をさらに乱す。
王国探知班の班長が、歯を食いしばった。
「全体像が掴めん……! 先頭は見える。だが、後続がどこまで続いているのか分からない!」
「緑竜の位置は?」
「上空に多数。だが高度がばらばらです。防衛線へ先行する群れと、地上魔物群の上に残る群れがあります!」
「数は!」
「取れません!」
指揮所にいた王国軍の将官が、険しい顔で地図を睨む。
「総数が分からなければ、部隊を動かせん。どこを厚くし、どこを捨てるか判断できない」
その言葉に、周囲の空気がさらに重くなった。
捨てる。
その判断をしなければならないほどの規模だということだけは、誰の目にも明らかだった。
だが、具体的な数が分からない。
数万なのか。
十万を超えるのか。
それとも、それ以上なのか。
全てを守るには、情報が足りない。防衛線を広げすぎれば薄くなる。狭めすぎれば避難民が飲まれる。緑竜がどの高度から来るのか分からなければ、結界も弓兵も魔法兵も配置できない。
そこへ、獅子の咆哮が到着した。
先頭にアクセル。続いてアメリア、レオン、ガルド、シャーロット。後方には獅子の咆哮の前衛班、魔法班、救護班、補給班が続く。
本部から北東門へ移動している間にも、魔物群は想定より早く距離を詰めていた。
シャーロットは星衣リゲルをまとい、星帽ポラリスを被り、腰に星脈晶ヴェガを差していた。背には星杖シリウス。
休日の私服姿ではない。
星纏いの魔女として、戦場に立つ姿だった。
「状況は?」
アクセルが問うと、王国軍の将官が短く答えた。
「探知が潰れている。先頭は把握できるが、全体像が取れない。緑竜の配置も不明だ」
レオンが地図を覗き込む。
「現状の探知範囲は?」
「最大で五百。だが、密度が高すぎて精度が落ちている」
アメリアがシャーロットを見る。
「シャーロット」
「はい」
「必要な範囲だけでいいわ。最初から無茶はしない」
「分かっています」
そう答えたシャーロットに、ガルドが低く言った。
「本当に分かってるか?」
「分かっています」
「鼻血出すなよ」
「出す予定はありません」
「予定で出す奴はいねえ」
軽いやり取りだった。
けれど、ガルドの目は笑っていなかった。
シャーロットは地面に膝をつき、星脈晶ヴェガを抜いた。三つに分けられた星脈晶が、内部で淡く光る。彼女の魔力を増幅するのではなく、受け、整え、逃がすための制御装置。膨大な魔力を細く、乱れなく流すための道具だ。
「まず、五キロまで広げます」
その言葉に、王国探知班の数名が顔を上げた。
「五キロ?」
「今、五キロと言ったか?」
「上級者の十倍だぞ……」
シャーロットは目を閉じた。
足元に淡い星のような魔法陣が広がる。大きくはない。黒龍戦の時のような巨大術式ではない。けれど、細かい線が幾重にも走り、王都北東の地形をなぞるように伸びていく。
星帽ポラリスの索敵補助が起動した。
視界補正。
方向感覚補正。
魔力循環補助。
集中補助。
普段なら普通の魔法使いには重すぎる機能が、シャーロットの魔力を受けて静かに噛み合っていく。
世界が、広がる。
三百メートル。
五百メートル。
一キロ。
三キロ。
五キロ。
地面の震えが、形になる。魔物の群れが、ただの濁った塊ではなく、一つ一つの動きとして浮かび上がる。
牙を持つ獣型。
甲殻を持つ大型種。
跳躍する魔猿。
地を這う毒虫。
群れを押し出す巨体。
上空には緑竜の影。翼の動き。魔力の流れ。ブレス器官に溜まる熱。
シャーロットは静かに口を開いた。
「先頭集団、北東三・二キロ。大型種が多いです。右側に甲殻型が固まっています。左側は足の速い獣型。上空、緑竜二十一体。高度が三層に分かれています」
王国探知班が凍りついた。
班長が、慌てて記録係へ叫ぶ。
「書け! 全部書け!」
シャーロットは続ける。
「後続が見えます。五キロの外にも反応が続いています。先頭だけではありません。かなり深いです」
王国軍の将官が険しい顔で問う。
「五キロで後続が切れないのか」
「はい。もっと奥に、まだいます」
指揮所の空気が重くなる。
五キロで全体が掴めない。
それは、魔物群が想定以上に長く広がっているということだった。
アメリアがシャーロットの横に膝をつく。
「ここまででいいわ。全体像は王国軍の哨戒と合わせれば……」
「足りません」
シャーロットは目を閉じたまま言った。
「緑竜の後続が分かりません。地上群も、主力の位置がまだ奥です。このままだと、王国軍は前だけを見て配置を決めることになります」
「でも、これ以上は負荷が上がる」
「はい」
シャーロットは小さく頷いた。
「なので、短時間だけ広げます」
ガルドが一歩近づく。
「どこまでだ」
「十五キロ」
その言葉に、指揮所全体が静まった。
王国探知班の班長が、思わず声を漏らす。
「十五……キロ?」
通常三百メートル。
上級者で五百メートル。
五キロですら常識外れ。
十五キロなど、探知魔法の範囲としては理解の外だった。
アメリアの声が低くなる。
「シャーロット」
「短時間です。全体像だけ取ります」
「鼻血では済まないかもしれないわ」
「済ませます」
「そういう問題じゃない」
「シャーロットさん」
ソフィアの声がした。
いつの間にか、救護班とともに指揮所へ到着していた。銀翼の外套ではない。獅子の咆哮の医務班として、救護支援に加わっている。腰には、シャーロットが休日に渡した若草色の布袋が下がっていた。
ソフィアはシャーロットの前に立つ。
「今、五キロ探知だけでも魔力回路に負荷が出ています。手の血色が少し落ちていますし、呼吸も浅くなっています」
「ソフィアさん、よく見ていますね」
「褒めている場合ではありません」
「でも、必要です」
ソフィアは言葉に詰まった。
必要。
この人はいつもそう言う。
危なそうだったから。
必要だったから。
間に合うから。
そして本当に、誰かを助けてしまう。
だからこそ、止めるのが難しい。
アメリアがソフィアの肩に軽く手を置いた。
「ソフィアさん。今は完全には止められないわ」
「……分かっています」
「だから、見るの。どこまでなら戻せるか。どこから危険か。あなたの仕事よ」
ソフィアは唇を引き結び、頷いた。
「はい」
ガルドがシャーロットの背後に立った。
「倒れそうなら支える」
「倒れません」
「倒れそうなら、だ」
「……はい」
シャーロットは星脈晶ヴェガを地面に軽く当てた。
カン、と澄んだ音が響く。
星帽ポラリスの内側で、魔力循環補助が一段深く起動する。星衣リゲルが彼女の魔力の乱れを受け、肩から背中へ流す。ヴェガが過剰な魔力を受け、整え、逃がす。
それでも足りない。
十五キロ探知は、普段の五キロとは違う。
ただ広く見るだけではない。魔物の密度が異常に高い。緑竜の空中反応が重なる。避難民、王国軍、各クラン、地形、魔物群、飛行体、魔力の濁流。それらを一気に拾えば、頭の中に戦場そのものが流れ込んでくる。
シャーロットは息を吐いた。
「広げます」
魔法陣が、弾けるように広がった。
五キロ。
六キロ。
八キロ。
十キロ。
そこで、シャーロットの眉がわずかに寄る。
ソフィアが即座に気付く。
「負荷が上がっています」
「続けます」
十一キロ。
十二キロ。
十三キロ。
遠くの地形が見える。森の切れ目。川の蛇行。崩れた街道。逃げ遅れた荷馬車。魔物の後続。緑竜の群れ。さらに奥。黒く蠢く巨大な密度。
十四キロ。
十五キロ。
その瞬間、シャーロットの中に、全体像が入った。
大地を埋める魔物群。
三つの大きな波。
北東主力。
東側迂回群。
北側山裾から回り込む大型群。
上空の緑竜の群れ。
先行群。
制空群。
後方待機群。
王都へ向かう圧力。
防衛線の薄い場所。
避難民がまだ残る区画。
壊れかけた橋。
退避路と魔物群の交差予定地点。
全てが、頭の中で一気に重なった。
「っ……」
シャーロットの肩が揺れる。
鼻の奥が熱い。
ソフィアが叫ぶ。
「シャーロットさん!」
赤いものが、一筋、彼女の鼻から落ちた。
ガルドの手が、すぐ背中に添えられる。
「切れ」
「まだです」
「切れ」
「あと少し」
シャーロットは目を閉じたまま、震える声で言った。
「北東主力、約十八万。東側迂回群、約七万。北側山裾、大型種中心に約五万。合計、三十万前後」
指揮所の空気が、凍りついた。
三十万。
誰かが息を呑む音がした。
王国軍の将官が、地図の上に置いていた手を止める。
「三十万……だと」
シャーロットは続けた。
「緑竜、確認九十六。未確認上空反応四。百体規模で確定です」
レオンが記録を取りながら、顔色を変えた。
「三方向ですか」
「はい。正面だけではありません。東側が避難路へ回り込みます。北側の大型群は、防衛線ではなく城壁の修復区画を狙う形になります」
王国軍の将官が地図を覗き込む。
「修復区画……そこはまだ防壁が薄い!」
「東側避難路も危険です。二時間以内に交差します。馬車の流れを南へずらしてください。北東正面は厚く見えますが、主力の圧が強すぎます。受け止めるだけでは潰れます。左右に逃がす導線が必要です」
レオンがすぐ地図へ線を引く。
「アメリアさん、東側避難路の変更を王国軍へ」
「分かったわ」
アメリアが走る。
アクセルが前衛班へ怒鳴る。
「修復区画へ第二防衛隊を回せ! 大型種対策だ!」
王国軍の将官が探知班へ命じる。
「今の情報を全軍へ回せ! 総数三十万前後、緑竜百体規模、三方向展開だ! 避難路を変更しろ!」
指揮所が一気に動き出す。
混乱ではない。
情報が入ったことで、ようやく動けるようになったのだ。
シャーロットはゆっくり探知を切った。
魔法陣の光が、足元へ戻るように消えていく。
その瞬間、膝から力が抜けかけた。
ガルドが支える。
「言っただろ」
「倒れてはいません」
「支えられてるんだよ」
「……ありがとうございます」
ソフィアが布を取り出し、シャーロットの鼻血を押さえた。
その表情は、完全に怒っていた。
「大丈夫です」と言いかけたシャーロットは、ソフィアの顔を見て言葉を止めた。
けれど、少し遅かった。
「大丈夫じゃありません!」
ソフィアの声が、指揮所に響いた。
周囲の兵士達が思わず振り返る。
ソフィアは構わず続けた。
「鼻血を出している人が大丈夫って言わないでください!」
シャーロットは布を押さえられたまま、少し困ったように笑った。
「でも、間に合いました」
ソフィアの眉がさらに上がる。
「そういう問題ではありません!」
「ソフィアさん、怒り方がアメリアさんに似てきましたね」
「今それを言う場面ではありません!」
ガルドが横で小さく笑った。
「いいぞ、もっと言え」
「ガルドさんまで……」
アメリアが戻ってきて、その光景を見る。
「何をしているの」
「シャーロットさんが鼻血を出しているのに、大丈夫と言おうとしました」
ソフィアが即答する。
アメリアの目が細くなった。
「シャーロット」
「……はい」
「後で説教」
「はい」
「今は?」
「動きます」
「ただし、単独行動禁止。負荷管理はソフィアさんが見る。ガルドは近くにつく。レオンはシャーロットの探知情報を前提に配置を組み直して」
「了解」
レオンが答える。
アクセルも頷いた。
「全員、シャーロットの探知で命拾いした。だが、ここからが本番だ」
王国軍の将官が、シャーロットへ深く頭を下げた。
「星纏いの魔女殿。今の探知がなければ、東側避難路は飲まれていた。感謝する」
シャーロットは布を押さえたまま、少しだけ頭を下げる。
「まだ終わっていません」
「分かっている」
将官は頷き、地図へ向き直った。
指揮所の空気は変わっていた。
先ほどまで見えなかった災害の形が、今は地図の上に現れている。
三十万前後の魔物群。
百体規模の緑竜。
三方向からの圧力。
避難路への脅威。
修復区画の危機。
絶望的な情報だった。
だが、見えない絶望よりは、見える絶望の方がまだ戦える。
シャーロットは深く息を吸った。
鼻の奥はまだ熱い。頭の奥に鈍い痛みが残っている。十五キロ探知の余韻で、視界の端が少し白くにじむ。
それでも、間に合った。
あの酒場の人達がいる街。
子供達が星纏いの魔女ごっこをしていた広場。
ソフィアが来てくれた場所。
獅子の咆哮の仲間達。
守るものは、もうはっきりしている。
シャーロットは星脈晶ヴェガを腰に戻し、星杖シリウスへ手を伸ばした。
大地の震えが、さらに近づいている。
遠い空に、小さな黒点が現れ始めた。
緑竜の先行群だ。
国家級スタンピードは、もう王都の目前まで迫っていた。




