第1節 異常発生
その報せが王都へ届いたのは、酒場で笑い合った夜から、わずか数日後のことだった。
朝の王都は、いつも通りに動き始めていた。復興工事の槌音が響き、露店の布が広げられ、パン屋の煙突から白い湯気が上がる。黒龍戦の傷跡はまだ残っていたが、人々は少しずつ日常を取り戻していた。
獅子の咆哮の本部でも、いつもの朝が始まっている。
訓練場では新人達が走り込みをし、アメリアが腕を組んで姿勢を見ている。レオンは書類室で前日の依頼記録を整理し、アクセルは前衛班の装備確認をしていた。ガルドは大剣の手入れをしながら、時折訓練場の方へ目を向けている。
シャーロットは、ソフィアが朝一番に置いていった質問メモを読んでいた。
ソフィアは正式に獅子の咆哮の医務班へ加わったばかりだ。医務室の配置確認、薬品棚の整理、治療記録の書式確認。覚えることは多い。それでも彼女は、初日から丁寧にメモを取り、分からないことを一つずつ書き残していた。
メモの最後には、ソフィアらしい整った字でこう書かれている。
『次回の講習では、負傷者候補の見分け方について、改めて質問させてください』
シャーロットは小さく笑った。
「分かりません、で終わらなかったんですね」
そう呟いた時だった。
本部の鐘が鳴った。
一度ではない。
二度。
三度。
訓練場の空気が変わる。
通常の集合ではない。依頼の出発合図でもない。緊急通達を知らせる鐘だ。しかも、音の間隔が短い。王都全域への危険通報と連動している。
シャーロットはメモを置き、立ち上がった。
廊下の向こうで、足音が一斉に走り出す。
「全員、第一会議室へ!」
アメリアの声が響いた。
その声に迷いはなかった。
数分後、獅子の咆哮の幹部達は会議室に集まっていた。
アクセル、アメリア、レオン、ガルド、シャーロット。さらに各部隊長と連絡係も揃っている。部屋の中央には、王都周辺の大きな地図が広げられていた。
レオンが、ギルドから届いた緊急通達を読み上げる。
「王都北東部、黒森山脈方面より大規模魔物群の移動を確認。王国軍の初期報告では、規模は推定十万以上」
部屋の空気が重くなる。
だが、レオンの声はそこで止まらなかった。
「続報。探知班、第二、第三報告を統合。規模推定、二十万を超過」
誰かが息を呑んだ。
「さらに王国軍前線哨戒より、緑竜の群れを確認」
ガルドの目が細くなる。
「緑竜だと?」
「はい。確認数、現時点で四十七。未確認上空反応多数。最終的には百体規模に達する可能性があります」
会議室に沈黙が落ちた。
緑竜。
龍ではない。
黒龍のような災害そのものではない。
だが、竜は強大な魔物だ。一体でも村を焼き、砦を崩し、街道を封鎖する脅威になる。それが百体規模。さらに地上には、十万を超える魔物群。
普通のスタンピードではない。
アクセルが低く言う。
「国家級だな」
レオンは頷いた。
「王国はすでに、国家級スタンピードとして認定しました。王国軍総動員。王都防衛線を三重に展開。全Sランククランへ緊急招集が出ています。獅子の咆哮にも正式出撃要請が来ています」
アメリアが即座に確認する。
「他クランは?」
「王都在中のSランククランは全て招集済み。周辺都市のAランク以上にも支援要請。銀翼の剣は現在Bランクですが、元Sランク相当の戦力を持つため、後方防衛と避難誘導支援で招集対象に入っています」
シャーロットの表情が、わずかに動いた。
銀翼の剣。
けれど、今は感情を揺らしている時間ではなかった。
レオンは地図に駒を置く。
「魔物群は北東から南西へ流れています。先頭が王都外縁に到達するまで、早ければ半日。緑竜の飛行速度を考えると、空からの接触はさらに早い可能性があります」
「避難は?」
アメリアが問う。
「王都外縁区から開始済み。ただし復興中の城塞区画にまだ資材と職人が多く、避難速度は通常より遅いです。黒龍戦後の修復途中で、封鎖できていない区画もあります」
ガルドが舌打ちした。
「嫌な時に来やがる」
「狙ったように、ですね」
レオンの声は冷静だったが、目は厳しい。
「通常の魔物群なら、ここまで統制された進行にはなりません。複数方向からの圧力、緑竜の上空支援、地上群の密度。自然発生のスタンピードとしては異常です」
「原因は後回しだ」
アクセルが言った。
「今は止める」
その一言で、会議室の空気が定まった。
獅子の咆哮は動く。
それだけは、誰も迷わなかった。
アメリアが部隊長達へ指示を飛ばす。
「前衛第一から第三部隊、即時出撃準備。防衛線用の盾と杭を持て。魔法班は結界用触媒を全量確認。医務班は王都北東門へ。搬送路を二本以上確保。補給班、軽食と水を馬車に積みなさい。長期戦になる可能性があるわ」
「了解!」
「レオン、王国軍との連絡線を」
「すでに開いています。情報共有盤を三枚、前線へ回します」
「ガルド」
「前に出る」
「出すぎない」
「分かってる」
「分かっている顔じゃないわ」
「今回は分かってる」
アメリアは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。
シャーロットは地図を見ていた。
北東の森。
城塞区画。
外縁の避難路。
王都へ向かう街道。
黒龍戦後に修復中の防衛線。
そして、その向こうから押し寄せる魔物群。
数日前の酒場の笑い声が、ふと胸に浮かんだ。
東通りに妹一家が住んでいると言っていた職人。
星纏いの魔女ごっこをしている子供達。
甘い焼き菓子を出してくれた店主。
「明日も無事に帰れますように」と杯を掲げた夜。
あの街へ、魔物が来る。
シャーロットは、静かに息を吸った。
「私も出ます」
誰も驚かなかった。
アクセルは頷く。
「当然だ。ただし、一人で全部抱えるな」
「はい」
アメリアがすぐに続ける。
「探知は必要になったら行うこと。最初から最大範囲に広げない。あなたはすぐ無理をする」
「気をつけます」
「その返事、信用半分ね」
ガルドが横で低く笑った。
「半分もあるのか」
「ガルドさん」
シャーロットが少しだけ抗議する。
そのやり取りは、いつも通りに近かった。
けれど、会議室の誰もが分かっていた。
今回の相手は、これまでとは桁が違う。
黒龍は一体の災害だった。
今度は、数の災害だ。
三十万に届く可能性のある魔物群。
百体規模の緑竜。
王都周辺の防衛線。
避難民。
復興途中の市街。
守るべきものが多すぎる。
レオンが最後の続報を受け取った。
一瞬、彼の手が止まる。
「訂正報告」
会議室が静まる。
レオンは、ゆっくり読み上げた。
「魔物群の最終推定、三十万」
誰も言葉を発しなかった。
「緑竜、確認数八十二。未確認反応を含め、百体規模でほぼ確定」
地図の上に置かれた駒が、急に小さく見えた。
三十万。
数字として聞くには簡単だ。
だが、それが全て魔物だと思えば、意味が変わる。
大地を埋める群れ。
街道を飲み込む牙。
空を覆う緑竜。
逃げ遅れる人々。
崩れる防衛線。
消えていく村。
王都へ迫る、巨大な波。
アメリアが小さく息を吐く。
「国家級どころじゃないわね」
「国家を潰せる規模です」
レオンが淡々と答えた。
アクセルは腕を組み、地図を見下ろした。
「それでも、王都で止める」
ガルドが大剣の柄に手をかける。
「止めるしかねえだろ」
シャーロットは、地図の北東を見つめた。
恐怖はある。
負荷も分かっている。
自分が無制限ではないことも、もう知っている。
けれど、逃げる理由にはならなかった。
彼女は星装備を取りに戻るため、会議室の扉へ向かう。
その背に、アメリアが声をかけた。
「シャーロット」
「はい」
「もう一度言うわ。一人で全部やろうとしないこと」
シャーロットは振り返った。
少しだけ、いつものように笑う。
「はい。獅子の咆哮のみんなで、守ります」
その言葉に、アクセルが頷き、ガルドが鼻を鳴らし、レオンが記録を閉じ、アメリアが小さく笑った。
獅子の咆哮は、動き出す。
王都の鐘が、外で鳴り響いていた。
一度。
二度。
三度。
今度は本部だけではない。
王都全域に、非常鐘が響いている。
人々が空を見上げる。兵士が門へ走る。馬車が避難路へ向かう。ギルドの掲示板に緊急依頼が張られる。王国軍の旗が北東門へ集まる。
そして、遠い地平の向こう。
まだ肉眼では見えないはずの場所で、大地が低く鳴っていた。
国家級スタンピード。
王都を飲み込むほどの災害が、今、動き始めていた。




