第4節 星纏いの魔女だ
「……星纏いの魔女、じゃないか?」
その一言で、酒場の空気が止まった。
木の杯が置かれる音も、職人達の笑い声も、厨房から聞こえていた鍋の音も、ほんの一瞬だけ遠くなる。奥の席にいた冒険者がこちらを見る。カウンターの老人が新聞の切り抜きへ目を向ける。店主が料理皿を持ったまま、きょとんとした顔で固まる。
シャーロットは、そっと杯を机に置いた。
逃げるには遅い。
隠れるには、帽子がない。
そもそも今回は変装ではない。ただ星装備を身につけていないだけだ。淡いクリーム色のブラウスも、薄藍色のロングスカートも、水色の硝子玉の髪飾りも、星纏いの魔女らしさとは少しも関係ない。
けれど、隣にはガルドがいる。向かいにはアメリアがいる。ソフィアもいる。壁には新聞の切り抜きが貼られている。
気付く者は、気付く。
「え……」
隣の職人が、もう一度新聞とシャーロットを見比べた。
「いや、でも、帽子もローブも……」
「でも、あっちの人、獅子の咆哮のアメリアさんじゃないか?」
「ガルドもいるぞ」
「じゃあ、本当に……?」
視線が集まる。
シャーロットの肩が少しだけ縮こまった。
ガルドが隣で小さく笑う。
「ばれたな」
「笑い事ではありません」
「悪いことしてるわけじゃねえだろ」
「そうですが……」
アメリアは杯を置き、穏やかな顔で言った。
「逃げないの」
「逃げません」
「よろしい」
「でも、どうしたら……」
「普通にしていればいいわ」
それが難しいのだ。
シャーロットが困った顔をしていると、最初に気付いた職人が、慌てて立ち上がった。
「す、すまねえ! 騒がせるつもりじゃなかったんだ。ただ、その……本当に、星纏いの魔女様なのか?」
様。
その言葉に、シャーロットはさらに困った。
「えっと……シャーロットです」
酒場の中が、ざわりと揺れた。
名前を名乗っただけだった。
けれど、それだけで十分だった。
奥の席の冒険者が立ち上がる。
「本物か……」
カウンターの老人が目を丸くする。
「こんな普通のお嬢さんだったのか」
「新聞の絵と全然違うな」
「いや、新聞は盛りすぎだろ」
「でも、あの黒龍を討った人だぞ」
「今、ここにいるのか?」
ざわめきが広がる。
シャーロットは慌てて両手を小さく振った。
「あの、今日はただの休日で……皆さんのお邪魔をするつもりはなくて……」
「邪魔なんかじゃねえ!」
最初の職人が、少し大きな声で言った。
彼は自分でも驚いたように口を閉じ、それから照れたように頭を掻いた。
「すまん。でも、邪魔なわけない。俺の家、東通りなんだ。黒龍の時、あのまま防衛線が崩れてたら、燃えてたかもしれねえって聞いた。妹一家もそこに住んでる」
シャーロットは息を止めた。
職人は、深く頭を下げた。
「守ってくれて、ありがとう」
それをきっかけに、別の席から声が上がった。
「うちの親父も避難できたんだ。足が悪くてな。獅子の咆哮の人達が誘導してくれたって言ってた」
「俺は城塞区画の修理に入ってる。あんた達が止めてくれなきゃ、修理どころじゃなかった」
「黒龍の息吹が見えた時、もう終わりだと思った。けど、防衛線が残ったんだ」
「うちの子供、毎日星纏いの魔女ごっこしてるよ」
「その子供達には、もう少し正しい結界の知識を……」
シャーロットが思わず小さく呟くと、ガルドが吹き出した。
「今そこかよ」
「だって、一枚の結界で黒龍の息吹を止める遊びは危ない誤解が……」
「子供の遊びだ」
「でも、結界は正しい使い方が大事で……」
アメリアが笑いながら言う。
「ほら、少し落ち着いたでしょう」
「えっ」
「あなた、説明しようとすると緊張が抜けるのね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
そのやり取りを見て、酒場の空気が少しだけ緩んだ。
遠くから見れば、星纏いの魔女は黒龍を討った伝説の魔法使いだ。近づけば魔力圧で吹き飛ばされるのではないかと冗談を言われるような存在だ。
けれど、目の前のシャーロットは、結界の誤解を真面目に心配して、隣の男に突っ込まれ、アメリアに笑われている。
その普通さが、かえって人々の緊張をほどいた。
店主が、厨房の奥から大きな杯を持ってきた。
「星纏いの魔女様」
「様は……」
「じゃあ、シャーロットさん」
店主はにっと笑った。
「今日は店から一杯出させてくれ」
「いえ、そんな……」
「受け取ってくれ。王都を守ってくれた礼だ」
シャーロットは返事に詰まった。
断るべきか、受け取るべきか分からない。困ってアメリアを見ると、アメリアは静かに頷いた。
「受け取りなさい」
「でも……」
「感謝を断られると、渡す方も困るのよ」
その言葉に、シャーロットは少しだけ目を伏せた。
感謝を受け取る。
それも、まだ練習中だった。
シャーロットは両手で杯を受け取る。
「ありがとうございます」
店主が満足そうに笑う。
「こっちこそ、ありがとうよ」
すると、別の客も立ち上がった。
「俺からも一杯!」
「おい、飲ませすぎるなよ。魔女様が倒れたらどうする」
「薄めろ薄めろ」
「果実水も出せ!」
「甘い菓子もあるぞ!」
一気に酒場が騒がしくなった。
ただし、嫌な騒ぎではない。
誰かが無理に近づくわけではない。握手を求めて押し寄せるわけでもない。遠巻きに見ながら、杯を掲げ、笑い、感謝を口にする。店主が「順番にしろ、囲むな!」と声を張り上げ、職人達が「そうだそうだ、本人が困ってるぞ」と笑う。
「星纏いの魔女に、乾杯!」
誰かが叫んだ。
「獅子の咆哮にも、乾杯!」
別の誰かが続ける。
「王都を守ってくれた皆に!」
「黒龍に勝った王都に!」
次々と杯が掲げられた。
酒場いっぱいに、木の杯が鳴る音が広がる。
「乾杯!」
その声が、温かく響いた。
シャーロットは、真っ赤になりながら杯を持っていた。
ガルドが横で笑う。
「よかったな」
「よかった、のでしょうか」
「よかったんだよ」
アメリアも杯を掲げる。
「ちゃんと受け取りなさい。これは、あなた一人だけに向けられたものじゃないわ。あなたが守ったものから返ってきた声よ」
「私一人ではありません」
シャーロットは小さく言った。
けれど、今度はその言葉を自分の中だけにしまわなかった。
彼女は立ち上がった。
酒場の視線が集まる。
緊張で喉が少し固くなる。それでも、彼女はゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
酒場が静かになる。
「黒龍を止められたのは、私一人の力ではありません。獅子の咆哮のみんながいました。前で時間を稼いでくれた人、怪我人を下げてくれた人、指揮を整えてくれた人、避難を助けてくれた人、王国軍や冒険者の皆さんもいました」
シャーロットは顔を上げた。
「私は、その中で自分にできることをしただけです」
ガルドが小さく息を吐く。
「またそれか」と言いたげだった。
けれど、今は黙っていた。
シャーロットは続ける。
「だから、感謝は獅子の咆哮のみんなにも、王都を守るために動いた皆さんにも向けていただけたら嬉しいです」
少し間が空いた。
そして、カウンターの老人が笑った。
「いい子だなあ」
その一言で、酒場がどっと笑った。
シャーロットは固まる。
「いい子……」
「二十八だぞ」
ガルドがぼそりと言う。
「ガルドさん」
「いや、事実だろ」
「今それを言わなくても」
アメリアが肩を震わせて笑っている。ソフィアも口元を押さえているが、隠しきれていない。
老人は悪びれずに笑った。
「いくつでも、いい子はいい子だ」
その言葉に、また酒場が笑う。
シャーロットは困ったように頬を赤くしたが、不思議と嫌ではなかった。
銀翼では、そんなふうに言われたことはなかった。
役に立つか。
評価に足りるか。
攻撃実績があるか。
そういう目で見られることが多かった。
今は違う。
町の人々は、彼女を遠い英雄としてだけでなく、目の前にいる一人の人間として笑ってくれている。
それが少し、くすぐったかった。
店主が新しい皿を置いた。
「ほら、星纏いの魔女様……じゃなかった、シャーロットさんへ。甘い焼き菓子だ。酒ばっかりじゃ困るだろ」
「ありがとうございます」
「あと、こっちは獅子の咆哮の皆さんへ」
大皿に乗った焼き肉が、テーブルへ置かれる。
ガルドが目を細めた。
「量が増えてないか」
「サービスだ」
「ありがたいが、食い切れるか?」
「お前ならいけるだろ」
「俺を何だと思ってる」
「よく食う獅子の咆哮の人」
「間違ってねえな」
アメリアが吹き出した。
ソフィアもつられて笑う。
シャーロットも笑った。
そこからは、もう静かな食事ではなかった。
酒場の客達が、少しずつ話しかけてくる。
「うちの息子が冒険者学校に行きたがってるんだ。星纏いの魔女みたいになるって言っててな」
「えっと、まずは基礎体力と安全確認を大事にしてください」
「黒龍を倒すより先に安全確認か」
「大事です」
「この人、本当に新人教育の人なんだな」
別の客が言う。
「一層障壁って、本当に一枚なのか?」
シャーロットは少し考えてから答えた。
「はい。ただ、普通は真似しない方がいいです。通常の結界は多層にした方が安全ですから」
「本人から注意が入ったぞ」
「子供達にも伝えないとな」
「星纏いの魔女ごっこでは多層障壁にしろって?」
「それはそれで渋い遊びだな」
また笑いが起きる。
アメリアは楽しそうに杯を傾けながら、シャーロットを見ていた。
逃げない。
隠れない。
感謝を受け取り、必要なところではきちんと説明し、自分一人の功績ではないと言える。
前回の休日より、少しだけ強くなっている。
戦場で黒龍を討つ強さではない。
人の好意を受け取る強さだ。
ソフィアも、その姿をじっと見ていた。
銀翼の記録に残っていたシャーロット。黒龍を討った星纏いの魔女。戦場を整える魔法使い。ソフィアが学びたいと願った人。
その人が今、酒場で町の人々に囲まれ、真っ赤になりながらも笑っている。
遠い存在ではない。
だからこそ、学びたいと思った。
「ソフィアさん?」
シャーロットが気付いて首を傾げる。
ソフィアは少し慌てて首を振った。
「いえ。やっぱり、来てよかったと思って」
「酒場にですか?」
「はい。それもあります」
「それ以外も?」
ソフィアは微笑んだ。
「獅子の咆哮へ、です」
シャーロットは少し照れたように笑った。
「来てくださって、嬉しいです。これから一緒に考えていきましょう」
「はい」
アメリアがそこへ割って入る。
「はい、湿っぽくなりすぎない。今日は休日よ」
「すみません」
「謝らない。飲むか食べる」
「では、食べます」
「よろしい」
ガルドが大皿をシャーロットの方へ寄せる。
「ほら、肉」
「そんなに食べられません」
「今日は食え」
「それも休養ですか?」
「たぶんな」
「たぶん……」
そんなやり取りに、周囲の客達も笑う。
酒場の空気は、いつの間にか一つになっていた。
誰かが歌い出す。
復興作業でよく歌われる、古い王都の労働歌だった。最初は二人、三人。やがて職人達が加わり、冒険者達が手拍子をする。店主が厨房から調子を合わせ、カウンターの老人が少し外れた声で歌う。
陽気で、不格好で、温かい歌。
シャーロットはその中で、杯を両手で持っていた。
星装備はない。
星帽ポラリスも、星衣リゲルも、星脈晶ヴェガもない。
それでも、町の人々は彼女を見つけた。
怖がるのではなく。
遠巻きに崇めるのでもなく。
ありがとう、と言うために。
「シャーロット」
ガルドが横で声をかけた。
「はい」
「悪くないだろ」
シャーロットは酒場を見回した。
笑っている人達。
歌っている人達。
食べている人達。
復興の話をしながらも、明日を心配しながらも、今この場で生きている人達。
自分が守った街。
獅子の咆哮のみんなと守った街。
そして、これからも守りたいと思える場所。
「はい」
シャーロットは微笑んだ。
「とても、温かいです」
ガルドは満足そうに杯を傾けた。
その夜、シャーロットはたくさん飲んだわけではなかった。
けれど、たくさん笑った。
町の人々に礼を言われ、困り、照れ、説明し、また笑った。アメリアに食べなさいと言われ、ガルドにからかわれ、ソフィアと顔を見合わせて笑った。
いつの間にか、酒場の誰かがまた杯を掲げる。
「星纏いの魔女に!」
「獅子の咆哮に!」
「王都に!」
「明日も働く俺達に!」
「それも大事だ!」
笑い声とともに、杯が鳴る。
シャーロットも、今度は少しだけ慣れた手つきで杯を上げた。
「皆さんに」
その声は小さかった。
けれど、周囲には届いた。
「皆さんが、明日も無事に帰れますように」
一瞬だけ、酒場の空気が柔らかく静まった。
そして、誰かが言った。
「やっぱりいい子だなあ」
「だから二十八だって」
ガルドの突っ込みに、酒場中が笑った。
シャーロットも、今度は一緒に笑った。
その笑い声は、夜の王都へこぼれていく。
黒龍の傷跡がまだ残る街。
それでも、人々が立ち上がり、食べ、飲み、笑い、明日へ向かおうとしている街。
シャーロットは、その中にいた。
星纏いの魔女としてではなく。
獅子の咆哮の仲間として。
シャーロットとして。
その夜の温かさは、酒場を出たあとも、彼女の胸に静かに残り続けていた。




