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第3節 街の酒場

夕方の酒場は、すでに賑わい始めていた。


王都の大通りから一本入った場所にある、木造二階建ての古い酒場だった。入口の上には、麦束と獅子を組み合わせた看板が揺れている。高級店ではない。冒険者も、職人も、商人も、仕事帰りの町人も入るような、気取らない店だ。


中からは焼いた肉の匂い、香草を混ぜた煮込みの湯気、木の杯がぶつかる音、笑い声が漏れていた。


「ここ、よく来るんですか?」


シャーロットが尋ねると、ガルドは扉に手をかけながら答えた。


「たまにな。飯がうまい」


「雰囲気も悪くないわ」


アメリアが横から言う。


「アメリアさんも来るんですね」


「ええ。仕事帰りに少し息を抜きたい時には、ちょうどいいの」


「そうなんですね」


「だから今日は、あなた達もちゃんと息を抜くこと。特にシャーロット」


「はい」


ガルドが小さく笑った。


「説教が始まったな」


「ガルド?」


「何でもない」


ソフィアはそのやり取りを聞いて、少しだけ緊張を解いたようだった。


今日、正式に獅子の咆哮の医務班所属になったばかりだ。手続きは終わった。引き継ぎも済ませた。けれど、まだ新しい場所に足を踏み入れたばかりの感覚は残っている。


それでも、今この場で彼女を外の者扱いする人はいなかった。


アメリアも、ガルドも、シャーロットも、当然のように一緒に歩いている。


そのことが、ソフィアには少し眩しかった。


扉を開けると、温かい空気が一気に流れてきた。


「いらっしゃい!」


店主の太い声が響く。


店内はほどよく混んでいた。奥の席では職人達が大皿を囲み、窓際では若い冒険者達が依頼の話をしている。カウンターには常連らしい老人が二人。壁には黒龍戦後に貼られた王都復興支援の告知と、獅子の咆哮のSランク昇格を報じた新聞の切り抜きが貼られていた。


その新聞の見出しに、シャーロットは少しだけ視線を奪われる。


『黒龍を討った星纏いの魔女』


挿絵は、やはり本人とは微妙に違っていた。星衣リゲルらしい深い紺のローブ、星帽ポラリスらしい帽子、空に広がる巨大な魔法陣。実際の戦場を見ていない絵師が噂を元に描いたのだろう。


少し勇ましすぎて、少し格好よすぎる。


シャーロットは、そっと目を逸らした。


ガルドがそれに気付き、口元を上げる。


「似てねえな」


「見ないでください」


「俺は新聞を見てるだけだ」


「それが恥ずかしいんです」


アメリアが楽しそうに笑う。


「いいじゃない。実物より少し堂々としているわ」


「それは、実物が堂々としていないという意味ですか?」


「今日のあなたは特にね」


シャーロットは何も言えなくなった。


四人は奥の丸テーブルへ案内された。店主はガルドを見ると、慣れた様子で声をかける。


「おう、ガルド。今日は珍しい面子だな」


「ああ。飯を頼む」


「飲み物は?」


ガルドがシャーロットを見る。


「飲めるか?」


「少しなら。あまり飲み慣れてはいませんが」


「じゃあ薄めの果実酒だな」


アメリアが即座に決めた。


「ソフィアさんは?」


「あ、私は……」


「遠慮しない」


「では、同じものを」


「私は葡萄酒。ガルドはいつもの?」


「麦酒でいい」


店主が豪快に頷き、注文を奥へ飛ばす。


しばらくして、木の杯と大皿が次々に運ばれてきた。焼き肉の盛り合わせ、香草入りの豆煮込み、蒸した根菜、焼きたての丸パン、魚の香草焼き、薄く切った燻製肉。


どれも飾り気はないが、湯気が立っていて、見ているだけでお腹が空く。


シャーロットは目を輝かせた。


「すごい量ですね」


「四人なら普通だろ」


ガルドが言う。


「普通……」


「また普通に引っかかってる」


アメリアが笑った。


「今日は食べていい日よ。ちゃんと食べなさい」


「はい」


シャーロットは小さく頷き、丸パンを手に取った。


果実酒は、思ったより飲みやすかった。甘酸っぱくて、香りが柔らかい。喉を通ると少しだけ体が温かくなる。シャーロットが慎重に一口飲むと、ガルドが横で見ていた。


「どうだ?」


「おいしいです」


「ならよかった。飲みすぎるなよ」


「はい。一杯で十分だと思います」


「偉い」


「子供扱いしていませんか?」


「してない」


そのやり取りに、ソフィアが小さく笑った。


シャーロットがそちらを見ると、ソフィアは慌てて口元を押さえる。


「すみません。お二人のやり取りが、少し……」


「少し?」


「安心するなと思って」


シャーロットは目を瞬かせた。


ソフィアは杯を両手で持ちながら、少し照れたように続ける。


「銀翼では、最近ずっと張り詰めていました。医務室も慌ただしくて、移籍の話もあって、気を抜く時間があまりなくて。でも、こうして普通に食事をして、皆さんが普通に話しているのを見ていると……少し、息ができます」


アメリアの表情が柔らかくなった。


「なら、今日はしっかり息をしなさい。移籍手続きも引き継ぎも大事だけれど、あなたまで倒れたら意味がないわ」


「はい」


「それと、獅子の咆哮に来たからには覚悟しておいて。休むのも仕事って何度も言われるから」


「それは、シャーロットさんだけではなく?」


「全員よ」


ガルドが苦笑する。


「アメリアに見つかると逃げられねえぞ」


「逃げる必要があるんですか?」


ソフィアが真面目に聞く。


ガルドは少し考えた。


「仕事を切り上げろって言われた時にな」


「それは、逃げてはいけないのでは」


「お前、真面目だな」


「よく言われます」


シャーロットとソフィアが顔を見合わせる。


そして、ほぼ同時に小さく笑った。


アメリアが満足そうに杯を傾ける。


「真面目な子が二人。これは管理しがいがあるわね」


「管理される前提なんですね」


シャーロットが言うと、アメリアは即答した。


「放っておくと二人とも働きすぎるでしょう」


「否定しきれません」


ソフィアが苦笑する。


「私はまだ獅子の咆哮の皆さんほど働けるかどうか……」


「そういう子ほど危ないのよ」


アメリアは豆煮込みを取り分けながら言った。


「早く追いつかなきゃ、役に立たなきゃ、迷惑をかけないようにしなきゃ。そう考えて無理をする。だから最初から言っておくわ。獅子の咆哮では、無理を隠す方が怒られる」


ソフィアは少し驚いた顔をした。


「無理を隠す方が……」


「ええ。シャーロットで学んだもの」


「私でですか?」


「あなたでよ」


アメリアは容赦なく頷いた。


「大丈夫です。少しだけです。必要だったので。まだできます。そう言いながら、大規模探知で鼻血を出すし、黒龍戦では手を震わせるし、休ませないと資料を作り続けるし」


「アメリアさん、酒場でその話は……」


「事実よ」


ガルドが笑う。


「否定できねえな」


シャーロットは肩を小さくすぼめた。


ソフィアはその様子を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


叱られている。


けれど、そこに冷たさはない。


心配されている。


見られている。


無理を見逃さないと言われている。


銀翼で今まで見てきたものとは、少し違う。


「私も、隠さないようにします」


ソフィアが言うと、アメリアは満足そうに頷いた。


「よろしい」


食事は進んだ。


ガルドは肉をよく食べた。シャーロットは豆煮込みを気に入り、パンにつけて食べていた。ソフィアは最初遠慮していたが、アメリアが次々に皿へ取り分けるので、途中から諦めて素直に食べ始めた。


「これ、おいしいです」


ソフィアが魚の香草焼きを口にして言う。


「でしょう? ここの香草焼きは当たりなの」


アメリアが得意そうに言う。


「アメリアさんが作ったわけじゃないだろ」


ガルドが突っ込む。


「いい店を知っているのも実力よ」


「そういうものですか」


シャーロットが真面目に頷く。


「シャーロット、今のは本気で納得しなくていい」


「えっ」


そんな会話に、テーブルの空気はどんどん柔らかくなっていった。


酒場の中では、他の客達もそれぞれ楽しんでいる。職人達は復興工事の話をし、冒険者達は明日の依頼について言い合い、老人達は昔の王都の話をしていた。誰も、奥のテーブルにいる私服姿の女性が、新聞に載った星纏いの魔女だとは気付いていないようだった。


少なくとも、最初は。


「そういえば」


隣の席の職人が、新聞の切り抜きを見ながら言った。


「黒龍を討った星纏いの魔女って、獅子の咆哮の魔法使いなんだろ?」


「そうらしいな」


別の職人が杯を傾ける。


「うちの甥が黒龍戦の避難誘導にいたんだが、あの人の結界がなかったら防衛線が焼けてたって言ってたぞ」


「一枚の結界で息吹を止めたってやつか?」


「そうそう。一枚って何だよって話だけどな」


シャーロットの手が、豆煮込みの匙を持ったまま止まった。


ガルドが横目で見る。


アメリアは面白そうに杯を傾ける。


ソフィアは少し緊張した顔で、シャーロットを見る。


職人達の会話は続く。


「俺のところも、城塞区画の修理に入ってるけどな。あの黒龍がもっと暴れてたら、東通りまで燃えてたって話だ」


「うちの妹一家、東通りだぞ」


「じゃあ感謝しとけ。星纏いの魔女様に」


「本当に会えるなら酒くらい奢るよ」


シャーロットはさらに顔を赤くした。


「……ガルドさん」


「俺は何もしてねえ」


「アメリアさん」


「私は何も聞いていないわ」


「ソフィアさん」


「えっと……良いこと、だと思います」


「良いこと……」


シャーロットは困ったように視線を落とした。


その時、店内の奥で別の客が言った。


「でも、星纏いの魔女ってどんな人なんだろうな。新聞の絵だとすごい迫力だけど」


「そりゃ黒龍を討つくらいだから、近づいたら魔力圧で吹っ飛ばされるんじゃないか?」


「いや、獅子の咆哮の団員に聞いた奴が言うには、普段は普通に柔らかい人らしいぞ」


「本当かよ」


「新人にめちゃくちゃ丁寧に教えるらしい」


「黒龍を倒す人が新人教育?」


「そこがすごいんだろ」


シャーロットは、もう完全に小さくなっていた。


ガルドが笑いをこらえている。


「大人気だな」


「笑わないでください」


「無理だな」


「ガルドさん」


アメリアは頬杖をつきながら言った。


「受け取りなさい。悪口じゃないんだから」


「分かっています。でも、恥ずかしいです」


「恥ずかしがりながらでもいいわ」


ソフィアが、静かに言った。


「皆さん、本当に感謝しているんですね」


シャーロットは少しだけ顔を上げた。


隣の席の職人達も、奥の客達も、別に本人へ聞かせようとしているわけではない。ただ、王都が守られたことを話している。黒龍が怖かったこと。逃げたこと。家族が無事だったこと。防衛線が崩れなかったこと。獅子の咆哮がSランクになったこと。星纏いの魔女という名前。


そこにあるのは、恐怖だけではなかった。


感謝もあった。


安堵もあった。


笑い話にできるほど戻ってきた日常もあった。


「……そうですね」


シャーロットは小さく言った。


「ありがたいです」


その声は、本当に小さかった。


けれど、隣にいたガルドには聞こえた。


彼は少しだけ表情を和らげ、黙って麦酒を飲んだ。


しばらくして、店主が追加の皿を持ってきた。


「お待ち。香草肉の追加だ」


「頼んでないぞ」


ガルドが言うと、店主は豪快に笑った。


「アメリアが来てるなら、そのうち頼むと思ってな」


「勝手に持ってきたの?」


アメリアが眉を上げる。


「どうせ食うだろ?」


「食べるけど」


「ほらな」


そのやり取りに、テーブルの四人が笑った。


シャーロットも笑った。


ソフィアも笑った。


ガルドも、アメリアも。


酒場の騒がしさの中で、四人の笑い声が重なる。


その瞬間だけは、銀翼のことも、黒龍のことも、移籍手続きの緊張も、少しだけ遠くにあった。


「シャーロットさん」


ソフィアが小さく声をかけた。


「はい」


「私、獅子の咆哮でちゃんと学びます。怪我を治すだけではなく、怪我を出さないために、何を見るのかを」


シャーロットは微笑んだ。


「一緒に考えていきましょう」


「はい」


アメリアが二人を見て、杯を軽く掲げた。


「では、少し早いけれど、ソフィアさんの新しい一歩に」


ガルドも杯を上げる。


「無理しすぎない弟子入りに」


「それは私にも刺さる気がします」


シャーロットが言うと、アメリアは笑った。


「刺さっていいのよ」


ソフィアは少し照れながら杯を上げる。


「よろしくお願いします」


四人の杯が、軽く触れ合った。


木の杯が鳴る、小さな音。


その音は、酒場の喧騒の中にすぐ溶けていく。


けれど、シャーロットの胸には、なぜかはっきり残った。


その時だった。


隣の席にいた職人の一人が、ふとこちらを見た。


最初は何気ない視線だった。


だが、ガルドの顔を見て、アメリアを見て、壁の新聞へ視線を戻す。それから、薄藍色のスカート姿で小さくなっているシャーロットの横顔を見た。


職人の表情が、少しずつ変わっていく。


「……なあ」


彼は隣の仲間の袖を引いた。


「どうした?」


「いや、あの人……」


声は小さかった。


けれど、シャーロットの耳には届いてしまった。


嫌な予感がした。


ガルドも気付いたらしく、口元を上げる。


アメリアは楽しそうに杯を置いた。


ソフィアは少し緊張して姿勢を正す。


職人は新聞の切り抜きと、シャーロットを何度も見比べた。


そして、ぽつりと呟いた。


「……星纏いの魔女、じゃないか?」


酒場の空気が、ほんの一瞬だけ止まった。


シャーロットは、手にしていた杯をそっと机に置いた。


逃げ出すには、もう少し遅かった。

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