第2節 気づかれない星纏い
王都の大通りは、黒龍戦の後とは思えないほど明るかった。
完全に元通り、というわけではない。石畳の一部には新しい石がはめ込まれ、壁の修復跡も残っている。遠くの城塞区画には足場が組まれ、職人達の槌音がかすかに聞こえていた。
それでも、通りを行く人々の顔には、以前より少しだけ余裕が戻っている。
露店の煙。
焼き菓子の甘い匂い。
果物を並べる店主の声。
馬車の車輪が石畳を鳴らす音。
子供達の笑い声。
シャーロットは、その中をガルドと並んで歩いていた。
淡いクリーム色のブラウスに、薄藍色のロングスカート。短めの薄茶色のジャケット。髪には、水色の硝子玉の髪飾り。星帽ポラリスも、星衣リゲルも、星脈晶ヴェガもない。
星纏いの魔女と呼ばれる時の姿とは、まるで違う。
「本当に、気づかれませんね」
シャーロットは小声で言った。
少し前、露店の店主が普通に「お嬢さん、林檎はどうだい」と声をかけてきた。近くを通った冒険者達も、彼女をちらりと見ただけで通り過ぎた。星纏いの魔女だと騒ぐ者はいない。
ガルドは横で肩をすくめる。
「星装備の印象が強すぎるんだろ」
「そんなに違いますか?」
「違うな。いつものお前は、遠目でも魔法使いだって分かる。今日は……まあ、休みの日に街を歩いてる女に見える」
「休みの日に街を歩いてる女……」
「変な意味じゃねえぞ」
「分かっています」
シャーロットは少し笑った。
休みの日に街を歩いている人に見える。
その言い方は少しぶっきらぼうだったけれど、今のシャーロットには不思議と嬉しかった。星纏いの魔女でも、黒龍を討った魔法使いでも、銀翼を追放された元団員でもない。
ただ、休日に街を歩く一人として見られる。
それが、思ったより穏やかだった。
二人はまず、通り沿いの服飾小物の店に入った。
前回は雑貨屋で髪飾りを買ってもらった。今回は、もう少し布小物や日用品が多い店だった。棚には刺繍入りのハンカチ、布製の小袋、髪紐、薄手の肩掛け、手袋、香り袋、簡単な裁縫道具などが並んでいる。
シャーロットは、棚の前で少し緊張したように立ち止まった。
「見るだけでも、いいんでしょうか」
「店なんだから見るだろ」
「そうですね」
「それも練習か?」
「はい。必要な物以外を見る練習です」
「変な練習だな」
「でも、私には少し難しいです」
そう言いながら、シャーロットは丁寧に棚を見ていく。
薄青の髪紐。白い刺繍のハンカチ。淡い緑の香り袋。葉模様の小さな布袋。どれも高価なものではない。けれど、必要最低限ではないものだった。
銀翼にいた頃なら、きっと手に取ってもすぐ戻していた。
必要ではないから。
今月は余裕がないから。
まだ使えるものがあるから。
自分には、なくても困らないから。
その考え方は、まだ完全には消えていない。
でも今日は、少しだけ違った。
「これ、ソフィアさんに合いそうです」
シャーロットが手に取ったのは、淡い若草色の小さな布袋だった。薬草や小瓶を入れるのにちょうどよさそうな大きさで、紐を結べば腰にも下げられる。派手ではなく、実用的で、少しだけかわいい。
ガルドはそれを見て、呆れたように笑った。
「やっぱり人のものから見るんだな」
「すみません」
「謝るな。悪いことじゃねえし」
「でも、今日は自分のものも見る約束でした」
「じゃあ、それを見た後で自分のも見ろ」
「はい」
シャーロットは布袋を大事そうに持ったまま、別の棚へ視線を移した。
しばらく迷った末に、彼女が自分用に選んだのは、薄藍色の小さなハンカチだった。端に白い糸で小さな草葉が刺繍されている。今日のスカートにもよく合っていた。
「これにします」
「もっと選んでもいいんだぞ」
「今日はこれで十分です」
「本当に十分か?」
シャーロットは少し考えた。
そして、前より少しだけはっきり頷いた。
「はい。ちゃんと欲しいと思ったので」
その言葉に、ガルドは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「はい」
二人は布袋とハンカチを買った。
今度はシャーロットが自分で支払った。前回のようにガルドが先に払おうとすると、彼女は小さく首を振った。
「今日は、私も自分で買ってみたいです」
「そうか」
ガルドはそれ以上言わなかった。
店を出ると、通りの先から子供達の声が聞こえてきた。
「星纏いの魔女だぞー!」
「黒龍め、もう悪さはさせません!」
「ぐわー!」
シャーロットの足が、ぴたりと止まった。
ガルドの口元が、分かりやすく上がる。
「またやってるな」
「……聞こえません」
「聞こえてるだろ」
「聞こえません」
「今回は帽子がないから、隠れられないな」
「ガルドさん」
広場の端で、子供達が遊んでいた。
一人の少女が、濃い青の布を肩からかけている。頭には大きめの布帽子。手には枝をワンドのように持っていた。別の子供は黒い布をかぶり、黒龍役をしているらしい。
少女が枝を振ると、周りの子供達が大げさに倒れて笑っている。
前回見た時より、少し演技が上手くなっている気がした。
「星纏いの魔女、強いぞー!」
「一枚の結界で、黒龍の息を止めるんだ!」
「一枚って何だ?」
「知らない! でもすごいやつ!」
シャーロットは耳まで赤くなった。
「一枚って、子供達にも広まっているんですね……」
「有名人だな」
「恥ずかしいです」
「でも、前より逃げてねえな」
そう言われて、シャーロットは少し驚いた。
確かに、前回は帽子を深くかぶって隠れようとした。今回は、恥ずかしいけれど、その場から逃げ出したいほどではない。
子供達は笑っている。
怖がっていない。
黒龍の記憶を、遊びに変えられるくらいには、日常が戻ってきている。
それは、悪いことではなかった。
「少しだけ、慣れたのかもしれません」
シャーロットは小さく言った。
ガルドが横で笑う。
「少しだけか」
「はい。かなりではありません」
「そこは慎重だな」
「まだ恥ずかしいので」
その時、黒龍役の子供が大げさに倒れ、星纏いの魔女役の少女が勝ち誇ったように枝を掲げた。
「王都は守られました!」
周りの子供達が拍手する。
通りかかった大人達も笑っている。
シャーロットはそれを見て、胸の奥が少し温かくなった。
自分一人で守ったわけではない。
ガルドがいた。アメリアがいた。アクセルがいた。レオンがいた。獅子の咆哮の仲間達がいた。王国軍も、他の冒険者達もいた。
それでも、子供達が笑っていることは嬉しかった。
「……守れて、よかったです」
ぽつりと漏れた声に、ガルドは横目で彼女を見た。
「そうだな」
短い返事だった。
けれど、その声は優しかった。
二人は広場を抜け、昼前の市場へ向かった。
市場には、昼食前の人々が集まっていた。香辛料をまぶした串焼き、焼きたての丸パン、果物の蜜漬け、温かい豆の煮込み、揚げ菓子。シャーロットは一つ一つを珍しそうに見て回る。
「食べたいものは?」
ガルドが聞く。
「たくさんあります」
「いいことだ」
「でも、全部は食べられません」
「当たり前だ」
「ガルドさんなら食べられそうです」
「俺を何だと思ってる」
「大剣を振る方なので、たくさん食べるのかと」
「間違ってはいねえけどな」
結局、二人は串焼きと小さな丸パン、それから果物の蜜漬けを買って、広場の端の石段に座った。
シャーロットは串焼きを両手で持ち、少し緊張した顔で一口食べる。
「熱いです」
「そりゃ焼きたてだからな」
「でも、おいしいです」
「それはよかった」
香辛料の香りが口に広がる。少し辛いが、丸パンと一緒に食べるとちょうどいい。
銀翼にいた頃、こういう食べ歩きはあまりしなかった。お金の問題もあったし、時間の使い方も分からなかった。食事は必要なものだった。楽しむものだと考える余裕があまりなかった。
今は、違う。
「前より、食べたいものを選べている気がします」
「成長したな」
「食べ物で成長と言われると、少し不思議です」
「大事だろ。食いたいものを選べるのは」
ガルドは何気なく言った。
シャーロットは、その言葉を少し大事そうに聞いた。
食べたいものを選べる。
欲しいものを欲しいと言える。
休む日に休める。
それは、当たり前のようで、自分には少し遠かったことだ。
「大事ですね」
シャーロットは頷いた。
「本当に」
ガルドは何も言わず、串焼きを食べた。
その沈黙が、心地よかった。
昼食を終えた後、二人は本屋へ寄った。
前回は魔法書の棚へ行きかけて、自分で止まった。今回は、最初から街歩き案内や料理本、植物図鑑の棚を見ていた。
けれど、しばらくすると自然に魔法理論の棚へ足が向きかける。
ガルドが横で咳払いした。
「今日は?」
シャーロットはぴたりと止まった。
「……一冊だけなら、休養に含まれるでしょうか」
「読む本による」
「軽いものにします」
「軽い魔法書って何だ」
「初級結界理論の実用解説など……」
「それは休養じゃねえ」
「そうですか」
残念そうに戻ろうとするシャーロットを見て、ガルドは笑った。
「完全禁止とは言ってねえよ。ただ、今日は頭を使いすぎるな」
「では、植物図鑑にします。薬草茶に使える草が載っているので」
「それも仕事っぽいな」
「お茶です」
「お茶ならいいか」
「はい。お茶です」
少し強引な理屈だった。
けれど、ガルドはそれ以上突っ込まなかった。
シャーロットは小さな植物図鑑を一冊買った。前回は「次にします」と戻した本を、今日は自分で選び、自分で買った。それだけのことなのに、少し胸が弾んだ。
本屋を出る頃には、日は少し傾き始めていた。
「そろそろ戻るか?」
ガルドが聞く。
シャーロットは通りを見た。
まだ歩ける。
けれど、歩き疲れてもいる。前なら無理をして、まだ大丈夫ですと言ったかもしれない。今日は、少しだけ素直になれた。
「少し休みたいです」
ガルドは満足そうに頷いた。
「よし。成長したな」
「休みたいと言っただけです」
「それが成長なんだよ、お前の場合」
「そうなんですね」
「そうだ」
二人は近くの喫茶店に入ろうとした。
その時、通りの向こうから見慣れた赤茶色の髪が見えた。
アメリアだった。
隣には、少し緊張した面持ちのソフィアもいる。ソフィアは銀翼の外套ではなく、落ち着いた色の私服に近い服装をしていた。手には、数枚の書類を入れた封筒を持っている。
アメリアが二人に気付き、手を振った。
「やっぱりここにいたわね」
ガルドが眉を上げる。
「やっぱり?」
「あなた達の行動範囲くらい分かるわ」
「監視してたのか」
「心配していただけよ」
「同じじゃねえか」
シャーロットは少し驚いたように二人を見る。
「アメリアさん、ソフィアさん。お二人もお出かけですか?」
「ええ。ソフィアさんの手続きが終わったから、医務班で使う小物を見に来ていたの。筆記具とか、薬草用の袋とかね」
シャーロットは瞬きをした。
「手続き、ですか?」
ソフィアは丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、シャーロットさん、ガルドさん。それと……ご報告があります」
「ご報告?」
「はい」
ソフィアは少しだけ背筋を伸ばした。
「銀翼の剣での引き継ぎが、正式に終わりました。医務室への申し送りも済ませています。ギルド立ち会いで契約の整理も完了しました。それから、先ほど獅子の咆哮での受け入れ手続きも終わりましたので、本日付で医務班に所属することになりました」
シャーロットは目を瞬かせた。
「本当に、こちらへ?」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「無責任に抜けてきたわけではありません。担当していた患者さんの記録も、薬草の管理表も、後任の方へ渡してきました。最後に少しだけ揉めるかと思いましたが、ギルドの方が同席してくださったので、大きな問題にはなりませんでした」
「そう、だったんですね」
シャーロットはほっとしたように笑った。
「よかったです。ソフィアさんが無理をしていないなら」
「無理はしていません」
そう言ってから、ソフィアは少しだけ表情を柔らかくした。
「むしろ、これからの方が大変です。私はまだ、シャーロットさんが見ている戦場を全部は理解できていませんから」
「私も、うまく説明できるか分かりません」
「では、一緒に言葉にしてください」
ソフィアはまっすぐに言った。
「怪我を治すだけではなく、怪我を出さないために何を見るのか。私は、それを学ぶためにここへ来ました」
シャーロットは少し困ったように笑った。
けれど、その笑みは嬉しそうでもあった。
「では、よろしくお願いします。ソフィアさん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
ガルドは小さく息を吐いた。
「これで正式に獅子の医務班か」
「はい」
ソフィアは少し緊張したように頷く。
アメリアが続けた。
「銀翼から逃げてきたわけじゃないわ。引き継ぐべきものを引き継いで、整理すべき契約を整理して、自分の意思で来た。それで十分よ」
「……はい」
ソフィアの声が、少しだけ柔らかくなった。
そこで、シャーロットは先ほど買った若草色の布袋を思い出した。
「あ、ソフィアさん。これ、よろしければ」
「え?」
シャーロットは少し照れながら、布袋を差し出した。
「薬草や小瓶を入れるのに使えるかなと思って。移籍のお祝い、というには小さいものですが……」
ソフィアは目を丸くした。
「私に、ですか?」
「はい。お嫌でなければ」
ソフィアは両手で布袋を受け取った。
柔らかい若草色の布。派手ではないけれど、丁寧に作られている。治療道具を持ち歩くにはちょうどいい大きさだった。
「ありがとうございます。大切に使います」
その声が少し震えていて、シャーロットは慌てた。
「あの、そんなに高価なものではないので……」
「値段ではありません」
ソフィアは首を振った。
「シャーロットさんが、私のことを考えて選んでくださったものですから」
シャーロットは言葉に詰まり、少しだけ頬を赤くした。
アメリアはその様子を見て、満足そうに微笑む。
「いいわね。ちゃんと自分以外のものも、自分のものも買えた?」
「はい。ハンカチと植物図鑑を買いました」
「植物図鑑?」
アメリアの目が細くなる。
「休養用です。お茶に使える草が載っています」
ガルドが横から言う。
「本人はそう主張してる」
「まあ、魔法書よりはましね」
「私もそう思います」
シャーロットは真面目に頷いた。
アメリアは笑いをこらえるように肩を揺らした。
「せっかくだし、四人で少し休みましょうか。喫茶店でもいいけれど……」
彼女は通りの先を見た。
そこには、夕方から賑わい始める酒場の看板が揺れている。
「早めの夕食にしない? ソフィアさんの正式所属祝いにもなるし、シャーロットもちゃんと休めたみたいだし」
ガルドが言う。
「酒場か」
「軽くよ」
「アメリアの軽くは信用ならねえな」
「失礼ね」
ソフィアは少し戸惑っていた。
「私も、ご一緒してよろしいのでしょうか」
「もちろん」
アメリアが即答する。
「あなたも、少し息を抜きなさい。移籍手続きと引き継ぎで、ずっと気を張っていたでしょう」
「……はい」
ソフィアは小さく頷いた。
シャーロットも微笑む。
「一緒に行きましょう」
その言葉に、ソフィアの表情が柔らかくなった。
「はい」
四人は並んで酒場へ向かった。
夕方の王都は、少しずつ橙色に染まっている。
通りを吹く風は穏やかで、遠くからは人々の笑い声が聞こえていた。
シャーロットは、髪飾りにそっと触れた。
今日は変装ではない。
けれど、まだ誰も気付いていない。
星纏いの魔女は、仲間達と並んで、王都の酒場へ歩いていく。
店先のランタンが、少し早い夕暮れの中で、温かく揺れていた。




