第1節 私服のシャーロット
銀翼の剣との面会を終えてから、シャーロットは少し静かだった。
落ち込んでいる、というほどではない。訓練場に顔を出せば新人達へいつものように声をかけ、低ランク班の相談にも丁寧に答え、ソフィアから届いた移籍手続きの進捗にも柔らかく微笑んだ。
星脈晶ヴェガを手にすれば、魔力の流れは乱れない。
星衣リゲルを羽織れば、いつものように落ち着いた幹部の顔になる。
けれど、ふとした瞬間に、少しだけ遠くを見ることがあった。
銀翼の剣。
十年いた場所。
ひどい扱いを受けた場所。
それでも、すべてが嫌いだったわけではない場所。
ノアの謝罪を受け取り、戻ってきてほしいという願いを断った。その返事に迷いはなかった。今の自分には、獅子の咆哮でやることがある。そう、はっきり言えた。
それでも、胸の奥に小さな揺れは残った。
過去は置いていける。
けれど、なかったことにはできない。
シャーロットは、そのことを少しだけ知った。
その変化に最初に気付いたのは、やはりアメリアだった。
「シャーロット」
書類室で、ソフィア向けの講習資料を整理していたシャーロットは、顔を上げた。
「はい、アメリアさん」
「明日は休みなさい」
「……はい?」
机の上には、レオンがまとめた『負傷予兆の見つけ方・初級案』という資料が置かれている。隣には、シャーロット自身が書いた補足メモ。さらに横には、ソフィアからの質問事項。どれもまだ途中だった。
シャーロットは資料とアメリアを交互に見る。
「でも、明日はソフィアさんの移籍準備に合わせて、講習案を……」
「休みなさい」
「午前中だけでも」
「休みなさい」
「では、資料の確認だけ」
「休みなさい」
三回目で、シャーロットは口を閉じた。
アメリアは腕を組み、容赦なく告げる。
「銀翼との面会後、あなたは普通にしているつもりでしょうけれど、少し考え込みすぎているわ。そういう時に資料を作らせると、あなたは自分の過去まで教材にしようとする」
「そんなことは……」
「するわ」
断言された。
シャーロットは視線を泳がせる。
少しだけ、心当たりがあった。
自分が銀翼で見落とされていたこと。備考欄にしか残らなかったこと。低ランク帯でしていた支援。それらをソフィアに教えるために整理していると、どうしても昔のことを思い出す。
必要だったからやっていた。
危なそうだったから動いていた。
そう思っていた一つ一つが、今になって言葉になる。
それは大事な作業だ。
でも、少しだけ胸が重くなることもあった。
アメリアはその顔を見て、ため息をついた。
「ほら、やっぱり」
「顔に出ていましたか?」
「出ていたわ」
「気をつけます」
「違う。休むの」
アメリアは机の上の資料をまとめ、容赦なく端へ寄せた。
「明日は資料作成禁止。訓練禁止。探知禁止。大型術式禁止。新人指導禁止。ソフィアの質問に答えるのも禁止」
「質問に答えるのもですか?」
「一日くらい待てるわ」
「でも、ソフィアさんは真面目ですし」
「あなたも真面目すぎるの」
アメリアはそう言って、少し表情を和らげた。
「ガルドに話は通してあるわ。明日は二人で街へ行ってきなさい」
「ガルドさんと?」
シャーロットは目を瞬かせた。
前にも一度、ガルドと街へ出たことがある。あの時は、星纏いの魔女として王都中に名が広まった直後で、アメリアが用意してくれたカンカン帽と淡い水玉柄のワンピースで変装した。
魔法使いらしさをすべて消して、普通の女の子として街を歩いた日だった。
焼き菓子を食べて、髪飾りを買ってもらって、子供達の星纏いの魔女ごっこを見て、恥ずかしくて帽子を深くかぶった。
思い出すと、少し頬が熱くなる。
「あの、今回は変装ですか?」
「いいえ」
アメリアは首を振った。
「今回は変装ではないわ。普通に私服で行きなさい」
「私服……」
「星装備を着ていなければ、すぐには気付かれないでしょう。あなたは星帽ポラリスと星衣リゲルの印象が強すぎるのよ」
「それは、そうかもしれません」
王都で知られている星纏いの魔女は、深い紺の星衣リゲルをまとい、星帽ポラリスを被り、星脈晶ヴェガを持つ姿だ。新聞の挿絵も、噂話も、子供達の遊びも、だいたいその姿を元にしている。
私服で歩けば、すぐに本人だとは思われないかもしれない。
「ただし、前回と同じ格好はだめ」
アメリアが言う。
「前回の服は、あの日のために選んだものだから。今回は今回で、別の格好にしましょう」
シャーロットは少し慌てたように手を振った。
「あの、服まで見ていただいていいんでしょうか。前回も、あんなに素敵なものを用意していただいたのに……」
「手伝うだけよ。あなたも少しは選びなさい」
「選ぶ……」
その言葉に、シャーロットは少し困った。
必要な装備を選ぶのはできる。魔力の流れ、耐久性、素材、用途。そういう基準なら分かる。
だが、休日の私服を自分で選ぶとなると、途端に難しい。
アメリアはその反応を見て、苦笑した。
「やっぱり手伝うわ」
「すみません」
「謝らない。これは練習」
「練習が多いですね」
「あなたには必要な練習が多いのよ」
翌朝、シャーロットはアメリアの部屋で着替えを手伝われていた。
前回のような白地に淡い水色の水玉柄のワンピースとカンカン帽ではない。今回は、淡いクリーム色のブラウスに、薄藍色のロングスカート。上には短めの薄茶色のジャケットを羽織る。足元は歩きやすい革靴。肩には小さな布と革のバッグ。
魔法使いらしい装飾はない。
けれど、前回より少し大人っぽい。
髪はゆるく後ろでまとめ、横に少しだけ流す。アメリアは迷わず、前回ガルドに買ってもらった水色の硝子玉の髪飾りを手に取った。
「今日はこれをつけましょう」
「それ、ですか?」
「嫌?」
「いえ。大事にしています」
シャーロットは少し照れたように言った。
あの日から、その髪飾りは幹部部屋の小さな棚に置いてある。使わない日も、布で拭いて、大切にしまっていた。
星装備ではない。
魔導具でもない。
戦いには何の役にも立たない。
でも、だからこそ大事だった。
幹部になった後、初めて普通の休日を過ごした日の記憶。
欲しいと思っていいのだと、少しだけ教えてもらった証。
アメリアは何も言わず、それを髪に留めた。
水色の硝子玉が、窓から入る朝の光を受けて淡く揺れる。
「うん。よく似合うわ」
「ありがとうございます」
「化粧は軽くでいいわね。今日は本気メイクではなく、自然な感じで」
「前回は本気だったんですね」
「本気だったわ」
「そうだったんですね……」
「楽しかったもの」
アメリアがあまりに当然のように言うので、シャーロットは思わず笑ってしまった。
薄く頬に色を乗せ、唇に少しだけ淡い色を置く。目元は柔らかく整える程度。鏡の中に映った自分は、星纏いの魔女ではなかった。けれど前回のように、完全に別人というほどでもない。
ただ、休日に街へ出るシャーロットだった。
「どう?」
アメリアが聞く。
シャーロットは鏡を見つめ、少し考えた。
「落ち着きません」
「でしょうね」
「でも、前よりは少し大丈夫です」
「それは良かったわ」
アメリアは満足そうに頷いた。
「ガルドは玄関ホールで待っているわ」
その一言で、シャーロットの背筋が少し伸びた。
「はい」
「今日は変装ではないけれど、星装備は持たないこと。ヴェガも置いていく。何かあったらガルドに言う。自分で動かない。探知もしない。いいわね?」
「はい」
「それと、今日は楽しむこと」
「はい」
「返事は一番いいわね」
「実行します」
「よろしい」
アメリアに送り出され、シャーロットは廊下へ出た。
玄関ホールでは、ガルドが待っていた。
今日は大剣を持っていない。街歩き用の軽い服装で、いつもより少しだけ肩の力が抜けている。それでも体格のせいで、普通の町人には見えない。
壁にもたれて腕を組んでいた彼は、足音に気付いて顔を上げた。
そして、少しだけ言葉を止めた。
シャーロットは不安そうに立ち止まる。
「……変でしょうか?」
前回も、同じようなことを聞いた気がする。
ガルドは一度視線を外し、それから戻した。
「いや」
短い返事。
けれど、すぐに続いた。
「似合ってる」
シャーロットの頬が、少し赤くなる。
「ありがとうございます」
ガルドの視線が、彼女の髪の横で揺れる硝子玉に止まった。
「それ、まだ使ってたのか」
シャーロットはそっと髪飾りに触れた。
「はい。幹部になった時のお祝いですから」
「……そうか」
ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「大事にしすぎだろ」
「大事です」
即答だった。
ガルドは何か言いかけて、やめた。代わりに、少し照れくさそうに頭を掻く。
「なら、まあ、いい」
その反応が珍しくて、シャーロットは小さく笑った。
「ガルドさんも、今日は少し雰囲気が違いますね」
「そうか?」
「はい。大剣がないので」
「大剣で判断してたのか」
「いつも持っている印象が強くて」
「お前もだろ。星装備がないと、ぱっと見じゃ分からん」
「本当に分かりませんか?」
「少なくとも、すぐにはな」
ガルドは玄関扉の方へ顎を向けた。
「行くか」
「はい」
二人は獅子の咆哮の本部を出た。
王都の朝は、明るかった。
黒龍戦の傷跡はまだ完全には消えていない。城壁の一部には修復中の足場が残り、通りの端には新しい石材が積まれている。けれど、露店は開き、馬車は走り、子供達は広場へ向かって駆けていく。
人々は少しずつ、いつもの日々を取り戻していた。
シャーロットは、その街をゆっくり歩いた。
今日は変装しているわけではない。
隠れているわけでもない。
ただ、星装備をまとっていないだけ。
それだけで、周囲の人々は彼女に気付かない。すれ違う商人も、果物を並べる店主も、通りを走る子供達も、彼女を星纏いの魔女だとは思っていないようだった。
少し不思議だった。
同時に、少しだけ楽だった。
「落ち着かないか?」
ガルドが隣で聞いた。
「はい。でも、前よりは大丈夫です」
「前は完全に変装だったからな」
「今回は、私服で歩いているだけですから」
「それが普通だ」
「普通……」
シャーロットは、その言葉を小さく繰り返した。
普通に街を歩く。
普通に服を選ぶ。
普通に誰かと出かける。
普通にお腹が空いたら食べる。
銀翼にいた頃には、そういうものが少し遠かった。必要なものを買うだけで精一杯で、休日らしい休日を過ごすことも少なかった。
今は違う。
アメリアに休めと言われ、ガルドが隣を歩き、前回買ってもらった髪飾りをつけている。
小さなことばかりだ。
けれど、その小さなことが、胸に温かい。
「今日はどこに行きたい?」
ガルドが聞く。
シャーロットは通りを見回した。
焼き菓子の露店。
果物屋。
布小物の店。
本屋。
香辛料の屋台。
通りの先には、昼から開いている酒場の看板も見える。
「前回とは違うところへ行ってみたいです」
「例えば?」
「……服飾小物のお店を、もう少し見てみたいです。あと、ソフィアさんが移籍してきた時に使えそうなものも」
「休日まで人の準備か」
「あ」
シャーロットははっとした顔をした。
「すみません。つい」
ガルドは呆れたように息を吐き、それから笑った。
「まあ、それくらいならいいんじゃねえか。自分のものも見ろよ」
「はい。練習します」
「欲しがる練習か」
「はい」
前回と同じ言葉。
でも、前より少しだけ自然に言えた。
二人は大通りを歩き出した。
星纏いの魔女は、今日は星を纏っていない。
隠れているわけでもない。
ただ、獅子の咆哮の仲間として、シャーロットとして、ガルドと並んで王都の街を歩いていた。




