第5節 Bランクからやり直す
「戻ってきてもらうことで銀翼を立て直す道は、消えた。なら、自分達でやり直すしかない」
ノアの言葉に、団長代行は何も返せなかった。
シャーロットは戻らない。
それは当然のことだった。銀翼が今さら提示したものは、獅子の咆哮にはすでにある。高い給与も、幹部としての立場も、専用装備も、清潔な部屋も、研究環境も、休ませてくれる仲間も、無理をすれば叱ってくれる人も。
何より、彼女を見てくれる場所がある。
銀翼には、それがなかった。
「ノア様」
団長代行は、低い声で言った。
「Aランクから立て直す、ということでよろしいでしょうか」
王国とギルドの査察により、銀翼の剣はSランクからAランクへ降格した。屈辱ではある。だが、それでもAランクだ。多くのクランにとって、Aランクは十分すぎるほど高い位置である。依頼の質も悪くない。信用は落ちたとはいえ、まだ完全に消えたわけではない。
Aランクの看板を守りながら、内部体制を整え直す。
それが、現実的な再建案に見えた。
だが、ノアは首を横に振った。
「いや」
団長代行が顔を上げる。
「ギルドへ申請する」
「申請、ですか?」
「ああ」
ノアは机の上に置いていた書類を一枚、団長代行へ差し出した。
そこには、すでに必要事項が書き込まれていた。
『クランランク再編申請書』
団長代行は、目を疑った。
申請欄に記されていた希望ランクは、Aではなかった。
B。
「ノア様、これは……」
「銀翼の剣は、Bランクからやり直す」
その言葉は、静かだった。
だが、部屋の空気を一瞬で変えた。
団長代行は思わず立ち上がりかける。
「お待ちください。処分によってAランクへ降格されたばかりです。さらに自らBランクへ降りるなど、団員の動揺が……」
「動揺するだろうな」
「スポンサーも、依頼主もさらに離れます」
「そうだろう」
「高額依頼も減ります。収入も落ちます。Aランクであればまだ受けられる依頼も、Bランクでは制限されます」
「分かっている」
ノアは、すべて分かった上で答えていた。
団長代行は、書類を握る手に力を込める。
「では、なぜですか」
ノアは窓の外を見た。
王都の夜は静かだった。遠くにギルド本部の灯りが見える。かつて、銀翼の剣がBランクだった頃、ノアは何度もあの灯りを見上げた。
いつかAへ。
いつかSへ。
そう願いながら、泥だらけの依頼書を抱えて帰った夜を覚えている。
「シャーロットが来た頃、銀翼はBランクだった」
団長代行は息を呑んだ。
「まだ金もなかった。人も足りなかった。装備も足りなかった。だが、あの頃の銀翼は、人を見ていた。見なければ、次の依頼で誰かが死んだからだ」
ノアは静かに続ける。
「俺達は、そこからやり直す」
「しかし……」
「Aランクの看板を残せば、また見栄が出る」
ノアの声は低かった。
「まだAだ。まだ高ランクだ。まだ大丈夫だ。そうやって、また足元を見るのを遅らせる者が出る。今の銀翼には、その余裕が一番危ない」
団長代行は言葉を失った。
その通りだった。
Aランクは高い。
高いからこそ、逃げ道になる。
Sから落ちたとはいえ、まだAだ。そう思えば、根本からの再建ではなく、表面だけを整えようとする者が出る。高ランク依頼を取り戻そうと焦り、スポンサーへの体裁を優先し、低ランク帯の再建を後回しにするかもしれない。
それでは、何も変わらない。
「Bランクなら、見栄を張れない」
ノアは言った。
「新人教育、低ランク帯支援、装備点検、医務体制、撤退判断。そこから積み直すしかなくなる。エースの戦果で誤魔化せない。大きな依頼で穴埋めできない。下が崩れれば、すぐに全体が崩れる」
それは、銀翼がかつて通った道だった。
そして、見失った道だった。
団長代行は、ゆっくり椅子に座り直した。
「団員は、納得しないかもしれません」
「全員は無理だ」
ノアは即答した。
「離れる者もいるだろう。Sランクの看板があったから残っていた者もいる。高額依頼が欲しい者、名声が欲しい者、銀翼の名前を利用したかった者。そういう者は離れる」
「それでも?」
「それでもだ」
ノアは迷わなかった。
「今の銀翼に必要なのは、残るべき者が残ることだ。低ランク帯から積み直すことを受け入れられる者。現場を見られる者。自分達が何を失ったのかを認められる者。そういう者だけで、もう一度作り直す」
団長代行は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「……私は、残ります」
ノアは彼を見る。
「団長代行としての責任があります。見ていなかった責任もあります。逃げるわけにはいきません」
「そうか」
「ただ、団長職は……」
「俺が引き継ぐ」
ノアは言った。
団長代行の目が揺れる。
「ノア様が」
「ああ。銀翼を作ったのは俺だ。銀翼がこうなった責任も俺にある。なら、もう一度、泥をかぶる役も俺がやる」
「……申し訳ありません」
「謝るなら、団員に謝れ。現場に謝れ。シャーロットに謝ったようにな」
団長代行は深く頭を下げた。
翌日、銀翼の剣の全団員が中庭に集められた。
かつてSランクの式典で使われた場所だった。白銀の旗が高く掲げられ、貴族や商会の客を招いたこともある。だが、今日は外部の客はいない。集まっているのは銀翼の団員だけだった。
前衛。
魔法使い。
治癒術師。
職人。
受付。
管理部。
新人。
Dランク部隊。
古参。
エース部隊。
不安、苛立ち、困惑、疲労。
さまざまな表情が並んでいた。
壇上に立ったノアは、ゆっくり全員を見渡した。
「知っての通り、銀翼の剣はSランクからAランクへ降格された」
ざわめきは起きなかった。
もう皆、知っている。
「理由は、外からの不当な評価ではない。銀翼の内部に問題があったからだ。低ランク帯の事故増加、医務室の負担、装備破損、依頼遅延、評価制度の不備、待遇の問題。見ないふりをしてきたものが、表に出た」
団員達は黙って聞いている。
ノアは続けた。
「そして、俺は決めた」
風が吹き、白銀の旗が揺れる。
「銀翼の剣は、Aランクに残らない」
その言葉で、初めて大きなどよめきが起きた。
「え……?」
「残らないって、どういう……」
「まさか」
ノアは、はっきりと言った。
「ギルドへ申請し、Bランクから再スタートする」
中庭が騒然となった。
「Bランク!?」
「自分から落ちるのかよ!」
「そこまでする必要あるのか!?」
「Aならまだ立て直せるだろ!」
「高ランク依頼はどうなるんだ!」
「給料は!?」
不安と反発の声が飛び交う。
ノアはそれを止めなかった。
すぐに静まれとも言わなかった。
声が出るのは当然だ。生活がかかっている。誇りもある。SランクだったクランがAへ落ち、さらに自らBへ降りる。それは簡単に受け入れられることではない。
やがて、ざわめきが少しずつ収まっていく。
ノアはその時を待ってから、口を開いた。
「嫌なら、出ていっていい」
その一言で、場が静まった。
「Bランクからの再建を受け入れられない者を、無理に引き止めるつもりはない。高額依頼を求める者、Sランクの看板が欲しかった者、Aランク以上の待遇が必要な者。それぞれの事情があるだろう。退団や移籍を希望する者には、契約に沿って対応する」
団員達は、互いに顔を見合わせた。
ノアは続ける。
「だが、残る者には覚悟してもらう」
声が低くなる。
「銀翼は、低ランク帯から積み直す。新人教育をやり直す。装備点検を全員に行う。医務室を立て直す。評価制度を変える。攻撃実績だけでなく、支援、撤退判断、負傷予防、教育、索敵、結界、応急処置を評価に入れる」
新人達が目を見開く。
Dランク部隊の者達が、互いに視線を交わす。
古参達は静かに俯いた。
「シャーロットがいた頃、銀翼はBランクだった」
その名が出ると、空気が変わった。
シャーロット。
元銀翼のE評価魔法使い。
今は獅子の咆哮の幹部であり、星纏いの魔女。
「なら、俺達もそこからやり直す」
ノアの声は、はっきりしていた。
「あいつに戻ってきてもらうことはできない。頼んだが、断られた。当然だ。あいつにはもう、自分を見てくれる場所がある。なら、銀翼は自分達で変わるしかない」
誰も茶化さなかった。
誰も笑わなかった。
「シャーロットに支えられていたことを認める。見なかったことを認める。失ったことを認める。その上で、二度と同じことをしないクランに作り直す」
ノアは一歩前へ出た。
「これは罰ではない」
少し間を置く。
「いや、罰でもある。だが、それだけではない。再出発だ」
中庭の空気が、重く、静かになる。
「銀翼の剣は、Bランククランとしてやり直す。強い者だけが目立つクランではなく、誰かが死なないように全員で見るクランへ戻す」
ノアは深く息を吸った。
「残る者は、俺と一緒に泥をかぶれ」
その言葉に、古参の一人が前へ出た。
かつてシャーロットの支援を知りながら、止められなかった男だった。
「残ります」
彼は深く頭を下げた。
「今さらですが、やり直したいです」
次に、別の古参が出る。
「俺も残る。新人を見ます」
Dランク部隊の若い冒険者が、震える声で言った。
「俺も……残ります。正直、怖いです。でも、このままじゃ嫌です」
医務室の責任者も前へ出た。
「医務室も立て直します。ソフィアは送り出します。その上で、残る者でやります」
一人、また一人。
全員ではない。
中には顔を伏せたまま動かない者もいる。明らかに迷っている者もいる。すでに退団を考えている者もいるだろう。
それでよかった。
無理に全員を残す必要はない。
銀翼は、看板ではなく意思で残る者を必要としていた。
その日の午後、ノアはギルド本部へ向かった。
同行したのは団長代行、医務室責任者、古参二名。派手な護衛も、Sランク時代のような大仰な一団もない。
ギルドの受付は、ノアを見るとすぐに奥へ案内した。
ギルド長は、すでに話を聞いていたらしい。
「本当に申請するのか」
「ああ」
ノアは書類を差し出した。
「銀翼の剣は、Aランク維持を望まない。Bランクからの再スタートを申請する」
ギルド長は、しばらく書類を見ていた。
「普通は、降格処分でAに落ちた時点で必死にしがみつくものだ」
「それでは変われない」
「Bになれば、受けられる依頼は減る。収入も落ちる。団員も離れる」
「分かっている」
「それでもか」
「それでもだ」
ノアは迷わなかった。
「シャーロットが来た頃、銀翼はBランクだった。そこからAへ、Sへと上がった。だが、その道の途中で、俺達は人を見ることを忘れた。なら、見失う前の場所まで戻る」
ギルド長は、深く息を吐いた。
「……重い申請だな」
「ああ」
「だが、逃げではない」
ノアは静かに頷いた。
「逃げるなら、Aの看板にしがみつく」
ギルド長はその言葉を聞き、しばらく黙っていた。
やがて、書類に判を押した。
「ギルドとして、銀翼の剣のBランク再登録申請を受理する。正式承認は審査部を通すが、内容に問題はないだろう」
「感謝する」
「感謝されることじゃない」
ギルド長は、ノアをまっすぐ見た。
「これは、銀翼にとって痛い道だ」
「ああ」
「だが、痛みを避けてきた結果が今なら、通るしかないな」
ノアは静かに頭を下げた。
数日後、王都のギルド掲示板に新たな告示が張り出された。
『Aランククラン銀翼の剣、クラン側申請によりBランクへ再登録』
『内部再建および教育体制再構築のため、Bランクから再出発』
冒険者達は足を止めた。
「銀翼、Bまで落ちたのか」
「いや、自分から申請したらしいぞ」
「SからAに落ちて、さらにBへ?」
「プライド捨てたな」
「それ、本気でやり直すってことじゃないか?」
「シャーロットがいた頃のランクに戻るって話もある」
「……皮肉だけど、少し見直したかもしれない」
噂は広がった。
嘲笑もあった。
同情もあった。
驚きもあった。
だが、その中には以前とは少し違う響きも混じっていた。
その日の夕方、銀翼の剣本部では白銀の旗が降ろされた。
誰も歓声を上げない。
誰も拍手をしない。
ただ、団員達は静かに見上げていた。
代わりに掲げられたのは、古い旗だった。
灰色がかった布に、不器用な剣と翼が描かれた、かつての銀翼の旗。
Bランクだった頃、ノアが自分で描いた旗だ。
新品ではない。
美しくもない。
だが、そこには始まりがあった。
中庭に集まった残留団員達は、その旗を見上げていた。
ノアは彼らの前に立つ。
「ここからだ」
誰も大きな声は上げなかった。
誇らしい式典ではない。
明るい再出発でもない。
それでも、残った者達は逃げずにその言葉を聞いていた。
「銀翼の剣は、Bランクからやり直す」
ノアは言った。
「二度と、見えない支えを踏み潰さないために」
風が吹く。
古い旗が揺れる。
白銀ではない、不格好な剣と翼。
それを見上げながら、残った団員達は、自分達がもう一度どこから歩き出すのかを知った。




