第4節 戻ってきてくれ
銀翼の剣がAランクへ降格したという知らせは、その日のうちに獅子の咆哮にも届いていた。
食堂では、団員達が小声でその話をしている。かつてSランクだった銀翼の剣が、Aランクへ落ちた。黒龍戦で獅子の咆哮がSランクへ上がった直後のことだったため、王都中で噂にならないはずがない。
「銀翼、本当に落ちたんだな」
「ギルドの告示に出てた」
「星纏いの魔女をE評価で切った件、やっぱり響いてるんじゃないか?」
「それだけじゃないだろ。事故が増えてるって聞いたぞ」
「ソフィアさんも移籍手続き中だしな」
その名前が出ると、少しだけ空気が変わった。
ソフィアの移籍手続きは進んでいる。まだ正式に獅子の咆哮所属になったわけではないが、ギルド立ち会いの自由意思確認は済み、銀翼側への通知も行われた。引き継ぎ期間が終われば、受け入れ審査を経て、獅子の咆哮へ移る流れになる。
シャーロットは、その話を食堂の端で静かに聞いていた。
星衣リゲルを軽く羽織り、手元には温かい薬草茶がある。今日は訓練の後で、ソフィア向けの「負傷者が出る前の兆候」について、アメリアとレオンが整理していたところだった。
まだまだ、うまく言葉にできないことは多い。
けれど、少しずつ形になり始めている。
銀翼の降格については、胸が痛まないわけではなかった。
十年いた場所だ。
ひどい扱いを受けた。評価されなかった。最後はE評価で退団した。それでも、あの場所には知っている人がいる。助けた新人も、支えた低ランク部隊も、声をかけてくれた古参もいる。
だから、落ちたと聞いて、ただ喜ぶことはできなかった。
「シャーロット」
アメリアが食堂へ入ってきた。
表情は少し硬い。
「少し時間をもらえる?」
「はい」
シャーロットは薬草茶を置き、立ち上がる。
隣にいたガルドも、すぐに顔を上げた。
「銀翼か」
アメリアは頷いた。
「ええ。ギルドを通して、面会申請が来たわ」
食堂の空気が静まる。
シャーロットは一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「誰からですか?」
「ノア。銀翼の創設者よ」
ガルドの目が細くなる。
「直接か」
「ギルドを通して正式に。無理な接触ではないわ。内容は、謝罪と、今後についての相談。アクセルとレオンは、会うかどうかはあなたに任せると言っている」
「私に……」
「ええ。ただし、会うならこちらからも同席者を出す。私、ガルド、レオン。必要ならアクセルも」
ガルドが即答する。
「俺は行く」
「でしょうね」
アメリアは苦笑した。
シャーロットは少しだけ考えた。
銀翼と会う。
胸の奥が、静かに揺れる。
怖い、とは少し違う。怒りとも違う。何を言われるのか分からない不安と、もう終わったことのはずなのにまだ繋がっているような感覚。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
「会います」
シャーロットは言った。
「ただ、戻るためではありません。お話を聞くために」
アメリアは頷いた。
「それで十分よ」
数日後、冒険者ギルドの応接室で、面会は行われた。
獅子の咆哮側からは、シャーロット、アメリア、ガルド、レオン。銀翼側からは、ノアと団長代行、そして記録係が一人。ギルド職員も立ち会っている。
場所がギルドになったのは、双方のためだった。
銀翼の本部では、シャーロットにとって負担が大きい。獅子の咆哮の本部では、銀翼側が過度に萎縮する可能性がある。中立の場所で、記録を残して話す。それがレオンとギルドの判断だった。
ノアは、シャーロットが入ってきた瞬間に立ち上がった。
灰色の髪を後ろで束ねた、背の高い男だった。左足に少し古傷をかばうような癖がある。けれど、姿勢はまっすぐで、目は鋭い。
シャーロットは彼を見て、懐かしさに似たものを覚えた。
十年前。
銀翼に入ったばかりの頃、面接してくれた人。
「攻撃魔法使いとして、うちに来てくれ」と言ってくれた人。
いつの間にか、現場で会わなくなった人。
「シャーロット」
ノアは、かつてのように呼びかけかけて、すぐに言い直した。
「シャーロット殿」
その呼び方に、シャーロットは少しだけ瞬いた。
「お久しぶりです、ノアさん」
「……ああ」
ノアの顔が、わずかに歪んだ。
昔と同じように呼ばれたことが、胸に刺さったのかもしれない。
全員が席につく。
ギルド職員が、記録を始めることを告げた。
最初に口を開いたのは、ノアだった。
「まず、謝罪させてほしい」
シャーロットは静かに彼を見る。
ノアは深く頭を下げた。
「銀翼の剣は、あなたを正しく見なかった。あなたが十年間、銀翼の現場で何をしていたのかを測れず、評価できず、支えもしなかった。装備、待遇、部屋、給与、すべてにおいて、十年働いた仲間に対する扱いではなかった」
団長代行も頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
応接室は静かだった。
ガルドは腕を組んだまま、厳しい顔で見ている。アメリアはシャーロットの横で、彼女の反応を見守っていた。レオンは記録に目を通しながら、銀翼側の言葉を一つも逃さない。
シャーロットは、すぐには返事をしなかった。
謝罪。
ほしいと思ったことがあるのか、自分でも分からなかった。
銀翼を出た時、怒るより先に、終わったのだと思った。古い装備を受け取り、頭を下げた。自分の価値が足りなかったのだと思った。
あの時は、誰かに謝ってほしいと考える余裕さえなかった。
だから今、謝られても、胸がうまく動かない。
「……顔を上げてください」
シャーロットは静かに言った。
ノアが顔を上げる。
「謝罪は、受け取ります」
団長代行が息を呑んだ。
ノアは何も言わず、ただ彼女を見ていた。
シャーロットは続ける。
「でも、私もまだ、どう受け止めればいいのか分かりません。銀翼で過ごした十年は、全部が嫌だったわけではありません。助けたい人もいました。仲間だと思っていた人もいました。けれど、苦しかったことも、本当にありました」
声は穏やかだった。
それがかえって、銀翼側には重かった。
「だから、今すぐ全部を許しますとは言えません。でも、謝っていただいたことは、受け取ります」
「……ありがとう」
ノアは、かすれた声で言った。
そこで話が終わればよかったのかもしれない。
だが、銀翼がここへ来た理由は、謝罪だけではなかった。
ノアは一度目を伏せ、覚悟を決めるように息を吸った。
「その上で、厚かましい願いだと分かっている」
ガルドの視線が鋭くなる。
アメリアも、表情を引き締めた。
ノアは続けた。
「銀翼へ、戻ってきてほしい」
応接室の空気が止まった。
シャーロットは、瞬きもせずにノアを見た。
団長代行が書類を差し出す。
「条件は、以前とはまったく違います。給与は幹部級以上。役職も、低ランク帯支援および戦場安定化部門の責任者として迎えます。専用装備の作成費用は銀翼が全額負担します。居室も幹部区画に用意します。研究環境、装備点検、医務支援、すべて整えます」
言葉が並んでいく。
高給。
幹部待遇。
専用装備。
良い部屋。
研究環境。
支援体制。
それは、かつてシャーロットが銀翼で持っていなかったものばかりだった。
そして今、獅子の咆哮で既に持っているものばかりだった。
ガルドが低く言う。
「今さらだな」
団長代行の肩が揺れる。
ノアは否定しなかった。
「ああ。今さらだ」
彼はシャーロットを見た。
「十年前から、いや、少なくとももっと早く、銀翼が用意すべきだったものだ。今さら提示して許されるとは思っていない」
「なら、なぜ言う」
ガルドの声には怒りがあった。
「戻ってくる可能性に縋っているだけなら、見苦しいぞ」
「それもある」
ノアは、逃げなかった。
「銀翼は今、崩れている。低ランク帯も、医務室も、遠征も、外部信用も。シャーロット殿が戻れば、立て直しは早くなるだろう。それを期待していないと言えば嘘になる」
「ノア」
アメリアの声が少し冷えた。
ノアは頷いた。
「分かっている。だからこそ、卑怯だとも思っている。壊してから、戻ってきて直してくれと言っているのだからな」
その言葉に、応接室は静まった。
ノアは、さらに深く頭を下げた。
「それでも、頼ませてほしい。銀翼へ戻ってきてくれ」
長い沈黙があった。
シャーロットは、机の上に置かれた条件書を見た。
銀翼にいた頃なら、信じられないような内容だった。
幹部級の給与。専用装備。良い部屋。研究机。装備点検。医務支援。低ランク帯支援の正式な評価。
これがあれば、もっと楽だったかもしれない。
もっと早く認められていれば、あの十年は違ったものになっていたかもしれない。
でも。
「ノアさん」
シャーロットは静かに口を開いた。
「はい」
「ありがとうございます。私のことを、もう一度必要だと思ってくださったことは、受け止めます」
ノアは顔を上げた。
シャーロットは、ゆっくりと言った。
「でも、私は銀翼には戻りません」
団長代行が息を呑む。
ノアは目を閉じた。
分かっていた。
それでも、実際に聞くと胸に沈む。
シャーロットは続けた。
「今の私には、獅子の咆哮でやることがあります。新人さん達に教えることも、低ランク帯の支援も、ソフィアさんと一緒に戦場の見方を整理することもあります。アメリアさんやレオンさんと、私のしていたことを言葉にしていく仕事もあります」
彼女の声は、少しずつまっすぐになっていく。
「それに、私はもう、ここで必要とされています」
ここで、という言葉に、ガルドの表情が少しだけ緩んだ。
アメリアも静かに頷く。
「装備もあります。部屋もあります。休めと言ってくれる人もいます。無理をしたら叱ってくれる人もいます。私が何をしているのか、見ようとしてくれる人達がいます」
ノアは何も言えなかった。
銀翼が与えなかったもの。
銀翼が見なかったもの。
それを、獅子の咆哮はもう与えている。
「私は、今の場所でやることがあります」
シャーロットは、はっきりと言った。
「だから、戻れません」
その言葉に、応接室の空気が静かに沈んだ。
拒絶ではない。
怒りでもない。
ただ、揺るがない返事だった。
それが、銀翼側には何より重かった。
ノアは深く頭を下げた。
「……分かった」
声はかすれていた。
「厚かましい願いだった。答えてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、きちんと話してくださって、ありがとうございます」
シャーロットは丁寧に頭を下げた。
その姿を見て、団長代行の顔が歪んだ。
最後まで、彼女は礼を言う。
銀翼を出る時もそうだった。
戻ってきてくれという厚かましい願いを断る時でさえ、そうだった。
それが、余計に痛かった。
ノアはもう一度、姿勢を正した。
「シャーロット殿。銀翼はこれから、あなたにしたことを調べ直す。評価制度も、待遇も、低ランク帯の支援も見直す。遅すぎることは分かっているが、それでもやる」
「はい」
「ソフィアの件も、契約に沿って進める。不当な引き止めはしない」
シャーロットの表情が少しだけ和らいだ。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
ノアは首を横に振った。
「本来、当然のことだ」
ギルド職員が、面会記録をまとめる。
銀翼の謝罪。
再雇用の申し出。
シャーロットの辞退。
ソフィア移籍への不当圧力を行わない方針。
すべてが記録された。
面会が終わり、ノア達が立ち上がる。
去り際、ノアは一度だけ振り返った。
「シャーロット」
今度は、殿をつけなかった。
昔のような呼び方だった。
シャーロットは顔を上げる。
ノアは少しだけ苦しそうに微笑んだ。
「生きていてくれて、よかった」
その言葉に、シャーロットの目がわずかに揺れた。
ノアはそれ以上何も言わず、頭を下げて部屋を出ていった。
銀翼側の足音が遠ざかる。
応接室に残ったシャーロットは、しばらく黙っていた。
ガルドが隣に立つ。
「大丈夫か」
「はい」
シャーロットは小さく頷いた。
「少し、胸が痛いです。でも、大丈夫です」
アメリアがそっと言う。
「よく断ったわね」
「はい。ちゃんと、今の場所を選べました」
その言葉に、アメリアは柔らかく笑った。
レオンが記録を閉じる。
「面会記録としても問題ありません。銀翼側の謝罪、再雇用提案、辞退、いずれも明確です」
ガルドが鼻を鳴らす。
「高給だの部屋だの装備だの、遅すぎるんだよ」
「でも、ノアさんは分かっていました」
シャーロットは静かに言った。
「あれが遅すぎることも、私が戻らないことも。分かった上で、謝りに来てくれたんだと思います」
「甘いな」
「そうかもしれません」
シャーロットは少しだけ笑った。
「でも、私はもう銀翼には戻りません。それだけは、ちゃんと言えました」
ガルドは彼女を見て、少しだけ口元を緩めた。
「ならいい」
その日の夕方、銀翼の剣へ戻ったノアと団長代行は、執務室でしばらく黙っていた。
面会の結果は、二人とも分かっている。
ギルドの応接室で、シャーロットははっきりと答えた。
銀翼には戻らない、と。
「……断られたな」
ノアが静かに言った。
団長代行は目を閉じた。
「はい」
「当然だ」
ノアは言った。
「戻る理由がない」
その一言に、団長代行は深く項垂れた。
ノアは机の上に面会記録の写しを置く。
「銀翼は、今さら差し出せるものを並べた。給与、役職、部屋、装備、研究環境。だが、それは獅子の咆哮がすでに与えているものだった」
団長代行は何も言えない。
ノアは続けた。
「しかも、あちらは条件としてではなく、仲間として与えている」
その言葉は、執務室の空気を重くした。
銀翼が提示したものは、どれも遅すぎた。
幹部級の給与も、専用装備も、良い部屋も、研究机も、医務支援も、低ランク帯支援を正式に評価する役職も。
十年の間に、一つでも差し出していれば、何かが変わっていたかもしれない。
だが、差し出さなかった。
必要だと気づかなかった。
彼女がいなくなり、クランの土台が崩れ始めてから、ようやく慌てて並べただけだった。
「……戻ってきてくださる可能性は、最初から低いと思っていました」
団長代行が、かすれた声で言った。
「それでも、どこかで期待していました。条件を整えれば、謝罪すれば、もしかしたら、と」
「俺もだ」
ノアは否定しなかった。
「分かっていても、縋った。銀翼を立て直す一番早い道は、シャーロットに戻ってきてもらうことだったからな」
「……はい」
「だが、それは俺達の都合だ」
ノアは窓の外を見る。
王都の空は、夕焼けに染まっていた。
「シャーロットは戻らない」
静かな声だった。
「そして、それでいい」
団長代行が顔を上げる。
ノアは続けた。
「戻ってきてもらうことで銀翼を立て直す道は、消えた。なら、自分達でやり直すしかない」
「低ランク帯の支援制度、評価表、装備管理、医務室との連携……すべて見直します」
団長代行は、ゆっくりと頷いた。
「ソフィアの移籍にも、不当な圧力はかけません」
「当然だ」
ノアは机の上の面会記録に目を落とした。
そこには、銀翼の謝罪、再雇用の申し出、シャーロットの辞退、ソフィア移籍への不当な引き止めを行わない方針が記されている。
どれも、今さらの言葉だった。
だが、今さらでも始めるしかない。
銀翼の剣は、もうシャーロットに頼れない。
失ったものは戻らない。
だからこそ、本当の再出発はここからだった。




