表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/93

第3節 ちゃんとした支度

翌朝、シャーロットはいつもより遅く目を覚ました。


それでも、銀翼にいた頃の癖で、すぐに体を起こそうとする。任務の確認をしなければならない。訓練場へ行かなければならない。誰かに呼ばれているかもしれない。


上半身を起こした瞬間、柔らかい毛布が肩から落ちた。


「あ……」


そこでようやく思い出す。


ここは銀翼の寮ではない。昨日案内された、獅子の咆哮の候補者用の部屋だ。


ベッドは軋まなかった。窓から入る朝の光は明るく、湿った匂いもしない。枕は形を保っていて、毛布は薄くない。


シャーロットはしばらく毛布の端を握ったまま、動けなかった。


それから、机の端を見た。


昨日受け取った鍵が、そこにある。


「……ちゃんと、ある」


小さく息を吐いてから、慌ててベッドを出る。


「寝坊、していませんよね」


鞄から櫛を取り出す。


いつもの安い櫛だ。歯が少し欠けているが、まだ使える。髪を梳かし、毛先の絡まりを指でほどく。昨日まで使っていた髪紐を手に取ったところで、扉が控えめに叩かれた。


「シャーロット、起きている?」


アメリアの声だった。


「は、はい! 少しだけ待ってください」


シャーロットは急いで髪を結び、簡素な服の上から昨日の古いローブを羽織った。


扉を開けると、アメリアが立っていた。昨日と同じく整った服装だが、今日は外出用の短いマントを羽織っている。その後ろにはガルドもいた。


「おはよう。眠れた?」


「はい。とても……あの、ベッドが柔らかくて、少し驚きました」


「驚くところじゃないわね」


アメリアは静かに言い、シャーロットの姿を上から下まで見た。


古いローブ。安い髪紐。丁寧に整えられているが、乾いた毛先。顔色は悪くない。けれど、身に着けているものは少なすぎる。


「朝食は?」


「まだです。でも、後で何か買いますので」


「食堂へ行くわよ」


「いえ、私はまだ正式な団員ではありませんし」


「候補者として部屋を使っている時点で、食事も使えるわ」


「でも、お金が……」


アメリアは少しだけ眉を寄せた。


「食べずに動く方が困るわ」


シャーロットはすぐに返事ができなかった。


ガルドが横で腕を組む。


「腹が減ってる奴に試験なんか受けさせられるか」


「そういうこと」


「で、でも」


「でもは後。朝食を食べたら外へ出るわ」


「外、ですか?」


「日用品を買いに行くの」


シャーロットは自分の鞄を振り返った。


櫛、髪紐、タオル、裁縫道具、少しの軟膏。多くはないが、どれもまだ使える。


「大丈夫です。まだ使えますので」


「使えることと、足りていることは違うわ」


アメリアの声は穏やかだったが、引く気はなさそうだった。


食堂で温かいスープと焼きたてのパンを出された時、シャーロットは器の前で手を止めた。


「本当に、いいんですか」


「いいの」


「あとで、請求されたりしませんか」


アメリアが一瞬黙った。


ガルドもパンに伸ばしかけた手を止める。


シャーロットは慌てて首を振った。


「あ、すみません。変な意味ではなくて……その、慣れていなくて」


「請求しないわ」


アメリアは短く答え、スープの器を少しだけシャーロットの方へ寄せた。


「温かいうちに食べなさい」


「はい」


シャーロットは両手で器を持ち、ゆっくりスープを飲んだ。


温かい。


具も入っている。


喉を通った後、体の奥が少し緩んだ。シャーロットは器を持ったまま、しばらく目を伏せる。


「パンも食え」


ガルドが皿を少し押した。


「はい。……ありがとうございます」


今度は、謝らなかった。


朝食後、三人は王都の商店街へ出た。


外へ出る前、シャーロットは鞄の中から古いウィッチハットを取り出して被った。癖のついたつばが、視界の端で少し揺れる。


アメリアはそれを見たが、何も言わなかった。


「まず服ね」


「服ですか?」


「ええ。普段着、下着、靴下、寝間着。あと髪紐と手入れ用品。タオルも増やすわ」


「そんなにたくさんは……」


「必要よ」


アメリアは即答した。


最初に入った店で、シャーロットは布地の多さに目を丸くした。


冒険者向けの丈夫な下着、吸水の良いタオル、洗いやすい普段着、動きやすい靴下。高級品ではない。けれど、銀翼で最低限のものだけを買い替えてきた彼女には、十分すぎるほどに見えた。


「この辺でいいかしら。色は落ち着いたものが好き?」


「はい。でも、あの、一番安いもので」


「安さだけで選ばない」


「でも、私そんなにお金が……」


アメリアは買い物籠を置き、シャーロットの正面に立った。


「今日から必要になる支度よ。遠慮だけで選ばないで」


シャーロットは口を閉じた。


「あなたが今までどうしていたかは、昨日の部屋と荷物を見ればだいたい分かるわ。だけど、獅子の咆哮で同じことはさせない。服が足りないまま任務に出るのも、壊れかけの道具を我慢して使うのも、うちでは認めない」


「……私、そんなに変でしたか?」


「変なのはあなたじゃないわ」


アメリアははっきりと言った。


「足りないまま慣れさせた方よ」


シャーロットの指が、古いローブの袖口を握った。


ガルドは少し離れた場所で、店の壁にもたれていた。買い物に口を挟む気はないらしい。だが、シャーロットがまた「すみません」と言いかけた時だけ、短く言った。


「謝るな」


「はい……」


アメリアは必要なものを一つずつ選んだ。


動きやすい普段着。清潔な下着。柔らかいタオル。しっかりした櫛。髪用の油。新しい裁縫道具。傷薬と手入れ用の軟膏。


髪紐の並んだ棚の前で、アメリアが足を止める。


「これは自分で選びなさい」


「私が、ですか?」


「ええ。毎日使うものだから」


シャーロットは棚を見た。


赤、茶、紺、灰色、淡い青。どれも派手すぎない。けれど、昨日まで使っていた色あせた髪紐とは違う。


指先が、淡い青灰色の髪紐の前で止まった。


「……これでも、いいですか」


「好きなの?」


シャーロットは少し迷ってから、小さく頷いた。


「はい。これ、好きです」


アメリアはその髪紐を籠に入れた。


「じゃあ、それにしましょう」


シャーロットは籠の中の髪紐を見つめた。


自分で選んだものが、そこにある。


買い物が終わったと思ったところで、アメリアは別の通りへ向かった。


「次は髪ね」


「髪、ですか?」


「ええ。整えましょう」


「でも、毎朝梳かしています」


「それは分かるわ。あなたは雑にしていない。でも、手入れに使うものが足りていないの」


シャーロットは自分の毛先をつまんだ。


乾いて、少し不揃いになっている。気付いていなかったわけではない。ただ、切りに行く余裕も、手入れ用品を買う余裕もなかった。


連れていかれたのは、冒険者も利用する髪結いの店だった。華美な貴族向けではなく、動きやすく清潔に整えることを得意とする店らしい。


店員はアメリアを見ると、慣れた様子で迎えた。


「今日は彼女をお願い。毛先を整えて、手入れしやすい形にしてあげて」


「承知しました」


椅子に座らされたシャーロットは、鏡の中の自分と目が合った。


古いローブ。癖のついたウィッチハット。乾いた毛先。安い髪紐。


昨日まで普通だと思っていた姿が、明るい店の鏡の中では少しだけ違って見えた。


「痛んでいるところだけ落としますね。長さは大きく変えません」


「はい。お願いします」


鋏が入る。


しゃき、しゃき、と軽い音がする。毛先が少しずつ落ちていく。髪に油をなじませ、櫛を通されると、絡まりがほどけ、指通りが変わっていくのが分かった。


「綺麗な髪ですね。ちゃんと手入れすれば、もっと艶が出ますよ」


「そう、ですか?」


「ええ。今まで頑張って整えていたんですね」


シャーロットは鏡の中で瞬きをした。


返事をしようとしたが、声が出なかった。代わりに膝の上で、両手をぎゅっと握る。


仕上がった髪は、大きく変わったわけではない。


けれど毛先が揃い、さっき選んだ青灰色の髪紐で結ばれると、顔まわりが少し明るく見えた。


鏡の中の自分を見て、シャーロットは戸惑ったように瞬きをする。


「……私じゃないみたいです」


「あなたよ」


アメリアは微笑んだ。


「ちゃんと整えたら、こうなるの」


シャーロットは鏡の中の自分をもう一度見た。


「これなら……明日、少し顔を上げられそうです」


小さな声だった。


アメリアは何も言わず、鏡越しに頷いた。


店を出る頃には、昼近くになっていた。


買った荷物は、ガルドが半分以上持っていた。本人は何も言わず、当然のように袋を担いでいる。


「ガルドさん、重くないですか?」


「この程度で重いわけないだろ」


「すみません」


「謝るなって言った」


「はい。すみ……あ、いえ」


シャーロットが慌てて口を閉じると、ガルドは少しだけ笑った。


アメリアも小さく息を吐く。


「少しずつでいいわ。謝らなくていい場面を覚えていきましょう」


「はい」


シャーロットは頷いた。


本部へ戻る道すがら、アメリアが言った。


「午後は少し休んで。明日、幹部候補試験の説明をするわ」


「はい。頑張ります」


「頑張りすぎないことも覚えなさい」


「……はい」


その返事に、ガルドが横からぼそりと言う。


「無理だな」


「ガルドさん?」


「お前は昔から、頑張りすぎてる自覚がない」


「そんなことは……」


「ある」


即答だった。


シャーロットは困ったように笑った。


その笑顔は昨日より少しだけ柔らかい。


新しい髪紐に、そっと指で触れる。結び目は滑らかで、指に引っかからなかった。


「午後は寝ろ」


ガルドが荷物を担ぎ直しながら言った。


「少しだけ、荷物を整理してからでも」


「寝ろ」


「……はい」


シャーロットは小さく頷いた。


アメリアは先を歩きながら、店で受け取った小さな包みを一つ、シャーロットの手に持たせた。


「替えも入っているわ」


「これも、ですか?」


「毎日同じものを使わなくていいの」


シャーロットは包みを両手で持った。


軽い包みだった。


「……ありがとうございます」


今度は、最初からその言葉が出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
AI生成の小説に共通して言えるが、主人公の性格が不自然。情景描写ばっかりで本人が考えていることが見えない。思考のプロセスや感情の動機付けが見たいのではなく、その時主人公がどう感じてるのかを読みたい。 …
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ