第3節 日用品と髪
翌朝、シャーロットはいつもより遅く目を覚ました。
それでも、銀翼にいた頃の癖で、すぐに体を起こそうとする。任務の確認をしなければならない。訓練場へ行かなければならない。誰かに呼ばれているかもしれない。そう思って上半身を起こした瞬間、柔らかい毛布が肩から落ちた。
「あ……」
そこでようやく思い出す。ここは銀翼の寮ではない。昨日案内された、獅子の咆哮の候補生用の部屋だ。
ベッドは軋まなかった。窓から入る朝の光は明るく、湿った匂いもしない。枕はまだ形を保っていて、毛布は薄くない。たったそれだけのことに、シャーロットはしばらく動けなくなった。
「……寝坊、していませんよね」
慌てて起き上がり、鞄から櫛を出す。いつもの安い櫛だ。歯が少し欠けているが、まだ使える。髪を梳かし、毛先の絡まりを指でほどき、昨日まで使っていた髪紐で結ぼうとした時、扉が控えめに叩かれた。
「シャーロット、起きている?」
アメリアの声だった。
「は、はい!」
慌てて返事をして扉を開けると、アメリアが立っていた。昨日と同じく整った服装だが、今日は外出用の短いマントを羽織っている。その後ろにはガルドもいた。
「おはよう。眠れた?」
「はい。とても……あの、ベッドが柔らかくて、少し驚きました」
「驚くところじゃないわね」
アメリアは静かに言い、シャーロットの姿を上から下まで見た。古いローブ。昨日の餞別の帽子。安い髪紐。丁寧に整えられているが乾いた毛先。顔色は悪くない。だが、身に着けているものはやはり最低限だった。
「朝食は?」
「まだです。でも、後で何か買いますので」
「食堂へ行くわよ」
「いえ、私はまだ正式な団員ではありませんし」
「候補生として部屋を使っている時点で、食事も使えるわ」
「でも、お金が……」
アメリアは少しだけ眉を寄せた。
「昨日も言ったけれど、まずその考え方から直しましょう。ここで必要な食事を取るのは贅沢じゃないの。動く人間を食べさせて休ませるのは、クランの安全管理よ」
シャーロットはすぐに返事ができなかった。ガルドが横で腕を組み、低く言う。
「腹が減ってる奴に新人の護衛なんか任せられるか」
「そういうこと」
「で、でも」
「でもは後。朝食を食べたら外へ出るわ」
「外、ですか?」
「日用品を買いに行くの」
シャーロットは自分の鞄を振り返った。櫛、髪紐、タオル、裁縫道具、少しの軟膏。必要最低限のものはある。
「大丈夫です。まだ使えますので」
「使えることと、足りていることは違うわ」
アメリアの声は優しかったが、引く気はまったくなかった。
食堂で温かいスープと焼きたてのパンを出された時も、シャーロットは何度も「本当にいいんですか」と確認した。そのたびにアメリアは「いいの」と答え、ガルドは「食え」とだけ言った。結局、シャーロットは両手で器を持ち、ゆっくりスープを飲んだ。温かい。薄くない。具がある。体の内側からほどけるような感覚に、彼女はまた少し目を伏せた。
朝食後、三人は王都の商店街へ出た。
「まず服ね」
「服ですか?」
「ええ。普段着、下着、靴下、寝間着、予備のローブの下に着るもの。あと髪紐と手入れ用品。タオルも増やすわ」
「そんなにたくさんは……」
「必要よ」
アメリアは即答した。
最初に入った店で、シャーロットは布地の多さに目を丸くした。冒険者向けの丈夫な下着、吸水の良いタオル、洗いやすい普段着、動きやすい靴下。どれも高級品ではない。だが、銀翼で最低限のものだけを買い替えてきた彼女には、十分すぎるほどだった。
「この辺でいいかしら。色は落ち着いたものが好き?」
「はい。でも、あの、一番安いもので」
「安さだけで選ばない」
「でも、私そんなにお金が……」
アメリアはそこで買い物籠を置き、シャーロットの正面に立った。
「遠慮しなくていいの。これは贅沢じゃなくて、今日から必要になる普通の支度よ」
シャーロットは言葉を失った。
「あなたが今までどうしていたかは、昨日の部屋と荷物を見ればだいたい分かるわ。だけど、獅子の咆哮で同じことはさせない。服が足りないまま任務に出るのも、髪や肌を痛めたまま放っておくのも、壊れかけの道具を我慢して使うのも、うちでは普通じゃない」
「……私、そんなに変でしたか?」
「変なのはあなたじゃないわ」
アメリアははっきりと言った。
「足りない状態に慣れさせた環境の方よ」
その言葉は強かった。責めているのではない。けれど、シャーロットが自分でも見ないようにしていたものを、まっすぐ照らす言葉だった。
ガルドは少し離れた場所で、店の壁にもたれていた。女子の買い物に口を挟む気はない。だが、アメリアの言葉には静かに頷いた。シャーロットがまた「すみません」と言いかけた時だけ、短く言う。
「謝るな」
「はい……」
結局、アメリアは必要なものを次々と選んだ。動きやすい普段着を数組。清潔な下着。柔らかいタオル。しっかりした櫛。髪用の油。安すぎない髪紐。小さな裁縫道具の買い替え。傷薬と手入れ用の軟膏。
シャーロットは何度も遠慮したが、そのたびにアメリアに止められた。
買い物が終わったと思ったところで、アメリアは別の通りへ向かった。
「次は髪ね」
「髪、ですか?」
「ええ。整えましょう」
「でも、毎朝梳かしています」
「それは分かるわ。あなたは雑にしていない。むしろ、かなり丁寧に整えている。でも、手入れに使うものが足りていないの」
シャーロットは自分の毛先をつまんだ。乾いて、少し不揃いになっている。自分でも気付いていなかったわけではない。ただ、切りに行く余裕も、手入れ用品を買う余裕もなかった。
連れていかれたのは、冒険者も利用する髪結いの店だった。華美な貴族向けではなく、動きやすく清潔に整えることを得意とする店らしい。店員はアメリアを見ると慣れた様子で迎えた。
「今日はこの子をお願い。毛先を整えて、手入れしやすい形にしてあげて」
「承知しました」
椅子に座らされたシャーロットは、鏡の中の自分と目が合った。古いローブと歪んだ帽子。乾いた毛先。安い髪紐。昨日まで普通だと思っていた姿が、明るい店の鏡の中では少しだけ違って見えた。
「痛んでいるところだけ落としますね。長さは大きく変えません」
「はい。お願いします」
鋏が入る。しゃき、しゃき、と軽い音がする。毛先が少しずつ落ちていく。髪に油をなじませ、櫛を通されると、絡まりがほどけ、指通りが変わっていくのが分かった。
「綺麗な髪ですね。ちゃんと手入れすれば、もっと艶が出ますよ」
「そう、ですか?」
「ええ。今まで頑張って整えていたんですね」
その何気ない言葉に、シャーロットはまた泣きそうになった。
雑だったわけではない。怠けていたわけではない。できる範囲で、ずっと整えていた。それを初めて誰かに分かってもらった気がした。
仕上がった髪は、大きく変わったわけではない。けれど毛先が揃い、安い紐ではなく落ち着いた色の髪紐で結ばれると、印象が少し明るくなった。鏡の中の自分を見て、シャーロットは戸惑ったように瞬きをした。
「……私じゃないみたいです」
「あなたよ」
アメリアは微笑んだ。
「今まで隠れていただけ」
店を出る頃には、昼近くになっていた。買った荷物はガルドが半分以上持っていた。本人は何も言わず、当然のように袋を担いでいる。
「ガルドさん、重くないですか?」
「この程度で重いわけないだろ」
「すみません」
「謝るなって言った」
「はい。すみ……あ、いえ」
シャーロットが慌てて口を閉じると、ガルドは少しだけ笑った。アメリアも小さく息を吐く。
「少しずつでいいわ。謝らなくていい場面を覚えていきましょう」
「はい」
シャーロットは頷いた。まだ全部は分からない。自分がどれだけ遠慮していたのかも、どれだけ我慢していたのかも、すぐには分からない。
けれど、少しだけ分かったことがある。
獅子の咆哮では、普通に食べていい。普通に眠っていい。壊れたものを壊れたと言っていい。足りないものを足りないと言っていい。
それは、シャーロットにとって新しい常識だった。
本部へ戻る道すがら、アメリアが言った。
「午後は少し休んで。明日、幹部候補試験の説明をするわ」
「はい。頑張ります」
「頑張りすぎないことも覚えなさい」
「……はい」
その返事に、ガルドが横からぼそりと言う。
「無理だな」
「ガルドさん?」
「お前は昔から、頑張りすぎてる自覚がない」
「そんなことは……」
「ある」
即答だった。
シャーロットは困ったように笑った。その笑顔は昨日と同じように明るかったが、少しだけ柔らかくなっていた。
アメリアはそれを見て、静かに思う。
この子はきっと、すぐには変われない。十年かけて染みついた遠慮や我慢は、一日で抜けるものではない。
けれど、それでいい。
まずは眠れる部屋を。次に温かい食事を。必要な服を。整えられた髪を。そして、自分が大切に扱われていいのだという感覚を。
一つずつ、取り戻していけばいい。
シャーロットは買ったばかりの髪紐にそっと触れ、小さく笑った。
その笑顔を見て、ガルドはまた静かに怒りを飲み込んだ。
銀翼の剣は、この程度の普通すら与えてこなかったのか、と。




