第2節 候補生用の部屋
アメリアに案内され、シャーロットは獅子の咆哮の寮棟へ向かった。
ガルドも当然のようについてくる。アクセルとレオンは執務室に残り、彼女の扱いについて改めて書類を確認することになった。シャーロットとしては、まだ正式に加入したわけでもない自分のためにそこまでしてもらう理由が分からず、何度か振り返りそうになったが、そのたびにアメリアが前を歩きながら言った。
「遠慮しなくていいわ。今日は休む場所を決めるのが先よ」
「でも、私、まだ試験も受けていませんし……」
「だから候補生用の部屋なの。正式団員用でも幹部用でもないわ」
「候補生用……」
シャーロットはその言葉を小さく繰り返した。銀翼では、評価が下がってから部屋も装備も少しずつ悪くなっていった。だから、正式に認められていない者には最低限の場所しか与えられないものだと、どこかで思い込んでいた。
寮棟に入ると、まず廊下の明るさに驚いた。窓が広く、風通しがいい。床は磨かれていて、壁には訓練予定や帰還予定の掲示が整然と貼られている。途中ですれ違った若い団員が、アメリアに軽く頭を下げた。
「アメリアさん、お疲れ様です」
「お疲れ様。明日の遠征準備、装備点検を忘れないようにね」
「はい!」
そのやり取りが、あまりに自然だった。命令ではなく、確認。圧ではなく、管理。シャーロットはそれだけで少し不思議な気持ちになった。
アメリアは二階の一室の前で立ち止まり、鍵を取り出した。
「ここよ。候補生や仮所属の団員が使う部屋ね。長期用ではないけれど、試験が終わるまでは十分使えるはずよ」
そう言って扉を開ける。
シャーロットは中を見て、動けなくなった。
部屋は広すぎるわけではない。豪華でもない。壁紙も家具も落ち着いたもので、貴族の客室のような派手さはなかった。けれど、清潔だった。床に埃はなく、窓は大きく、机はまっすぐ立っている。ベッドには厚みのある寝具が整えられ、枕も潰れていない。壁際には収納棚があり、荷物を置ける台もある。奥には小さな洗面台と、簡易のシャワー室までついていた。
シャーロットは、何度か瞬きをした。
「……ここ、ですか?」
「ええ」
「私が、使っていいんですか?」
アメリアが少しだけ眉を寄せた。
「そのために案内したのよ」
「でも、綺麗です」
「掃除してあるからね」
「机が、傾いていません」
「傾いていたら直すわ」
「窓も、ちゃんと開きます」
「開かない部屋に人を入れないわよ」
シャーロットは部屋の中へ一歩入った。靴音が、乾いた床に小さく響く。変な湿気の匂いはしない。寝具からは日に干した布の匂いがした。洗面台の横には清潔なタオルが置かれている。備え付けの石鹸もある。
それは、獅子の咆哮にとっては普通の候補生用の部屋だった。
しかし、シャーロットにとっては違った。
銀翼の寮の端にあった、物置のような部屋。湿気を含んだ壁。軋むベッド。傾いた机。共同浴場を使う時の遠慮。評価が下がるたびに、少しずつ自分の居場所が狭くなっていく感覚。それらが一度に胸の奥でほどけていった。
「荷物はそこに置いていいわ。今日はもう無理に動かなくて大丈夫。夕食は食堂で取れるし、必要なら部屋まで持ってこさせることも――」
アメリアの声が途中で止まった。
シャーロットが、泣いていたからだ。
本人も気付いていなかった。頬に温かいものが伝って、初めて自分が涙を流していることを知った。
「あ、すみません」
慌てて拭おうとしたが、涙はすぐには止まらなかった。
「すみません、変ですね。追放された時は平気だったのに。あの、部屋が、綺麗で……」
声が少し震えた。
ガルドが後ろで息を呑む気配がした。アメリアは何も言わず、静かに扉を閉める。廊下からの視線を遮るように。
「変じゃないわ」
「でも、候補生用なんですよね? そんな、私、まだ何もしていないのに」
「シャーロット」
アメリアの声は、柔らかかった。けれど逃げ道を塞ぐような強さもあった。
「これは特別扱いじゃないの。獅子の咆哮では、候補生に休める部屋を用意するのは普通よ。寝具が清潔なのも、机が壊れていないのも、洗える場所があるのも、普通なの」
普通。
その言葉が、シャーロットの胸に落ちた瞬間、さらに涙がこぼれた。
怒られたわけではない。責められたわけでもない。優しくされたから泣いたわけでも、豪華なものを与えられたから泣いたわけでもない。
普通に扱われた。
ただそれだけのことが、こんなにも苦しかった。
「私……普通の部屋を使っても、いいんですね」
ガルドが顔を歪めた。
「当たり前だろ」
声が低く、少しかすれていた。
シャーロットは困ったように笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。
「すみません。泣くつもりはなかったんです」
「謝らなくていい」
アメリアが机の上に置いてあった清潔なタオルを取り、シャーロットへ渡す。
「今日は泣いていいわ。追放されたからじゃなくて、ちゃんと休める場所に来たんだから」
その言葉に、シャーロットはタオルを両手で受け取り、そっと目元に当てた。
ガルドは何も言わなかった。言えば、怒りが先に出そうだった。銀翼の幹部達への怒り。こんな部屋一つで泣くほど、彼女を追い詰めていた環境への怒り。そして、十年も気付けなかった自分への怒り。
部屋の中に、しばらく静かな時間が流れた。
やがて、シャーロットは何とか涙を拭き、深く息をした。
「ありがとうございます。あの、汚さないように使います」
「普通に使いなさい」
アメリアが即答する。
「普通に寝て、普通に着替えて、普通に休むの。掃除は必要なら言ってくれればいいし、寝具も交換できる。壊れたものがあったら報告して」
「壊れたら、怒られませんか?」
「壊した理由によるわ。でも、普通に使って壊れたものを報告して怒るようなクランじゃない」
シャーロットはまた少し驚いた顔をした。
ガルドが小さく呟く。
「……本当に、銀翼で何されてたんだよ」
アメリアはそれを聞き逃さなかったが、今は追及しなかった。シャーロットに必要なのは尋問ではない。まず、安心して座れる椅子と、眠れるベッドだ。
「荷物を置いたら、少し休みなさい。夕方になったら食堂に案内するわ」
「はい。ありがとうございます」
シャーロットは手持ち鞄を部屋の隅に置いた。布に包んだ私物のスタッフは、壁際にそっと立てかける。餞別として渡された古いローブと帽子とワンドは、鞄の中に丁寧に収めた。
アメリアはその所作を見て、胸が痛くなった。
処分品同然の装備を、まるで大切なもののように扱っている。雑に扱われてきたはずなのに、道具にも、人にも、礼を失わない。
この子は、弱いから泣いているのではない。
長い間、普通を普通だと思えない場所にいたから、涙が出ているのだ。
アメリアは静かにそう理解した。
「ガルド、少し外に」
「分かった」
二人は部屋を出た。扉を閉める直前、シャーロットが振り返る。
「あの、本当にありがとうございます」
アメリアは軽く首を振った。
「お礼は明日でいいわ。今日は休みなさい」
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、ガルドが低く吐き捨てた。
「候補生用の普通の部屋で泣いたぞ」
「ええ」
「銀翼の奴ら、何をしてた」
アメリアは答えず、少しだけ目を伏せた。
この部屋は特別ではない。獅子の咆哮では、候補生に与える標準的な部屋だ。新人なら二人部屋になることもあるが、それでも洗面台やシャワーはある。帰還者には軽食が出る。装備点検もある。怪我をすれば治療を受ける。疲れれば休む。
それは、冒険者を長く生かすための最低限の仕組みだった。
その最低限で、シャーロットは泣いた。
アメリアは静かに息を吐く。
「思っていたより、根が深いわね」
「ああ」
「明日、日用品を買いに連れていく」
「頼む」
「それと、髪も整えさせる。本人は綺麗にしているつもりでしょうけど、あれは努力で保っているだけ。ちゃんとした手入れをさせてあげないと」
ガルドは頷いた。
「金は俺が――」
「クランで出すわ」
「だが」
「ガルド。彼女はあなたの拾い物じゃない。獅子の咆哮の幹部候補として迎える可能性がある人材よ。必要な支度はクランがする」
その言葉に、ガルドは少しだけ黙った。
「……そうだな」
アメリアは閉じた扉を見た。
「それに、これは贅沢じゃないわ。普通の支度よ」
部屋の中では、シャーロットがまだ立ち尽くしていた。清潔なベッド。まっすぐな机。開く窓。洗面台。シャワー。柔らかいタオル。
何度見ても、夢のようだった。
そっとベッドの端に腰を下ろす。沈みすぎず、硬すぎず、体を受け止めてくれる。軋まない。毛布は薄くない。枕は潰れていない。
それだけのことに、また涙が出そうになった。
シャーロットはタオルで目元を押さえ、小さく呟く。
「……頑張らないと」
けれど、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
追放された日に、彼女は初めて泣いた。
追い出されたからではない。
普通に扱われたからだった。




