第1節 獅子の咆哮へ
獅子の咆哮の本部は、銀翼の剣の本部から王都の大通りを二つ越えた先にあった。
銀翼ほど白く磨き上げられた建物ではない。石造りの壁には古い傷もある。けれど入口の上には、大きな獅子の紋章が掲げられていた。
門の前を、団員達が行き交っている。
武器を担いだ前衛。ローブ姿の魔法使い。木箱を抱えた職員。訓練帰りらしい新人達。
足取りは忙しいのに、怒鳴り声はない。
シャーロットは門の前で、少しだけ足を止めた。
「ここが、獅子の咆哮……」
「そうだ」
ガルドは短く答えた。
門番が彼に気付き、軽く頭を下げる。
「ガルドさん、お帰りなさい」
「ああ。団長はいるか?」
「執務室です。副団長も一緒かと」
「分かった」
門番の視線が、ガルドの隣にいるシャーロットへ移った。
古いローブ。癖のついたウィッチハット。手持ち鞄と、肩に掛けた布包み。
シャーロットは思わず背筋を伸ばした。
けれど門番は、値踏みするような目を向けなかった。
「お客様ですか?」
「俺の知り合いだ。団長に会わせる」
「承知しました」
それだけだった。
門をくぐってから、シャーロットはこっそり振り返った。門番はもう別の団員に声をかけている。
「どうした?」
「いえ……怒られないんですね」
ガルドが足を止めた。
「誰にだよ」
「その、幹部の方のところへ行くので」
「俺が連れてきたんだから、当たり前だろ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ」
ガルドは少し呆れたように言い、先に歩き出した。
本部の中へ入ると、すぐ左に広い受付があった。依頼書が種類ごとに並び、受付係が戻ってきた団員と話している。奥の卓では、遠征帰りらしい冒険者達が湯気の立つカップを受け取っていた。
シャーロットの視線が、そこで止まる。
「後で説明する。今は団長だ」
「あ、はい」
慌てて視線を戻す。
通路を進む途中、訓練場が見えた。
新人らしい若者達が木剣を振り、教官が一人一人の足運びを直している。隣では魔法使い達が結界を張り、別の組が撤退時の隊列を確認していた。
的に魔法を撃つだけではない。
逃げ方まで、訓練している。
「新人さん達、しっかり見てもらっているんですね」
「育たなきゃ死ぬからな」
「はい。そうですよね」
迷いのない返事だった。
シャーロットは訓練場の方を見たまま、小さく頷いた。誰かの立ち位置が少し危ういのか、指先がわずかに動く。
けれど何も言わず、すぐに手を下ろした。
ガルドは横目でそれを見た。
階段を上がり、二階の奥へ進む。執務室の前でガルドが扉を叩いた。
「ガルドだ。入るぞ」
中から低い声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けると、広い執務室に二人の男がいた。
机の向こうに座っているのは、大柄な男だった。短く切った赤褐色の髪に、鋭い目つき。座っているだけで、部屋の空気を押さえている。
獅子の咆哮団長、アクセル。
もう一人は、書類を手にした細身の男だった。眼鏡の奥の目は冷静で、机の上には分類済みの報告書が崩れず積まれている。
副団長レオン。
アクセルはガルドを見て、次にシャーロットを見た。
「ガルド。急にどうした」
「連れてきた」
「人を拾ってくるな」
レオンが即座に言った。
「拾ったとは言ってない」
「似たようなものだろう」
ガルドはそれを無視した。
「紹介する。シャーロット。俺の学校時代の知り合いだ」
シャーロットは慌てて頭を下げた。
「は、初めまして。シャーロットと申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
アクセルの視線が、彼女のローブと鞄を一度だけ見た。
次に、ガルドへ戻る。
「事情がありそうだな」
「かなりある」
「所属は?」
「今日まで銀翼の剣にいた」
レオンの手が止まった。
「銀翼の剣? Sランククランの?」
「今日まで、だ。今朝追い出された」
「追い出された?」
アクセルの声が少し低くなる。
シャーロットは反射的に口を開いた。
「あの、評価規定に基づく契約解除です。攻撃魔法使いとしての成果が足りなかったので」
「攻撃魔法使いとしての成果?」
アクセルが繰り返す。
レオンは机の上から新しい紙を一枚取り、すぐにペンを走らせた。
「シャーロットさん。確認しても?」
「はい」
「銀翼の剣には何年所属を?」
「十年です。十八歳で加入しました」
「現在は二十八歳?」
「はい」
「職能登録は?」
「攻撃魔法使いです」
「契約解除の理由は、攻撃魔法使いとしての成果不足」
「はい」
レオンはそこで一度ペンを止めた。
「退団時に渡されたものは?」
シャーロットは肩の布包みに目を落とす。
「餞別として、ローブと帽子とワンドをいただきました」
「餞別……」
レオンの眉間に薄く皺が寄った。
アクセルは無言で腕を組む。ガルドは何か言いかけて、奥歯を噛んだ。
「十年Sランククランにいた魔法使いに、それか」
アクセルの声は低かった。
シャーロットは少し困ったように笑う。
「低評価でしたので、いただけるだけありがたいと思います」
「……低評価者に古い装備を渡すのは、ありがたいことじゃねえ」
シャーロットはきょとんとした。
怒られているのか、心配されているのか、分からなかった。
その時、扉が軽く叩かれた。
「失礼します。団長、先ほどの遠征報告ですが――」
入ってきた女性が、室内の空気に気付いて足を止めた。
落ち着いた栗色の髪を後ろでまとめ、軽装の上に指揮官用の短いマントを羽織っている。腰には護身用の細剣。無駄のない身のこなしだった。
「……取り込み中でしたか?」
「いや、ちょうどいい。アメリア、お前も聞け」
アクセルがそう言うと、アメリアはシャーロットへ視線を向けた。
最初に服を見る。次に、髪を見る。
乾いた毛先。色あせた髪紐。けれど結び目だけは、きちんと整えられている。
アメリアは一瞬だけ目を細めた。
「彼女は?」
「銀翼の剣を今日出た。ガルドの学校時代の知り合いだ」
「銀翼から?」
「はい。シャーロットと申します」
シャーロットはまた頭を下げる。
アメリアは小さく頷き、すぐに幹部の顔に戻った。
「理由は?」
「攻撃魔法使いとしての成果不足だそうです」
「……その格好で?」
その声には、わずかな棘があった。
シャーロットは肩を小さく縮める。けれどアメリアの目は、シャーロットではなく、彼女の後ろにあるどこかへ向いていた。
ガルドが低く言った。
「団長。副団長。アメリア。先に言っておく」
三人の視線が集まる。
「こいつは、俺が学校時代に一度も勝てなかった魔法使いだ」
室内の音が止まった。
アクセルがゆっくりと目を細める。レオンのペンが紙の上で止まる。アメリアはシャーロットをもう一度見た。
シャーロットは慌てて両手を振った。
「そ、そんなことないですよ。ガルドさんは実技でとても強かったですし、私は距離を取っていただけで」
「勝てなかったんだよ」
ガルドははっきりと言った。
「近接戦闘科の俺が、魔法科のお前に何度挑んでも届かなかった。教師達も見てる。俺は覚えてる」
「でも、それは訓練ですし……」
「訓練で分かることもあります」
レオンが静かに口を挟んだ。
「ガルドがそこまで言うなら、銀翼の評価だけで判断するべきではありませんね」
アクセルも頷く。
「シャーロット。銀翼では何をしていた?」
「えっと……低ランク部隊の補助や、新人支援が多かったです。攻撃魔法使いとしての遠征もありましたが、最近はあまり」
「補助というのは?」
「怪我人が出た時の応急処置や、撤退支援、結界、探知、魔力の乱れを落ち着かせたり、危険な魔物の進路を変えたり……その時に必要なことを少しずつです」
アメリアが小さく息を吐いた。
「待って。それ、全部一人で?」
「はい。必要な時だけです」
「必要な時だけ、で済む量じゃないわね」
アクセルが額に手を当てる。
「なんで攻撃魔法使いが、そこまでやってた?」
シャーロットは少し考えた。
本当に、理由を探すような間だった。
「困っていたので……」
ペン先が紙から離れた。
アクセルの指が机を叩きかけて止まる。
アメリアは何かを言おうとして、唇を閉じた。
シャーロットだけが、何かおかしなことを言ったのかと三人を見比べている。
「見ないふりをすると、落ち着かなくて」
小さく付け足してから、シャーロットは視線を落とした。
「できることがあるなら、やった方がいいと思っていました」
ガルドは何も言わなかった。
レオンは資料棚へ向かい、王都主要クランの基礎資料を一冊引き寄せた。銀翼の剣の項目を開き、指で記録を追う。
「銀翼の剣がBランクからAランクへ昇格したのが九年前。Sランク承認が三年前。シャーロットさんの在籍期間と重なります」
「偶然か?」
アクセルが聞く。
レオンは眼鏡を押し上げた。
「今は断定しません。ただ、十年いた人間を攻撃記録だけで切ったなら、見落としがあります」
「ふざけてるな」
ガルドが低く吐き捨てた。
シャーロットは困ったように手を振る。
「あの、本当に私がうまくできなかっただけかもしれませんので」
「お前は少し黙ってろ」
「はい……」
ガルドに言われ、シャーロットは素直に口を閉じた。
アクセルはしばらく黙っていた。
やがて机に肘を置き、シャーロットへ真っ直ぐ視線を向ける。
「シャーロット。すぐに正式加入、とは言わない。だが、うちで試験を受ける気はあるか?」
「試験、ですか?」
「ああ。ただし、単純な戦闘試験じゃない」
アクセルは机の上で指を組む。
「見るのは、人を守れるか。危険を見抜けるか。新人を導けるか。撤退を判断できるか。戦場を壊さずに収められるかだ」
シャーロットは目を開いた。
銀翼では、報告書の端に小さく書かれていたことばかりだった。
「……それも、見ていただけるんですか?」
声が少しだけ小さくなる。
アクセルは頷いた。
「うちはAランククランだ。Sには届いていない。だが、人を使い潰して上へ行くつもりはない」
シャーロットの指先が、鞄の持ち手に沈んだ。
「お前がガルドの言う通りの魔法使いなら、うちに必要だ」
必要。
その一言が、すぐには胸に入ってこなかった。
ガルドが横から言う。
「受けろ。宿探しより先だ」
「でも……」
「でもじゃない」
シャーロットは鞄の持ち手を握ったまま、しばらく黙った。
怖い。
また測られて、また足りないと言われるかもしれない。攻撃魔法使いとして駄目だった自分を、別の言葉で駄目だと言われるだけかもしれない。
けれど。
「……怖いです」
小さな声だった。
ガルドが口を閉じる。
アメリアも、アクセルも、レオンも急かさなかった。
シャーロットは一度だけ息を吸い、アクセルを見た。
「でも、見てもらえるなら……受けたいです」
アクセルは短く頷いた。
「分かった」
レオンは新しい書類を取り出す。
「では、仮滞在扱いで処理します。署名は明日で構いません」
アメリアも静かに頷いた。
「今日はもう疲れているでしょう。試験の話は明日以降でいいわ。その前に、部屋を用意しましょう」
「部屋、ですか?」
「ええ。候補者用の部屋が空いているはずよ」
「いえ、でも、私はまだ加入したわけでは」
「だから候補者用よ」
アメリアは当然のように言った。
レオンが机の引き出しを開け、小さな鍵を一つ取り出した。
「二階の空き部屋を使えます。アメリア、案内をお願いします」
「分かったわ」
アメリアは鍵を受け取り、シャーロットへ視線を向けた。
「行きましょう」
シャーロットはアメリアの手の中にある鍵を見つめたまま、小さく頷いた。




