第6節 もう遅い
「恥を知れ」
ノアの言葉が、会議室に重く残っていた。
誰もすぐには動けなかった。幹部長も、評価担当も、装備担当も、居住管理の責任者も、机の上に広げられた資料から目を逸らせずにいる。
シャーロットの評価記録。
低ランク帯の比較資料。
医務室の搬送数。
装備破損の増加。
ポーション消費の増加。
どれも、銀翼の剣が見ないふりをしてきたものだった。
沈黙の中で、ノアは静かに椅子へ腰を下ろした。
初めて座った。
その動きだけで、幹部達の肩がわずかに揺れる。
「これから銀翼がすることは三つだ」
ノアは言った。
「一つ、事実の洗い出し。シャーロットの評価、待遇、装備、居住環境、給与、修理申請、低ランク帯の記録。すべて調べ直す」
誰も反論しない。
「二つ、評価制度の見直し。攻撃実績だけで人を見る仕組みを、そのまま残すことは許さん。支援、撤退判断、負傷予防、教育、索敵、結界、応急処置。現場を生かしている働きを評価できる形にしろ」
評価担当が、青い顔で頷いた。
「三つ」
ノアはそこで言葉を切った。
会議室の全員が息を呑む。
「シャーロットに謝罪しろ」
その一言で、空気が変わった。
幹部長が顔を上げる。
「謝罪、ですか」
「そうだ」
「ですが、彼女はすでに獅子の咆哮に所属しています。こちらから接触するのは……」
「所属しているから謝罪しないのか」
ノアの声が低くなる。
幹部長は口を閉ざした。
「戻る戻らないの前に、謝れ。十年働いた仲間を見ず、測れず、切り捨てた。そのことを謝れ」
「……はい」
幹部長の返事は小さかった。
ノアは続ける。
「その上で、戻ってきてほしいと伝えろ」
会議室がざわついた。
評価担当が顔を上げる。装備担当も、居住管理の責任者も、現団長も、同じようにノアを見た。
「ノア様、本気で……」
「本気だ」
ノアは即答した。
「銀翼はシャーロットを失った。低ランク帯は崩れ、医務室は苦しくなり、中堅は余計な救援に回され、上位部隊にも負担が出ている。このままでは、さらに落ちる」
「ですが、再雇用となれば条件を……」
「用意しろ」
ノアの声は冷たかった。
「高給。幹部待遇。専用装備。まともな部屋。医務支援。装備点検。研究環境。必要なものをすべて出せ」
装備担当が息を呑む。
「専用装備となると、相当な費用が……」
ノアの視線が向いた。
装備担当はすぐに黙った。
「費用を惜しんで、何を失ったと思っている」
その一言だけで十分だった。
居住管理の責任者が、小さな声で言う。
「部屋についても、幹部用区画を……」
「当然だ」
「ですが、今さら用意しても……」
「そうだな」
ノアは静かに言った。
「今さらだ」
その声に、会議室の誰もが口を閉じた。
ノアは机の上の新聞を見た。
黒龍を討った星纏いの魔女。
獅子の咆哮、Sランク昇格。
その見出しは、もう王都中に広がっている。
「お前達が提示しようとしているものは、すでに獅子の咆哮が与えている」
会議室に沈黙が落ちる。
「装備も、部屋も、役目も、仲間もだ」
ノアは淡々と告げた。
「だから、条件を並べれば戻ってくるなどと思うな。高給を出す、部屋を用意する、装備を作る。そんなものは、本来なら銀翼にいた時に与えるべきだったものだ」
幹部達は、何も言えなかった。
銀翼が最後に渡したのは、古いローブ、歪んだ帽子、濁った魔石のワンド。
獅子の咆哮が与えたのは、彼女の力を理解し、支え、守るための場所と装備だった。
差は、あまりにも大きい。
「それでも、謝罪しろ。戻ってきてほしいと頼め」
幹部長が目を見開く。
「戻らないと分かっていて、ですか」
「ああ」
「なぜ……」
「謝罪とは、相手が許してくれるからするものではない」
ノアの声は静かだった。
「戻ってくる可能性があるから頭を下げるのではない。銀翼が間違っていたから、頭を下げるんだ」
幹部長は何も言えなくなった。
「ただし、勘違いするな」
ノアは幹部達を見渡した。
「呼び戻せば済む話ではない。断られたとしても、そこで終わりではない。銀翼が何をしたのかを理解するところから始めるんだ」
幹部長は唇を引き結んだ。
屈辱だと思っているのかもしれない。
ノアはその表情を見逃さなかった。
「屈辱だと思うなら、覚えておけ。その何倍ものものを、シャーロットに味わわせた」
幹部長の顔が強張る。
「十年働いたクランから不要だと言われ、古い装備を渡され、それでも礼を言って出ていった。あいつがその時、どんな気持ちだったか考えたことがあるか」
誰も答えなかった。
ノアは深く息を吐いた。
「考えろ」
短い命令だった。
「考えてから、会いに行け」
幹部長が静かに頭を下げた。
「……承知しました」
だが、その声にはまだ迷いがあった。
謝罪。
再雇用の申し出。
高給。
幹部待遇。
専用装備。
良い部屋。
すべてを用意する。
だが、それでも戻ってこないかもしれない。
いや、戻ってこない可能性の方が高い。
それを幹部達も、少しずつ理解し始めていた。
その時、会議室の扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
ノアが言うと、若い管理職員が入ってくる。先ほど比較資料を出した者とは別の職員だった。顔色が悪い。
「会議中、失礼いたします」
「何だ」
幹部長が苛立ちを隠せずに問う。
職員は一瞬ためらい、それから書類を差し出した。
「ギルドから、契約相談に関する照会が届いております」
「契約相談?」
「はい。医務室所属のソフィアについてです」
会議室の空気が変わった。
幹部長が眉を寄せる。
「ソフィアがどうした」
職員は書類を見ながら答える。
「本人の自由意思による、移籍希望の事前相談がギルドに記録されました。移籍先候補は……獅子の咆哮です」
沈黙。
今度の沈黙は、先ほどまでとは違った。
ソフィア。
若いが優秀な治癒術師。
負傷者が増えている今の銀翼にとって、医務室を支える貴重な人材。
そのソフィアが、獅子の咆哮への移籍を希望している。
「なぜだ」
幹部長の声は低かった。
職員は書類へ目を落とす。
「理由として、負傷予防、戦場安定化、撤退判断、低ランク帯支援技術を学ぶため、と記録されています。師事希望先は、シャーロットです」
会議室に、見えない何かが落ちた。
シャーロットを失った。
その穴を医務室で見ていたソフィアが、シャーロットのいる獅子の咆哮へ移ろうとしている。
それは偶然ではなかった。
銀翼が見なかったものを、ソフィアは見たのだ。
ノアはしばらく黙っていた。
そして、低く息を吐く。
「そうか」
誰も、何も言えない。
「若い治癒術師の方が、よほど見えている」
その言葉に、幹部長の顔が青ざめた。
ノアは書類を受け取り、目を通す。
ギルド立ち会いの相談記録。本人の自由意思。獅子の咆哮からの強引な勧誘ではないこと。目的は治癒術習得ではなく、怪我が起きる前の戦場を学ぶこと。
ノアは目を閉じた。
「シャーロットだけではない」
静かな声だった。
「シャーロットが見ていたものに気付いた者まで、銀翼を出ようとしている」
それは、銀翼にとって致命的な事実だった。
一人の魔法使いを失った。
その価値に気付いた治癒術師も、出ていこうとしている。
これは単なる人材流出ではない。
銀翼という場所が、現場を見る者に選ばれなくなっているということだった。
「分かったか」
ノアは幹部達を見渡した。
「もう遅い、というのはこういうことだ」
誰も答えられなかった。
ノアは立ち上がる。
「謝罪の準備をしろ。シャーロットへの面会申請は、ギルドを通して正式に行う。獅子の咆哮へ無礼な接触はするな。ソフィアの件も、契約に沿って扱え。圧力をかけるな。引き止めるなら、正当な条件と誠意を示せ」
幹部長が苦しそうに言う。
「ノア様、それでは……」
「それでは何だ」
「人が、離れていきます」
ノアは冷たい目で見た。
「もう離れている」
幹部長は言葉を失った。
ノアは会議室の扉へ向かう。
その途中で、一度だけ足を止めた。
「銀翼は、シャーロットを失った日に崩れ始めていた」
誰も顔を上げられなかった。
「お前達がそれに気付くのが、遅すぎただけだ」
扉が閉まる。
会議室には、銀翼の幹部達だけが残された。
机の上には、シャーロットの評価記録。
低ランク帯の比較資料。
そして、ソフィアの移籍相談に関する照会。
誰も、最初にその紙へ手を伸ばせなかった。




