第5節 恥を知れ
「お前達にも、これから思い出してもらう」
ノアの声は、会議室の奥まで静かに届いた。
「銀翼が何でSランクになれたのか。何を見落としたのか。誰を切り捨てたのか」
誰も反論しなかった。
幹部長も、評価担当も、装備担当も、居住管理の責任者も、書類を前にして黙っていた。机の上には、シャーロットの評価記録と、低ランク帯の比較資料が並んでいる。
片方には、攻撃魔法使いとしての成果不足が記されていた。
もう片方には、彼女がいなくなってから悪化した数字が並んでいた。
二つの紙は、同じ人物をまったく違う形で示していた。
ノアはその二つを見比べ、低く息を吐いた。
「お前達は、攻撃魔法使いを一人切っただけだと思っているのか」
幹部長がわずかに顔を上げる。
「ノア様、それは……」
「違う」
ノアは遮った。
「銀翼の仲間を、誰よりも生かし続けてきた魔法使いを捨てたんだ」
会議室の空気が、音を立てずに沈んだ。
誰かが息を呑む。
ノアは、机の上の資料を指で押さえた。
「新人が無茶をすれば、先に進路を変えた。盾役の腕が下がれば、倒れる前に下げた。魔法使いの呼吸が乱れれば、暴発する前に整えた。撤退路が塞がりそうなら、先に開けた。危険な魔物が近づけば、戦う前に避けた」
言葉は多くなかった。
だが、その一つ一つが、この場にいる者達の胸を刺した。
「お前達の評価表には、倒した数しか載らなかった」
ノアの視線が、評価担当へ向く。
「だが銀翼を支えていたのは、倒した数だけじゃない」
評価担当は顔を伏せた。
装備担当は何か言おうとして口を開きかけたが、声にはならなかった。
「評価担当」
呼ばれた男が肩を震わせる。
「はい」
「お前は、あいつの評価表を見たな」
「……はい」
「攻撃魔法による討伐実績が少ない。高危険度個体への有効打が少ない。前線での攻撃貢献が低い。そう判断した」
「はい」
「では聞く。あいつが同行した班の帰還率は見たか」
「それは……」
「重傷者数は」
「……確認しておりません」
「撤退成功率は」
「評価項目では……」
ノアは短く息を吐いた。
「見ていないのに、評価したんだな」
評価担当の顔色が変わる。
「私は、規定に従って……」
「規定は、人を見るための道具だ」
ノアの声が鋭くなった。
「人を見ない言い訳に使うものじゃない」
評価担当は、完全に口を閉ざした。
ノアは次に、装備担当を見た。
「装備担当」
「……はい」
「シャーロットの装備を見たか」
「退団時の支給品については、在庫品から……」
「俺は退団時の話をしていない」
ノアの声が低くなる。
「在籍中の装備だ。ローブは傷んでいなかったか。帽子は歪んでいなかったか。ワンドの魔石は濁っていなかったか。修理申請は通っていたか」
装備担当は、すぐに答えられなかった。
「低評価者の修理申請は、優先順位が……」
「低評価者」
ノアがその言葉を繰り返した。
「お前達が見落としただけの仲間を、低評価者と呼んで修理も後回しにしたのか」
「……」
「その装備で、新人を守らせていたんだな」
誰も答えない。
ノアは拳を握った。
「恥を知れ」
短い言葉だった。
だが、会議室の誰もが胸を突かれた。
ノアは次に、居住管理の責任者へ視線を向けた。
「シャーロットの部屋は」
その一言で、居住管理の責任者の顔から血の気が引いた。
「低評価者用の部屋として、規定の範囲内で……」
「規定の範囲内」
「はい。最低限の居住環境は保証しておりました」
「最低限か」
ノアの声が、静かに沈んだ。
「Sランククランが、十年働いた仲間に与えたものが、最低限か」
誰も動けなかった。
「風呂は」
責任者の肩が揺れた。
「共用施設はあります」
「使えたのか」
「……規定上は」
「規定上ではなく、実際にだ」
沈黙。
ノアの目が細くなる。
「明確に禁止しなければ、責任はないと思っているのか」
居住管理の責任者は、何も言えなくなった。
会議室の壁に掛かった銀翼の旗が、窓から入る風でわずかに揺れた。
白銀の翼。
かつては誇りだった旗。
今は、その重さを誰も受け止められないように見えた。
ノアは会議室全体を見渡した。
「お前達は、あいつから何を奪った」
誰も顔を上げられない。
「評価を奪った。装備を奪った。休む場所を奪った。自分はここにいていいのだと思える居場所を奪った」
ノアは低く続ける。
「それでも、あいつは文句を言わなかったんだろう」
古参の一人が、苦しそうに頷いた。
「……はい」
「最後は何と言った」
誰も答えなかった。
ノアは、すでに聞いていた。
シャーロットが退団時、餞別として古い装備を受け取り、それでも頭を下げたことを。
ありがとうございます、と言ったことを。
「十年働いたクランから、古い装備を渡されて外へ出されても、あいつは礼を言ったんだ」
ノアの声が、初めてわずかに震えた。
「その意味が分かるか」
誰も答えない。
「分かっていたら、そんなことはできない」
会議室の隅で、若い管理職員が拳を握りしめていた。
彼は直接、シャーロットの退団処理に関わったわけではない。だが、自分も見ていなかった一人だと分かっていた。
低評価者の扱い。
修理申請の遅れ。
最低限の部屋。
医務室の負担増。
数字の異変。
気付ける場所は、いくらでもあった。
気付かなかった。
気付くのが、遅すぎた。
ノアは幹部長へ向き直った。
「お前達は、あいつが獅子の咆哮で黒龍を討ったから驚いたのか」
幹部長は黙っている。
「違う。驚くべきはそこじゃない。あいつはずっと、そういう魔法使いだった。自分の力を誇らず、必要な場所に使い、誰かを生かすために動いた。黒龍戦で、それが見えただけだ」
ノアは机を叩かなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、声だけが深く沈んでいく。
「お前達は、それを十年間見逃した」
幹部長の表情がわずかに歪んだ。
「ノア様。我々は……銀翼を維持するために、制度を整えたのです。大きくなったクランを運営するには、感情ではなく基準が必要です。個々の事情をすべて拾っていては、組織は……」
「誰が感情だけで動けと言った」
ノアは静かに返した。
「制度は必要だ。評価も必要だ。基準も必要だ。だが、その制度が人を殺すなら、変えなければならない」
「殺す、とは……」
「殺してからでは遅い」
ノアの声が冷たくなる。
「シャーロットが抜けてから、怪我人が増えた。撤退失敗が増えた。医務室が苦しくなった。次は死人が出る。そうなってから評価制度の見直しをするつもりだったのか」
幹部長は答えられなかった。
「制度は、人を生かすためにある。現場を守るためにある。仲間を使い潰さないためにある」
ノアの目が、会議室の全員を射抜く。
「お前達は、評価表を守るために仲間を切った」
その一言で、空気が凍った。
ノアは評価記録を手に取り、静かに掲げた。
「この紙に書かれているのは、シャーロットが足りなかった証拠ではない」
幹部達が顔を上げる。
「銀翼の評価制度が、シャーロットを測れなかった証拠だ」
誰も、何も言えなかった。
紙が机の上へ戻される。
音は小さい。
けれど、会議室の全員に聞こえた。
長い沈黙が落ちた。
幹部長も、評価担当も、装備担当も、居住管理の責任者も、それぞれの前にある資料から目を逸らせなかった。
やがて、古参の一人が小さく言った。
「……俺達も、止めませんでした」
ノアはその古参を見る。
「知っていたのか」
「全部ではありません。でも、シャーロットが低ランク帯を支えていたのは、何となく分かっていました。あいつがいると帰ってこられる。あいつがいると新人が無茶をしない。そう思っていました」
古参は唇を噛む。
「でも、それを上に上げなかった。評価が下がっているのも、装備が悪くなっているのも見ていたのに……“あいつなら大丈夫だろう”と思ってしまった」
ノアは何も言わなかった。
古参は頭を下げた。
「すみません」
その謝罪は、もうシャーロットには届かない。
ノアは静かに言った。
「謝る相手は俺じゃない」
古参はさらに深く頭を下げた。
会議室の空気が、痛いほど重くなる。
ノアはもう一度、全員を見た。
「これから事実を洗い出す」
幹部達の肩がわずかに揺れる。
「評価処理だけではない。装備支給、修理申請、部屋の移動、給与、食事、医務記録、低ランク帯の事故率。全部だ。誰が見ていなかったのか。どこで声が消えたのか。誰が承認したのか。全部出せ」
幹部長がかすれた声で言う。
「ノア様、それは銀翼の内部を大きく揺るがします」
「もう揺らいでいる」
ノアは即答した。
「揺れているのを見ないふりしていただけだ」
幹部長は言葉を失った。
「シャーロットはもう銀翼にはいない」
ノアは静かに告げる。
「獅子の咆哮で見つけられ、支えられ、正式な幹部になった。専用装備を作られ、休む場所を与えられ、仲間に囲まれている。黒龍を討ち、王国に星纏いの魔女と呼ばれている」
その一つ一つが、銀翼の幹部達に突き刺さった。
銀翼が与えなかったもの。
銀翼が見なかったもの。
それを、獅子の咆哮は与えた。
「お前達が今さら何を言っても、あいつの十年は戻らない」
ノアは言った。
「だが、銀翼が何をしたのかを見ないまま、次へ進むことは許さん」
会議室の誰もが、黙っていた。
ノアは最後に、静かに告げた。
「恥を知れ」
その言葉は、怒号ではなかった。
けれど、銀翼の剣というクランそのものへ向けられていた。
ノアは、机の上の評価記録を閉じる。
「そして、そこから始めろ」
その声だけが、会議室に残った。




