第4節 Sランクへの道
「なら、次は数字で見ろ」
ノアはそう言って、若い管理職員が差し出した比較資料を机の中央へ置いた。
そこには、過去十年分の依頼記録が並んでいた。
新人班の帰還率、Dランク部隊の撤退成功率、低ランク帯の重傷者数、遠征時の予定外撤退、医務室搬送数、ポーション消費量、装備破損率。
派手な討伐記録ではない。
高額依頼の成功報酬でもない。
だが、クランの土台を見るには必要な数字だった。
幹部長は眉をひそめた。
「それらは、シャーロット個人の評価とは別の資料です」
「そう思っていたから、お前達は見誤った」
ノアは即座に返した。
「攻撃魔法使いとしての評価表だけを見れば、あいつは敵を倒していないように見える。だが、低ランク帯の記録を見ると違う。シャーロットが同行している時期と、そうでない時期で、負傷者数も撤退失敗も変わっている」
評価担当が資料を覗き込む。
そこに並んでいるのは、彼らが評価会議で重視してこなかった数字だった。
誰が何体倒したか。
どの高危険度個体に有効打を与えたか。
どの前線で決定打を入れたか。
そういう数字ではない。
誰が生きて帰ったか。
どれだけ怪我をせずに済んだか。
どれだけ予定通り依頼を終えたか。
どれだけ中堅救援を呼ばずに済んだか。
銀翼が見てこなかった数字だった。
ノアは資料の一点を指で叩いた。
「ここだ。シャーロットが低ランク帯へ本格的に同行し始めた時期から、新人の重傷率が落ちている。Dランク部隊の予定外撤退も減っている。中堅救援の出動数も下がっている」
「偶然では……」
評価担当が言いかけた。
ノアは冷たい目を向ける。
「偶然が十年続くのか」
評価担当は黙った。
ノアは別の欄を指す。
「BからAへ上がる時、ギルドは高難度依頼の実績だけを見たわけじゃない。依頼成功率、事故率、新人定着率、教育体制、低ランク帯の安定。そこも見られた」
幹部長の顔がわずかに強張った。
「銀翼がAランク審査を通れたのは、エース達の戦果だけではない。低ランク帯が崩れていなかったからだ」
ノアの声は低い。
「その記録に、シャーロットの名前が何度も出てくる」
会議室の奥で、古参の一人が小さく息を呑んだ。
ノアは続けた。
「全部あいつ一人の功績だとは言わん。前衛も戦った。魔法使いも育った。医務室も、職人も、受付も働いた。銀翼は皆で大きくなった。そこは間違いない」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、皆が力を出せるように戦場の底を整えていた者を、お前達は見なかった」
幹部長が低い声で言う。
「戦場の底、ですか」
「ああ」
ノアは頷いた。
「新人が壊れないように。Dランク部隊が潰れないように。中堅が救援に走り回らずに済むように。遠征が予定外撤退で崩れないように。そういう小さな崩れを、先に止めていた」
評価担当は、評価記録の写しを見下ろした。
そこにはそんな項目はない。
攻撃魔法による討伐実績。
高危険度個体への有効打。
前線での攻撃貢献。
制圧記録。
決定打の記録。
それらを見れば、シャーロットは確かに低く見えた。
だが、机の中央に置かれた資料には別の姿がある。
彼女が同行した班は、帰還率が高い。
重傷者が少ない。
撤退失敗が少ない。
ポーション消費が少ない。
装備破損が少ない。
中堅救援の出動が少ない。
ノアは静かに言った。
「攻撃しなかったから、評価が低い」
誰も口を挟まない。
「お前達はそう見た。だが、攻撃しなくて済むように整えていた可能性を、考えたか」
会議室が静まり返った。
幹部長の手が、机の下で強く握られている。
反論したいのか、認めたくないのか、それともようやく何かに気付き始めているのか、表情だけでは分からなかった。
古参の一人が、ぽつりと呟いた。
「……あいつがいる日は、帰りが早かった」
会議室の視線が、その古参へ集まる。
彼は少し気まずそうにしながらも、続けた。
「低ランクの護衛依頼でも、採取でも、討伐でも。シャーロットがついている日は、妙に予定通り帰ってきた。大怪我も少なかった。俺達は、運がよかったとか、今日は魔物が少なかったとか、そんなふうに言っていた」
別の古参が苦い顔で頷く。
「魔物が少なかったんじゃない。近づく前に避けてたんだろうな」
「今なら分かる」
「遅いがな」
ノアはそう言った。
責めるような声ではなかった。
だが、だからこそ重かった。
「遅すぎる」
古参達は目を伏せる。
ノアは会議室の奥に掲げられた銀翼の旗を見た。
「Sランクになってから、お前達は数字を見始めた」
幹部達は黙っている。
「いや、数字を見ること自体は必要だ。大きなクランになれば、感覚だけでは運営できない。評価制度も必要だ。役割分担も、基準も、書類もいる。そこは否定しない」
幹部長がわずかに顔を上げる。
だが、ノアの次の言葉で表情が固まった。
「だが、数字にできないものを切り捨てていい理由にはならない」
会議室に、その一言が落ちる。
「死ななかった数は、評価表に載らない。怪我をしなかった者の名前は、医務室の記録に残らない。戦わずに済んだ危険個体は、討伐実績に入らない」
ノアは、ゆっくり息を吸った。
「だが、それでクランは支えられている」
若い管理職員が目を伏せた。
彼は最近、数字の異変を見ていた。シャーロットがいなくなってから、初めて表に出始めた悪化。新人事故、撤退失敗、ポーション消費、装備破損、救援出動。
今なら分かる。
あれは突然起きた異常ではない。
今まで見えなかった支えが消えただけだ。
幹部長がようやく言った。
「しかし……それを全てシャーロット一人の功績とするのは、過大評価ではありませんか」
「そうだな」
ノアは即座に認めた。
幹部長は一瞬、安堵しかけた。
だが、ノアは続ける。
「銀翼は一人で大きくなったわけではない。多くの仲間が働いた。前線に立った者も、裏方も、職人も、医務室も、受付も、皆が積み上げた。そこは間違いない」
そして、ノアは幹部長を見た。
「だが、シャーロットを過小評価したことは、それで消えない」
幹部長の顔が強張る。
「一人の功績だけで銀翼がSになったのではない。だが、一人の働きを見落としたことで、今の銀翼が崩れ始めている。それが答えだ」
ノアは、若い管理職員が出した比較資料を指差した。
「ここに数字が出ている」
誰も、その紙を見ようとしなかった。
見れば、認めることになるからだ。
銀翼の剣が、シャーロットの支えを失って崩れ始めていることを。
ノアはさらに別の紙を机に置いた。
獅子の咆哮のSランク昇格に関する、ギルドの公示写しだった。
「獅子の咆哮がSランクになった理由を、黒龍討伐だけだと思っているなら、それも間違いだ」
幹部達は顔を上げる。
「黒龍戦で、獅子の咆哮はシャーロット一人に押し付けなかった。前衛が時間を稼ぎ、指揮が動き、負傷者を下げ、術式を支えた。あいつを戦力として使い潰すのではなく、仲間として守った」
ノアは、静かに言った。
「銀翼とは違ったんだ」
その言葉は、刃のようだった。
誰も、反論できなかった。
ノアは目を閉じる。
十八歳のシャーロットが、泥だらけの新人へ手を差し出す姿が浮かんだ。
『大丈夫です。次は、もう少し早く下がりましょう』
あの声が、まだ耳に残っている。
ノアは目を開けた。
「俺も悪い」
その言葉に、会議室の幹部達が驚いたように顔を上げた。
「俺は現場を離れた。お前達に任せた。大きくなった銀翼には、仕組みが必要だと思った。だが、その仕組みが人を見なくなることを止められなかった。シャーロットがどんな扱いを受けていたか、知らなかった。知ろうとしなかった」
ノアは拳を握る。
「それは、俺の責任でもある」
誰も何も言えなかった。
責任を押し付けるだけなら、幹部達は反発できたかもしれない。だが、ノアは自分の責任も認めた。その上で、彼らの責任を問うている。
だから逃げられない。
「だがな」
ノアの声が、再び低くなった。
「責任が俺にもあるからといって、お前達のしたことが軽くなるわけではない」
幹部達の顔が強張る。
ノアは評価記録を手に取った。
そして、静かに机へ戻す。
「この紙には、銀翼がSランクへ上がった理由は書かれていない」
誰も反論しない。
「だが、俺は覚えている」
ノアは言った。
「Bランクだった銀翼が、Aへ上がり、Sへ届くまでの道を。そこにいたシャーロットの姿を」
その声は、怒りだけではなかった。
悔しさ。
後悔。
そして、遅すぎる理解。
「お前達にも、これから思い出してもらう」
ノアは幹部達を見渡した。
「古い依頼記録を全部出せ。低ランク帯、医務室、装備破損、救援出動。シャーロットの名前があるものも、ないものもだ」
若い管理職員が、はっと顔を上げる。
ノアは、銀翼の旗へ視線を戻した。
「銀翼が何を見落としたのか、今度こそ見る」
会議室の窓の外で、銀翼の旗が揺れていた。
かつて誇りだったその旗は、今のノアにはひどく重く見えた。




