第3節 黎明期
ノアは、しばらく評価記録から目を離せなかった。
そこに並んでいるのは、整った文字だった。
C評価。
D評価。
E評価。
そして、二度目のE評価。
攻撃魔法使いとしての成果不足。高危険度個体への有効打記録不足。前線での攻撃貢献不足。
今の銀翼の評価制度に従えば、そう記されるのかもしれない。
だが、ノアの記憶にあるシャーロットは、そんな紙の上の文字とはまるで違っていた。
十年前。
銀翼の剣は、まだBランククランだった。
本部と呼べる建物も、今のように立派ではなかった。王都の外れにある古い倉庫を改装し、雨漏りする天井を板で塞ぎ、受付机も食堂の長椅子も中古品を寄せ集めて使っていた。
銀翼の旗も、今のように白銀の刺繍が入ったものではない。安く譲ってもらった灰色がかった布に、ノアが不器用に剣と翼を描いたものだった。
資金は足りない。
人材も足りない。
装備も足りない。
何より、支える者が足りなかった。
勢いだけで前へ出る若い冒険者はいた。剣を振る者、槍を構える者、攻撃魔法を撃つ者もいた。だが、撤退判断は遅く、盾役は自分の限界を分からず、魔法使いは魔力切れで倒れた。
ノアは毎日のように走り回っていた。
依頼主への謝罪。修理費の工面。怪我人の見舞い。新人への説教。古参への頭下げ。ギルドへの報告。資金繰り。
夜になれば、食堂の隅で依頼表を睨みながら、誰をどこに配置すれば死なずに済むかを考えた。
Sランクなど、夢のまた夢だった。
Aランクでさえ遠かった。
そんな時だった。
十八歳のシャーロットが、銀翼の剣に入ったのは。
冒険者学校を卒業したばかりの、まだ若い魔法使いだった。
面接の時、彼女は少し緊張した様子で椅子に座っていた。髪は丁寧に整えられていて、服も古いが清潔だった。手元には、自分の私物らしいスタッフを大事そうに抱えている。
攻撃魔法使いとして登録したい、と彼女は言った。
「得意属性は?」
ノアが尋ねると、シャーロットは少し考えた。
「えっと、必要ならいくつか使えます」
「いくつか?」
「はい。火も、水も、風も、土も、光も……その、他にも少し」
その時、ノアは冗談かと思った。
一属性を使えれば魔法使い。二属性なら秀才。三属性なら天才。そんな世界で、十八歳の少女が当然のように複数属性を口にしたのだ。
だが、実技を見ると冗談ではなかった。
彼女は火を小さく灯した。水を細く動かした。風で紙片を浮かせた。土を固め、光を針のように絞り、結界を薄く張った。
ただの器用な魔法使いではない。
魔力の量も、密度も、制御も、明らかに普通ではなかった。
ノアはその時点で、採用を決めていた。
銀翼に必要なのは、力だった。
けれど、それ以上に必要だったのは、無茶な力を振り回さない者だった。
シャーロットは、自分の魔法を見せびらかさなかった。むしろ、自分がどれほどのことをしているのか、よく分かっていないようにも見えた。
実技の後、ノアが少し黙っていると、彼女は不安そうに首を傾げた。
「足りませんでしたか?」
ノアは思わず笑った。
「足りないどころか、こっちが持て余しそうだ」
「えっ」
「採用だ。攻撃魔法使いとして、うちに来てくれ」
シャーロットは、ぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます。できることなら、何でも頑張ります」
その言葉を、ノアはよく覚えている。
できることなら、何でも。
彼女は本当に、その通りに動いた。
最初の依頼から、少しおかしかった。
新人三人と中堅一人の小型魔物討伐。シャーロットは後衛の攻撃魔法使いとして同行した。
ノアは本部で報告を待っていたが、帰ってきた新人達の怪我が妙に少なかった。いつもなら誰かが擦り傷を作り、誰かが足をひねり、誰かが魔力切れで青ざめて帰ってくる。
その日は違った。
全員が疲れてはいたが、顔色は悪くない。盾役の腕も上がる。魔法使いの魔力も底をついていない。
報告書には、討伐成功、負傷軽微、予定通り帰還とあった。
ノアが同行した中堅に話を聞くと、彼は首を傾げた。
「いや、何というか……妙にやりやすかったんです」
「やりやすい?」
「はい。魔物がこっちの嫌な位置に来ないんです。新人が足を取られそうになる前に、地面が少し固まっていたり、盾役が下がる時に後ろが空いていたり。あと、魔力切れになりそうな奴に、シャーロットが先に声をかけていました」
「攻撃魔法は?」
「撃っていました。けど、派手ではないです。必要な時だけ、急所に小さく」
小さく。
その言葉が妙に引っかかり、ノアは後でシャーロット本人に聞いた。
「攻撃を控えたのか?」
すると、彼女は少し困ったように笑った。
「控えたというか、あまり大きく撃つと新人さん達が驚いてしまうので。あと、魔物が散ると追いにくくなりますから、必要なところだけにしました」
「地面を固めたのは?」
「転びそうだったので」
「魔力切れの声かけは?」
「呼吸が浅くなっていましたから」
「魔物の進路を変えたのは?」
「危なそうだったので」
全部、そんな調子だった。
危なそうだったので。
必要だったので。
その一言で済ませる。
だが、その「必要だったので」の積み重ねで、新人達は怪我をせずに帰ってきた。
それからも、同じことが続いた。
シャーロットが同行する低ランク依頼は、妙に安定した。予定外の撤退が減った。新人の怪我が減った。魔法使いの暴発が減った。盾役が無理をしすぎる前に下げられた。
討伐記録には、大きく残らない。
有効打にもならない。
だが、皆が帰ってきた。
ある時、ノアは遠征先で彼女の動きを直接見た。
森の中だった。
新人班が、予定より深い場所へ入りかけていた。まだ危険個体の気配は薄い。普通なら、そのまま進ませても不思議ではない距離だった。
だが、シャーロットはふと足を止めた。
「すみません。少し右の道に変えませんか?」
先導役が怪訝な顔をする。
「右? そっちは遠回りだぞ」
「はい。でも、前の方に魔力が少し固まっています。大きくはないんですけど、今の新人さん達だと、たぶん疲れます」
説明は曖昧だった。
だが、ノアは彼女の目を見て、右へ行かせた。
後で分かったことだが、正面の道には、群れからはぐれた中型魔物が潜んでいた。新人班だけで対処できない相手ではない。だが、消耗はしただろう。誰かが怪我をし、予定より遅れ、帰り道でさらに危険を呼び込んだ可能性が高い。
シャーロットは、それを戦う前に避けた。
報告書には、こう残った。
予定通り帰還。
ただ、それだけだった。
ノアはその時、はっきりと思った。
この子は、銀翼に必要だ。
攻撃魔法使いとしてだけではない。戦場を整える者として。新人を壊さず、低ランク帯を支え、前線を安定させる者として。
まだBランクの銀翼には、喉から手が出るほど必要な人材だった。
だが、当時の銀翼には、彼女専用の評価項目などなかった。
そんな余裕もなかった。
ノアは現場で見ていたから分かった。古参達も、何となく分かっていた。シャーロットがいると帰還率が上がる。シャーロットがいると怪我が減る。シャーロットがいると遠征が安定する。
言葉にすれば単純だが、それはクランにとって何より大きなことだった。
そして、シャーロットは文句を言わなかった。
攻撃魔法使いとして雇われたはずなのに、支援もした。結界も張った。応急処置もした。索敵も補助した。新人の足運びも見た。疲れた者の荷物を少し持った。危ない道を避けた。撤退路を先に確保した。
誰かが「悪いな」と言えば、彼女は笑った。
「いえ。できることですから」
ノアは会議室で目を閉じた。
記憶の中の十八歳のシャーロットは、泥のついたローブの裾を払いながら、新人に笑いかけている。
「大丈夫です。次は、もう少し早く下がりましょう」
怒らない。
責めない。
ただ、次に生きて帰るための言葉をかける。
あれが、銀翼の黎明期にあった。
ノアはゆっくり目を開ける。
目の前には、整った評価記録がある。
C評価。
D評価。
E評価。
二度目のE評価。
紙の上のシャーロットは、攻撃魔法使いとして成果不足とされている。
ノアは評価記録から手を離した。
「……お前達は、あの頃を知らないのか」
幹部達は何も言えなかった。
知らない者もいた。
知っていたのに、忘れた者もいた。
知ろうとしなかった者もいた。
ノアは静かに告げる。
「古い遠征記録を出せ」
会議室にいた全員が、息を呑んだ。
「十年前からだ。シャーロットが同行した依頼、負傷者数、撤退記録、予定外戦闘、ポーション消費。全部だ」
評価担当の顔がこわばる。
「ノア様、それは……」
「今の評価記録だけでは足りない。銀翼が何を見落としたのか、数字で見る」
ノアの目には、怒りだけではなく、深い悔しさがあった。
「あいつは、最初から役立たずなどではなかった」
その声は低い。
だが、会議室の誰も聞き逃さなかった。
「銀翼がまだ何者でもなかった頃から、あいつは仲間を帰していたんだ」




