第1節 創設者ノア
銀翼の剣の本部に、古い馬車が止まったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
王都の中心区に構えるその建物は、かつてBランククランだった頃とは比べものにならないほど大きい。白銀の旗が掲げられ、正面扉には剣と翼を組み合わせた紋章が刻まれている。Sランククランとして名を上げた銀翼の剣にふさわしい、立派な本部だった。
けれど、今の空気は重かった。
門番の顔には疲労があり、出入りする団員達の足取りはどこか慌ただしい。搬送用の担架が壁際に立てかけられ、工房へ向かう通路には修理待ちの盾や鎧が積まれている。医務室の方角からは薬草と消毒薬の匂いが漂い、奥の廊下では若い団員が何かを叱責されている声が聞こえた。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、灰色の髪を後ろで束ねた男だった。
背は高い。年齢は五十を越えているが、背筋は曲がっていない。左足に少しだけ古傷をかばうような癖があるものの、歩き方にはまだ現場の人間の鋭さが残っている。黒い外套の留め具には、古い銀翼の紋章が使われていた。今の本部で使われている磨かれた紋章ではなく、昔の、少し不格好な剣と翼。
ノア。
銀翼の剣の創設者であり、初代団長。
長く現場から離れていた男だった。
かつては自ら前線に立ち、仲間を集め、資金も人材も足りない中で銀翼の剣を立ち上げた。だが、Sランクへ上がる少し前から、古傷の悪化と外部折衝の増加を理由に現場を離れ、近年は地方支部や支援者との調整、古い縁の整理に回っていた。
完全に銀翼を捨てたわけではない。
だが、日々の運営は今の幹部達に任せていた。
任せられると思っていた。
「ノア様……?」
門番が慌てて姿勢を正す。
ノアは軽く手を上げた。
「久しぶりだな。団長室は空いているか」
「は、はい。ただ、現在は幹部会議中で……」
「ちょうどいい」
ノアは短く言った。
その声に、門番は口を閉じた。
穏やかではない。怒鳴っているわけでもない。だが、長くこのクランにいる者なら分かる。ノアがこういう声を出す時は、冗談で済む話ではない。
ノアは本部の中へ入った。
廊下を歩くたび、団員達が振り返る。若い者の中には、彼の顔を知らない者もいた。だが古参は違う。目を見開き、慌てて頭を下げる。かつての銀翼を知る者にとって、ノアはただの古い幹部ではない。銀翼の剣がまだ小さなBランククランだった頃、泥と血と借金の中で旗を掲げた男だった。
「ノアさん……戻られたんですか」
古参の一人が声をかけた。
ノアは足を止める。
「ああ。銀翼が妙に不安定になっていると聞いてな」
古参は一瞬、言葉に詰まった。
「……お耳に入っていましたか」
「新人の事故が増えた。Dランク部隊の失敗が増えた。遠征費が膨らみ、修理費も上がっている。高難度依頼への集中力が落ちている。医務室が回っていない。そこまでは聞いた」
古参の表情が苦くなる。
「事実です」
「それだけなら、俺はまだ帰ってこなかったかもしれん」
ノアは静かに続けた。
「だが、黒龍討伐の報が来た」
廊下の空気が変わった。
黒龍。
その名は、今の王都で知らない者はいない。城塞区画を半壊させ、複数の村を壊滅させた災害。それを討ったのは、Sランククランではなく、獅子の咆哮の魔法使いだった。
星纏いの魔女。
「獅子の咆哮がSランクへ上がったそうだな」
ノアの声は低い。
「はい」
「その中心にいた魔法使いの名は?」
古参は唇を引き結んだ。
答えを知っている顔だった。
ノアはゆっくりと言った。
「シャーロットだそうだ」
その名が廊下に落ちた瞬間、近くにいた数人が視線を逸らした。
シャーロット。
ついこの間まで銀翼の剣にいた、E評価の攻撃魔法使い。
古いローブを着て、歪んだウィッチハットを被り、濁った魔石のワンドを使っていた女。低ランク帯の依頼に同行し、危険を避け、撤退を支え、応急処置をし、新人達を帰していた女。
そして、銀翼の評価制度によって追放された女。
ノアは古参を見る。
「誰が、あいつを追い出した」
古参は答えられなかった。
それが答えだった。
ノアはそれ以上聞かず、幹部会議室へ向かった。歩く速度は速くない。左足の古傷があるからだ。だが、一歩一歩が重い。廊下にいる団員達は、自然と道を開けた。
途中、掲示板の前で足を止める。
そこには黒龍討伐の記事の切り抜きが貼られていた。誰かが読んだまま置いたものだろう。大きな見出しが目に入る。
『黒龍を討った星纏いの魔女』
『獅子の咆哮、Sランク昇格』
『元銀翼所属との噂』
ノアはその記事を手に取った。
紙面には、絵師が想像で描いた挿絵がある。深い紺色のローブ、星を思わせる帽子、空に広がる魔法陣、黒龍を撃ち抜く白銀の光。
絵はおそらく似ていない。
だが、名前は間違っていなかった。
シャーロット。
ノアは、その名を見て、十年前の小さな少女に近い十八歳の魔法使いを思い出した。
まだ銀翼の剣がBランクだった頃。
資金も、人も、装備も足りなかった頃。
笑って「できることなら手伝います」と言った若い魔法使い。
本職は攻撃魔法使いだったはずなのに、新人の後ろに回り、結界を張り、倒れた者を支え、危険な魔物を遠ざけ、疲れた仲間に「少し休んでください」と声をかけていた。
誰かが命令したわけではない。
評価表に載るからやったわけでもない。
ただ、目の前の仲間が死なないように動いていた。
ノアは記事を握る手に力を込めた。
紙が小さく軋む。
「……E評価だと?」
声は低かった。
怒鳴り声ではない。
けれど、その場にいた団員達の背筋が凍った。
「黒龍を討ったから、ではない」
ノアは誰にともなく呟いた。
「あいつは、最初からそういう魔法使いだった」
その声に、古参の何人かが目を伏せた。
知っている者は、知っていた。
シャーロットが何をしていたのか。
全てを言葉にできなくても、何となく分かっていた者はいた。
だが、分かっていただけだった。
止めなかった。
守らなかった。
評価が下がっていくのを見ていた。
ノアは記事を折り畳み、懐に入れた。
「幹部会議室は、あそこだな」
「はい……」
「通す必要はない。俺が入る」
ノアは会議室の扉の前に立った。
中からは、幹部達の声が聞こえる。
黒龍戦後の対応。スポンサーへの説明。依頼成功率の低下。新人事故への対策。獅子の咆哮のSランク昇格に対する外部評判。そんな言葉が断片的に漏れていた。
ノアはしばらく扉を見つめた。
銀翼の剣。
自分が作ったクラン。
あの頃は、何もなかった。
だからこそ、人を大事にしなければ続かなかった。誰か一人が倒れれば、全員で補った。新人が怪我をすれば、古参が教え方を変えた。装備が壊れれば、資金を工面した。金がなければ、せめて目を配った。
いつからだ。
評価表だけを見て、人を見なくなったのは。
いつからだ。
倒した数だけを見て、死なせなかった数を見なくなったのは。
ノアは、静かに扉を開けた。
会議室の中にいた幹部達が、一斉に振り返る。
「ノア様?」
「いつお戻りに……」
「今だ」
ノアは短く答えた。
そして、会議室の中央へ歩いた。
誰も、席を勧められなかった。
いや、声をかけることさえできなかった。
ノアの視線は、幹部長の前に置かれた資料へ落ちる。そこには、シャーロットの古い評価記録の写しがあった。黒龍討伐後に慌てて確認したのだろう。C、D、E、そして二度目のE。攻撃魔法使いとしての成果不足。高危険度個体への有効打記録不足。前線での攻撃貢献不足。
ノアはそれを見た。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「説明してもらおうか」
幹部達は黙った。
ノアの表情は、先ほどまでと違っていた。
静かだった。
だが、その静けさの奥に、燃え上がるような怒りがあった。
「誰が、シャーロットを追放した」
その問いが、会議室に落ちた。
誰もすぐには答えられなかった。
銀翼の剣の創設者が帰ってきた。
そして彼は、王都中が称える星纏いの魔女の名を、誰よりも古い記憶と共に知っていた。




