第10節 人を死なせない戦場
ソフィアが再び獅子の咆哮を訪れたのは、それから数日後のことだった。
今度は突然ではない。
事前にギルドを通して連絡が入り、移籍相談の記録も残されている。
銀翼の剣への通知も、医務室での引き継ぎも、まだこれからだ。
それでも、ソフィアの腰には小さな書類筒があった。
中には、ギルドで確認した相談記録の写しが入っている。
その日、応接室にはシャーロット、アメリア、レオン、ガルドが揃っていた。
ソフィアは前回と同じように、銀翼の紋章が入った外套を身につけている。
レオンが書類を受け取り、素早く目を通した。
「ギルドの受付印もありますね。少なくとも、今日の来訪がソフィアさん本人の意思によるものだという記録は残っています」
アメリアは頷いた。
「十分よ。契約確認と銀翼への通知は、引き続きギルドを通して進めましょう。今日はその前段階として、あなたが何を学びたいのかを改めて確認したい」
「はい」
ソフィアは姿勢を正した。
その視線は、まっすぐシャーロットへ向いていた。
シャーロットは少しだけ背筋を伸ばす。
黒龍と向き合った時とは違う緊張があった。
戦場では、やるべきことが見える。
結界を張る。
進路を変える。
魔力を整える。
危険を潰す。
けれど、誰かに教えるとなると話が違う。
まして相手は治癒術師だ。
「ソフィアさん」
シャーロットは困ったように口を開いた。
「前にも少し言いましたが、私は本職の治癒術師ではありません。治癒術を教えるなら、きっとソフィアさんの方がずっと詳しいと思います。私ができる回復は、応急処置や基礎的なものが中心ですし……」
「はい。分かっています」
ソフィアは静かに頷いた。
「ヒーラーとしての治療技術なら、私が学んできたものがあります。もちろん、まだ未熟ですし、獅子の咆哮の医務班から学ぶことも多いと思います。でも、私がシャーロットさんにお願いしたいのは、そこではありません」
「そこではない……」
「はい」
ソフィアは両手を膝の上で握った。
「ヒーラーとして治療するのは、私の仕事です。でも、シャーロットさんがしていたのは、怪我を治す前に怪我をさせないことでした」
応接室が静かになる。
ソフィアは頭を下げた。
「人を死なせない戦場の見方を、私に教えてください」
シャーロットは、すぐには答えられなかった。
人を死なせない戦場の見方。
そんな名前で、自分のしてきたことを考えたことはなかった。
銀翼では、攻撃魔法使いとしての成果が足りないと言われた。
獅子の咆哮では、見てもらえた。
そして今、銀翼の治癒術師がそれを学びたいと言っている。
「私……」
シャーロットは視線を落とした。
「うまく、教えられるか分かりません」
ソフィアは顔を上げる。
「はい」
「私自身、銀翼でしていたことも、獅子の咆哮でしていることも、その場で必要だと思って動いているだけのことが多いんです」
シャーロットは指先を膝の上で軽く握った。
「敵がこっちへ来そうだから進路を変える。盾役の腕が下がっているから配置を変える。魔法使いの呼吸が詰まっているから声をかける。撤退路が危ないから先に空ける。そういうことを、どう説明すればいいのか……」
「それでも構いません」
「本当に?」
「はい」
ソフィアは迷わず頷いた。
「分からないところから始めます。私も、すぐに理解できるとは思っていません。でも、知らないままでは、また医務室で同じことを繰り返すだけです」
アメリアが静かに口を開いた。
「シャーロット。これは、あなた一人で全部を背負う話ではないわ」
シャーロットは顔を上げる。
「あなたの感覚を言葉にするには、私達も関わる。戦場指揮の視点なら私が整理できる。記録化ならレオン。前衛側の感覚ならガルドやアクセル。医務班も必要になる」
アメリアは机の上の相談記録を軽く指で叩いた。
「ソフィアさんが学びたいものは、あなた一人の個人技として閉じておくより、獅子の咆哮全体で整理した方がいい」
レオンも頷く。
「教育体系化の第一歩です。もっとも、まずはシャーロットさんの感覚を分解する必要がありますが」
「分解……」
シャーロットは少し不安そうな顔になった。
ガルドが軽く笑う。
「お前の頭の中をそのまま見せられたら、ソフィアが倒れるだろうからな」
「そんなにでしょうか」
「そんなにだ」
ソフィアも少しだけ笑った。
緊張が、ほんの少し和らぐ。
けれど、彼女はすぐに真剣な表情へ戻った。
「治療する人間だからこそ、怪我をする前に何が起きていたのかを知りたいんです。医務室に運ばれてくる前に、戦場で何を見ればいいのか。どこで声をかければいいのか。誰を下げればいいのか」
ソフィアはもう一度、深く頭を下げた。
「お願いします。私を、弟子にしてください」
シャーロットの胸が、大きく鳴った。
弟子。
自分に弟子。
まだ不思議だった。
怖さもある。
自分が誰かを導く側に立っていいのか、今でも分からない。
けれど、前ほど「無理です」とは思わなかった。
一人で完璧に教えなければならないわけではない。
アメリアも、レオンも、ガルドもいる。
ソフィア自身も、分からないところから始めると言っている。
「ソフィアさん」
シャーロットはゆっくり言った。
「私は、師匠と呼ばれるような立派なものではないと思います」
「はい」
「きっと、説明も下手です。最初は分かりにくいと思います」
「はい」
「……怖いです」
ソフィアの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
シャーロットは息を吸い、顔を上げた。
「でも、受けます」
ソフィアの目が揺れた。
「怪我をする人が減るなら、帰れる人が増えるなら。私でよければ、一緒に考えさせてください」
「……ありがとうございます」
ソフィアの声が少し震えた。
彼女はもう一度、深く頭を下げる。
「よろしくお願いします、シャーロットさん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
シャーロットも丁寧に頭を下げる。
ガルドが横でぽつりと言った。
「師匠と弟子っていうより、どっちも頭下げてんな」
「茶化さない」
アメリアが言うと、ガルドは肩をすくめた。
「悪い悪い」
レオンはすでに記録していた。
「ソフィアさん、シャーロットさんへの師事希望。シャーロットさん、条件付きで受諾。指導内容は治癒術ではなく、戦場安定化、負傷予防、撤退判断、低ランク帯支援。教育体制には獅子の咆哮幹部、医務班、訓練担当が関与。開始は移籍手続きおよび受け入れ審査後」
「記録が早いですね」
シャーロットが言うと、レオンは平然と答える。
「案件ですので」
アメリアはソフィアへ向き直った。
「弟子入りの意思は確認したわ。ただし、実際に指導を始めるのは移籍手続きが進んでからよ。銀翼所属のまま頻繁に通うと、話がこじれる可能性がある」
「分かっています」
「それまでは、ギルド手続きと銀翼での引き継ぎを優先しなさい。こちらも受け入れ準備を進める」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「それと、銀翼へ戻った後、もし移籍の件で圧力や不当な扱いがあった場合は、必ず記録を残してギルドへ相談すること。直接一人で抱え込まない」
「はい」
「よろしい」
アメリアは少しだけ表情を緩めた。
「獅子の咆哮は、来る者を誰でも受け入れるわけではない。でも、自分の意思で学ぼうとする者を、雑には扱わないわ」
ソフィアは静かに目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
シャーロットは、そんなソフィアを見ながら、不思議な気持ちでいた。
銀翼の紋章をつけた治癒術師。
かつてなら、医務室で少し言葉を交わすだけだったかもしれない。
その人が今、自分に頭を下げている。
「私にできることを、ちゃんと考えます」
シャーロットが言うと、ソフィアは小さく微笑んだ。
「私も、分からないことを一つずつ聞きます」
「たくさん分からないかもしれません」
「覚悟しています」
「私も、説明できないことがたくさんあるかもしれません」
「そこは、一緒に考えます」
そのやり取りに、アメリアが満足そうに頷いた。
「いいわね。その姿勢なら、始められる」
ガルドが言う。
「まあ、最初の講習でソフィアが頭抱える未来は見えるけどな」
「ガルドさん」
シャーロットが少し責めるように見る。
「いや、事実だろ。お前の普通は普通じゃねえんだから」
ソフィアは少しだけ緊張した顔になる。
「やはり、かなり難しいでしょうか」
レオンが即答した。
「かなり難しいです」
「レオンさんまで……」
シャーロットは肩を落とす。
アメリアが軽く笑った。
「だからこそ、受け入れが決まったら、最初の講習は訓練場で行いましょう。実際に隊列を組ませて、あなたが普段何を見ているのかを一つずつ確認するの」
「訓練場で、ですか?」
シャーロットが目を瞬かせる。
「ええ。応接室で言葉だけ聞いても、きっと分からないわ。あなたの見方は、実際の動きと一緒に見た方がいい。ソフィアさんがどこでつまずくかも分かるし、私達も整理しやすい」
ソフィアは背筋を伸ばした。
「お願いします。許可が下りたら、必ず参加します」
「その前に、まずは銀翼での手続きを進めること。無理に通おうとしないこと。そこを間違えると、あなた自身が苦しくなるわ」
「はい」
シャーロットは少しだけ不安そうにしながらも、頷いた。
「分かりました。うまく説明できるか分かりませんが……準備してみます」
ガルドが壁際で笑う。
「始まる前から予防線張ってるぞ、師匠」
「師匠はまだ慣れません」
「慣れろ」
「難しいです」
応接室に小さな笑いが広がった。
ソフィアはもう一度、シャーロットに頭を下げる。
「必ず、手続きを進めてきます」
「はい。待っています」
シャーロットはそう答えたあと、少し迷ってから付け加えた。
「でも、無理はしないでくださいね」
ソフィアは一瞬だけ驚き、それから柔らかく笑った。
「はい。シャーロットさんも」
「私も、ですか?」
「はい」
ガルドが笑う。
「弟子候補にまで言われてるぞ」
「……気をつけます」
シャーロットが小さく頷くと、応接室にもう一度笑いが広がった。
机の上には、ギルドの受付印が押された相談記録が置かれている。
その横に、レオンが新しい紙を重ねた。
一枚目の見出しには、すでにこう書かれていた。
『戦場安定化技術・言語化計画』




