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第9節 銀翼を出る理由

「……分かりました。まずは、お話を聞かせてください」


シャーロットがそう言うと、応接室の空気が少しだけ変わった。


ソフィアは深く息を吐く。


緊張が解けたわけではない。


むしろ、ここからが本題だと分かっている顔だった。


アメリアは机の上で指を組み、ソフィアをまっすぐ見た。


「確認するわ。ソフィアさん、あなたは現在、銀翼の剣と所属契約を結んでいるのよね?」


「はい。医務室所属の治癒術師として契約しています」


「契約期間は?」


「残り八か月です。ただし、治癒術師の補充や引き継ぎが完了すれば、期間途中でも退団申請は可能と記載されています」


レオンが即座に記録する。


「違約金の有無は?」


「一方的な即時退団の場合は発生します。ただ、通告期間を置き、医務室業務の引き継ぎを行えば免除される可能性があります。契約書の写しは持ってきていませんが、内容は確認済みです」


「可能性、ね」


アメリアは小さく呟いた。


「銀翼が素直に認めるとは限らないわ」


「分かっています」


ソフィアは両手を膝の上で握った。


「でも、逃げ出すつもりはありません。申請します。ギルドにも相談します。必要な引き継ぎも行います」


「そこは大事ね」


アメリアの声は厳しかった。


「獅子の咆哮は、銀翼から人材を奪うためにあなたを呼んだわけではない。あなたが自分の意思で訪ねてきた。それを証明する必要がある」


ガルドが壁際で腕を組み直す。


「外から見りゃ、黒龍戦で名が上がった獅子の咆哮が、銀翼の若い治癒術師まで引き抜いたようにも見えるからな」


「はい。その点も、覚悟しています」


「覚悟だけじゃ足りねえぞ」


ガルドの声は低い。


「シャーロットが出た直後だ。黒龍戦の件もある。そこにお前まで獅子の咆哮へ移りたいと言ったら、銀翼がどう受け取るか分からねえ。嫌味、引き止め、契約、医務室の人手不足。いくらでも止める理由は作れる」


「それでも、進めます」


ソフィアの声は大きくなかった。


けれど、はっきりしていた。


「銀翼に恩がないとは言いません。雇っていただいたことも、治癒術師として働く場所を与えられたことも事実です。医務室に残っている患者さん達を、放り出すつもりもありません」


そこで一度、言葉を切る。


「でも、私自身がどこで何を学び、どういう治癒術師になりたいかは、私が決めたいんです」


シャーロットは、静かにソフィアを見ていた。


銀翼を出る。


その言葉に、胸の奥が少し固くなる。


自分は追い出された。


けれど、ソフィアは自分で出ようとしている。


記録を読み、自分の目で異変を見て、ここまで来た。


「ソフィアさん」


シャーロットが口を開いた。


「銀翼を出ることは、本当に後悔しませんか?」


ソフィアは少しだけ目を伏せた。


「後悔が一つもない、と言えば嘘になります。医務室には私を頼ってくれる方もいます。先輩も、新人の方も、怪我をした時に名前を呼んでくれるようになりました」


「はい」


「置いていくようで、苦しくないわけではありません。でも、今のままでは、治しても治しても怪我人が増えるだけです」


ソフィアは、机の上の覚え書きに視線を落とした。


「なぜ怪我が増えたのかを見ようとしない場所で、私はずっと同じことを繰り返すことになります」


応接室の中が静かになった。


アメリアも、ガルドも、レオンも、すぐには口を挟まなかった。


「私は治癒術師です。怪我を治すことが仕事です。でも、怪我が起きる前にできることがあるなら、それも知りたい。私は、そういう治癒術師になりたいんです」


アメリアは小さく頷いた。


「分かったわ。では、獅子の咆哮側としての条件を話すわね」


「はい」


ソフィアは姿勢を正した。


「まず、あなたの自由意思確認。これはギルド立ち会いで行う。銀翼から圧力を受けていないか、獅子の咆哮が不当な勧誘をしていないか、あなた自身がどういう目的で移籍を希望しているのか。全部記録に残す」


「承知しています」


「次に、契約確認。現在の銀翼との契約書を確認し、途中退団の条件、違約金、通告期間、医務室の引き継ぎ義務を見る。これはレオンと、必要ならギルドの契約担当にも見てもらう」


レオンが静かに頷いた。


「契約書の写しを用意してください。原本を持ち出せない場合は、ギルドで閲覧確認を行う形でも構いません」


「分かりました」


「三つ目。銀翼への通知。これはあなた一人でいきなり出すより、まずギルドに相談した上で進めるべきです。直接幹部へ話すと、感情的に拗れる可能性があります」


ガルドが鼻を鳴らす。


「拗れるだろうな」


「決めつけない」


アメリアが軽くたしなめる。


「ただし、警戒は必要よ。銀翼は今、黒龍戦後の噂で外から注目を浴びている。そこに治癒術師の移籍希望が重なれば、面子の問題として扱われる可能性があるわ」


「はい」


ソフィアは表情を引き締めた。


「四つ目。獅子の咆哮側の受け入れ審査。あなたが優秀な治癒術師であることは、話を聞く限り分かる。でも、うちで働く以上、医務班との相性、クラン方針への理解、低ランク支援への参加可否、そしてシャーロットから何を学びたいのかを確認する必要がある」


「もちろんです」


「うちはシャーロットを師匠として祭り上げて終わりにはしない。彼女自身も、まだ自分の感覚を整理できていない。教育体制にするなら、私とレオン、医務班、訓練担当も関わることになる」


レオンが書類に追記する。


「シャーロットさんの戦場安定化技術は、現状では経験則と直感の比率が高いです。ソフィアさんを受け入れる場合、まずは言語化から始める必要があります」


シャーロットが小さく呟いた。


「言語化……」


ガルドが笑う。


「お前、自分が普段何してるか説明できねえもんな」


「まったくできないわけでは……」


「じゃあ、普段どうやって怪我が起きる前に気付いてるんだ?」


「魔力の流れと、足運びと、視線と、呼吸と、敵の進路と、味方の配置と、地形と、退路を見て……」


「ほら、もう普通じゃねえ」


「えっ」


ソフィアはそのやり取りを聞きながら、目を見開いていた。


今の短いやり取りだけでも、追うべきものが多すぎる。


それを自然に口にするシャーロットも、それを当然のように受け止める獅子の咆哮の幹部達も、銀翼とは違って見えた。


ソフィアは膝の上で、そっと手を握る。


「ソフィアさん」


アメリアの声で、彼女は顔を上げた。


「最後に確認するわ。これは銀翼への反発だけで決めることではないわよ」


「はい」


「銀翼が嫌だから獅子の咆哮へ来る、では続かない。シャーロットに憧れて来るだけでも、たぶん続かない。ここに来れば、医務室も現場も忙しい。低ランク支援にも関わる。見たくない怪我を見ることもある。シャーロットの感覚を学ぶなら、分からないことだらけになると思う」


「……はい」


「それでも?」


ソフィアは両手を膝の上で握った。


「私は、銀翼から逃げたいだけではありません」


その声は、少し震えていた。


けれど、途切れなかった。


「治しても治しても怪我人が増える場所で、何が足りないのかを見てしまいました。怪我を治すだけではなく、怪我が起きる前に何ができるのかを学びたい。だから、獅子の咆哮で学びたいんです」


アメリアはしばらく彼女を見ていた。


その目は厳しい。


けれど、拒絶ではなかった。


「分かったわ」


アメリアは言った。


「獅子の咆哮として、あなたの移籍希望を案件として扱います。ただし、受け入れ決定ではない。まずはギルドへの事前相談、契約確認、銀翼側への通知。その後、うちの医務班と幹部会議で受け入れ審査を行う。最終判断はそれからね」


ソフィアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はまだ早いわ」


アメリアは少しだけ口元を緩める。


「でも、話を聞く価値はあると判断した。それだけよ」


レオンが紙を一枚切り離し、ソフィアへ差し出した。


「ギルド相談用の簡易メモです。今日の来訪が個人意思によるものだったこと、獅子の咆哮側が即時受け入れを決定していないこと、手続き前であることを記録しています」


「ありがとうございます」


「銀翼内で不用意にこの話を広めない方がいいでしょう。手続き前に噂が広がると、あなたの立場が悪くなる可能性があります」


「分かりました」


ガルドが言う。


「一人で抱え込むなよ」


ソフィアは少し驚いたように顔を上げた。


ガルドは視線を逸らす。


「銀翼に戻って何かあったら、ギルドを通せ。直接ここに駆け込んでもいいが、証拠も記録も残した方がいい。あいつらがどう動くか分からねえからな」


「……はい」


ソフィアは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます」


「礼を言うようなことじゃねえ」


シャーロットは二人のやり取りを見て、少しだけ表情を和らげた。


ガルドはまだ警戒している。


けれど、ソフィアをただの銀翼の人間として突き放しているわけではない。


「ソフィアさん」


シャーロットが声をかける。


「はい」


「私も、まだ自分のしていることをうまく説明できません」


シャーロットは、机の上の覚え書きへ視線を落とした。


「怖くないわけではありません。銀翼の記録を見るのも、銀翼から来た人とこうして話すのも、まだ少し怖いです」


ソフィアは、息を呑んだ。


ガルドが壁際で姿勢を変える。


アメリアは何も言わず、シャーロットの言葉を待った。


「でも、怪我をする人が減るなら、帰れる人が増えるなら、一緒に考えたいです」


ソフィアの目が、少しだけ潤んだ。


「ありがとうございます」


「ただ、本当に難しいと思います。私も、アメリアさんやレオンさんに手伝っていただかないと、説明できないことが多いので」


「それでも構いません。分からないところから、始めたいです」


その言葉に、レオンが小さく反応した。


「その姿勢は重要です。最初から理解できると思わない方がいいでしょう」


「レオンさん、そこまで難しいんですか?」


シャーロットが不安そうに聞くと、レオンは真顔で答えた。


「はい。かなり」


「かなり……」


「シャーロットさんの感覚は、複数の分野が同時に混ざっています。魔力感知、戦術判断、心理観察、身体動作の読み取り、結界配置、撤退路設計、負傷予測、簡易回復判断。普通は分業するものです」


「そうなんですね……」


ガルドが呆れたように言う。


「お前が一番分かってねえんだよな」


「すみません」


「謝るところじゃねえ」


アメリアが軽く手を叩いた。


「今日の相談はここまでにしましょう。ソフィアさん、次はギルド相談後に連絡を。こちらも医務班と幹部会議へ共有しておくわ」


「はい。必ず」


ソフィアは立ち上がり、深く頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました」


「こちらこそ。気をつけて戻って」


アメリアが言うと、ソフィアは一度だけシャーロットへ向き直った。


「シャーロットさん」


「はい」


「私は、必ずまた来ます。その時は、手続きを進めた上で、改めてお願いさせてください」


その声には、まだ緊張が残っていた。


それでも、目は逸らさなかった。


シャーロットは少しだけ迷い、それから柔らかく微笑んだ。


「はい。待っています」


ソフィアはもう一度頭を下げ、応接室を出ていった。


銀翼の紋章が入った外套が、廊下の向こうへ消える。


その背中を見送りながら、シャーロットはぽつりと言った。


「銀翼から、移籍……」


ガルドが腕を組んだまま答える。


「簡単じゃねえだろうな」


アメリアも頷く。


「でも、あの子の意思は本物だと思うわ」


レオンは記録をまとめながら言った。


「銀翼側にとっては痛い動きになるでしょう。シャーロットさんに続き、若い治癒術師まで離脱希望。理由も、負傷予防と戦場安定化を学ぶためです」


応接室に、少しだけ沈黙が落ちた。


シャーロットは、ソフィアが去った廊下を見つめたまま、小さく呟く。


「私に、できるでしょうか」


アメリアが隣で答える。


「一人でやろうとしなければ、できるわ」


「一人で……」


「ソフィアさんを育てるなら、あなた一人の仕事じゃない。獅子の咆哮として、あなたの感覚を言葉にする。教えられる形にする。これはクラン全体の仕事よ」


レオンも頷く。


「教育体系化の第一歩です」


ガルドが笑った。


「まずは、お前が自分の異常さを自覚するところからだな」


「またそこからなんですね」


「そこからだ」


シャーロットは少し困った顔をした。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


ソフィアが置いていった覚え書きの写しが、机の上に残っている。


撤退前判断。


進路変更。


魔力切れ予兆。


隊列修正。


紙の上の文字を見て、シャーロットはそっと指先を置いた。


「……頑張ります」


アメリアがすぐに目を細める。


「無理はしない」


「はい。頑張りすぎないように頑張ります」


「言い方が怪しいわね」


ガルドが笑い、レオンが何かを記録しようとして、シャーロットが慌てて止める。


応接室に、少しだけ明るい空気が戻った。


獅子の咆哮の本部を出たソフィアは、王都の通りで一度だけ振り返った。


銀翼の紋章が入った外套を握る。


息を整えてから、レオンにもらったメモを鞄にしまった。


「……必ず、また来ます」


小さく呟き、ソフィアはギルドの方へ歩き出した。

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