第9節 移籍相談
ソフィアが再び獅子の咆哮を訪れたのは、それから数日後のことだった。
今度は突然ではなかった。事前にギルドを通して連絡があり、銀翼の剣との契約内容の確認も始まっている。契約期間は残っているが、一定の通告期間と医務室での引き継ぎを行えば、途中退団は不可能ではない。違約金についても、即時退団でなければ免除される可能性が高いと、ギルドの契約担当は判断したらしい。
もちろん、簡単な話ではない。
銀翼側への正式な通知はこれからだ。医務室の人員配置もある。ソフィアが抜ければ、ただでさえ負担の増えている銀翼の医務室はさらに苦しくなる。銀翼が素直に送り出すかどうかも分からない。
それでも、手続きは動き始めていた。
その日、応接室にはシャーロット、アメリア、レオン、ガルドが揃っていた。前回と同じように、ソフィアは銀翼の紋章が入った外套を身につけている。けれど、今日は腰に小さな書類筒を提げていた。中にはギルドで確認した契約内容の写しと、移籍相談の記録が入っている。
「ギルドには、私個人の自由意思による移籍希望であると記録していただきました」
ソフィアは椅子に座る前に、まずそう報告した。
「獅子の咆哮からの勧誘ではなく、私からの相談であること。シャーロットさんに師事したい理由が、治癒術の習得ではなく、戦場安定化と負傷予防の学習であること。銀翼との契約に沿って手続きを進める意思があること。それらも記録されています」
レオンが書類を受け取り、素早く目を通す。
「ギルドの受付印もありますね。これなら、少なくとも獅子の咆哮による一方的な引き抜きとは扱われにくいでしょう」
「銀翼への通知は?」
アメリアが尋ねる。
「医務室責任者へ先に相談し、その後、正式に幹部へ上げる予定です。ギルドからは、感情的な衝突を避けるため、書面と立会人を用意するよう助言されました」
「賢明ね」
ガルドは壁際で腕を組んだまま、低く言った。
「銀翼が何を言ってくるか分からねえ。記録は残しとけ」
「はい」
ソフィアは素直に頷いた。
前回よりも、応接室の空気は少し落ち着いていた。警戒が消えたわけではない。けれど、ソフィアが衝動だけで動いているわけではないことは、少しずつ伝わっていた。
アメリアは一通りの確認を終えると、表情を少し緩めた。
「では、移籍の手続きについては、ギルドを通しながら進める。獅子の咆哮側でも、医務班と幹部会議で受け入れ審査を行うわ。今日は、その前段階として、あなたが何を学びたいのかを改めて確認したい」
「はい」
ソフィアは姿勢を正した。
その視線は、まっすぐシャーロットへ向いていた。
シャーロットは少しだけ背筋を伸ばす。
黒龍と向き合った時とは違う緊張があった。戦場では、やるべきことが見える。結界を張る、進路を変える、魔力を整える、危険を潰す。けれど、誰かに教えるとなると話が違う。
まして相手は治癒術師だ。
自分は本職の治癒術師ではない。回復魔法は使える。応急処置もできる。簡単な傷を塞ぐことや、魔力回路を落ち着かせることならできる。けれど、ソフィアのように専門的に治癒術を学んだ者へ教えられることなど、本当にあるのだろうか。
「ソフィアさん」
シャーロットは困ったように口を開いた。
「前にも少し言いましたが、私は本職の治癒術師ではありません。治癒術を教えるなら、きっとソフィアさんの方がずっと詳しいと思います。私ができる回復は、応急処置や基礎的なものが中心ですし……」
「はい。分かっています」
ソフィアは静かに頷いた。
「ヒーラーとしての治療技術なら、私が学んできたものがあります。もちろん、まだ未熟ですし、獅子の咆哮の医務班から学ぶことも多いと思います。でも、私がシャーロットさんにお願いしたいのは、そこではありません」
「そこではない……」
「はい」
ソフィアは両手を膝の上で握った。
「治癒術だけではありません」
その言葉に、シャーロットは息を呑んだ。
ソフィアは続ける。
「ヒーラーとして治療するのは私の仕事です」
声は静かだった。
けれど、一つ一つの言葉に芯があった。
「でも、シャーロットさんがしていたのは、怪我を治す前に怪我をさせないことでした」
応接室が静かになる。
ソフィアは頭を下げた。
「人を死なせない戦場の見方を、私に教えてください」
その言葉は、まっすぐだった。
シャーロットはすぐには答えられなかった。
人を死なせない戦場の見方。
そんなふうに、自分のしてきたことを言われたことはなかった。
銀翼では、攻撃魔法使いとしての成果が足りないと言われた。攻撃魔法による討伐実績、高危険度個体への有効打、前線での攻撃貢献。そういう数字で見られ、自分がしていたことは評価表の端にも残らなかった。
獅子の咆哮では、見てもらえた。支えてもらえた。幹部としても迎えてもらえた。
そして今、銀翼の治癒術師が、自分のしてきたことを学びたいと言っている。
治療ではなく。
怪我をさせないことを。
「私……」
シャーロットは視線を落とした。
「うまく、教えられるか分かりません」
ソフィアは顔を上げる。
「はい」
「私自身、銀翼でしていたことも、獅子の咆哮でしていることも、その場で必要だと思って動いているだけのことが多いんです。敵がこっちへ来そうだから進路を変える。盾役の腕が下がっているから配置を変える。魔法使いの呼吸が詰まっているから声をかける。撤退路が危ないから先に空ける。そういうことを、どう説明すればいいのか……」
「それでも構いません」
「本当に?」
「はい」
ソフィアは迷わず頷いた。
「分からないところから始めます。私も、すぐに理解できるとは思っていません。でも、知らないままでは、また医務室で同じことを繰り返すだけです」
アメリアが静かに口を開いた。
「シャーロット。これは、あなた一人で全部を背負う話ではないわ」
シャーロットは顔を上げる。
「あなたの感覚を言葉にするには、私達も関わる。戦場指揮の視点なら私が整理できる。記録化ならレオン。前衛側の感覚ならガルドやアクセル。医務班も必要になる。ソフィアさんが学びたいものは、あなた一人の個人技として閉じておくより、獅子の咆哮全体で整理した方がいい」
レオンも頷く。
「教育体系化の第一歩です。もっとも、まずはシャーロットさんの感覚を分解する必要がありますが」
「分解……」
シャーロットは少し不安そうな顔になった。
ガルドが軽く笑う。
「お前の頭の中をそのまま見せられたら、ソフィアが倒れるだろうからな」
「そんなにでしょうか」
「そんなにだ」
ソフィアも少しだけ笑った。
緊張が、ほんの少し和らぐ。
けれど、彼女はすぐに真剣な表情へ戻った。
「それでも、学びたいです。治療する人間だからこそ、怪我をする前に何が起きていたのかを知りたいんです。医務室に運ばれてくる前に、戦場で何を見ればいいのか。どこで声をかければいいのか。誰を下げればいいのか。どこに結界があれば、重傷にならずに済むのか」
ソフィアはもう一度、深く頭を下げた。
「お願いします。私を、弟子にしてください」
シャーロットの胸が、大きく揺れた。
弟子。
自分に弟子。
まだ不思議だった。
けれど、前ほど「無理です」とは思わなかった。自分一人で完璧に教えなければならないわけではない。獅子の咆哮の皆と一緒に、ソフィアと一緒に、言葉にしていけばいい。
怪我をする人が減るなら。
帰れる人が増えるなら。
自分のしてきたことが、誰かの役に立つなら。
「ソフィアさん」
シャーロットはゆっくり言った。
「私は、師匠と呼ばれるような立派なものではないと思います」
「はい」
「きっと、説明も下手です。最初は分かりにくいと思います」
「はい」
「それでもよければ……」
ソフィアの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
シャーロットは少しだけ微笑んだ。
「一緒に考えることならできます」
ソフィアの目が揺れた。
「怪我をする人が減るなら、帰れる人が増えるなら。私でよければ、一緒に学んでいきましょう」
「……ありがとうございます」
ソフィアの声が少し震えた。
彼女はもう一度、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします、シャーロットさん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
シャーロットも丁寧に頭を下げる。
ガルドが横でぽつりと言った。
「師匠と弟子っていうより、どっちも頭下げてんな」
「茶化さない」
アメリアが言うと、ガルドは肩をすくめた。
「悪い悪い」
レオンはすでに記録していた。
「ソフィアさん、シャーロットへの師事希望。シャーロットさん、条件付きで受諾。指導内容は治癒術ではなく、戦場安定化、負傷予防、撤退判断、低ランク帯支援。教育体制には獅子の咆哮幹部、医務班、訓練担当が関与。正式開始は移籍手続きおよび受け入れ審査後」
「記録が早いですね」
シャーロットが言うと、レオンは平然と答える。
「正式案件ですので」
アメリアはソフィアへ向き直った。
「弟子入りの意思は確認したわ。ただし、実際に指導を始めるのは移籍手続きが進んでからよ。銀翼所属のまま頻繁に通うと、話がこじれる可能性がある」
「分かっています」
「それまでは、ギルド手続きと銀翼での引き継ぎを優先しなさい。こちらも受け入れ準備を進める」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「それと、銀翼へ戻った後、もし移籍の件で圧力や不当な扱いがあった場合は、必ず記録を残してギルドへ相談すること。直接一人で抱え込まない」
「はい」
「よろしい」
アメリアは少しだけ表情を緩めた。
「獅子の咆哮は、来る者を誰でも受け入れるわけではない。でも、自分の意思で学ぼうとする者を、雑には扱わないわ」
ソフィアは静かに目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
シャーロットはそんなソフィアを見ながら、不思議な気持ちでいた。
銀翼の紋章をつけた治癒術師。
かつての自分なら、ただ遠い人だったかもしれない。あるいは、医務室で怪我人を診る人として、すれ違うだけだったかもしれない。
その人が今、自分に頭を下げている。
人を死なせない戦場の見方を教えてほしいと。
「私にできることを、ちゃんと考えます」
シャーロットが言うと、ソフィアは小さく微笑んだ。
「私も、分からないことを一つずつ聞きます」
「たくさん分からないかもしれません」
「覚悟しています」
「私も、説明できないことがたくさんあるかもしれません」
「そこは、一緒に考えます」
そのやり取りに、アメリアが満足そうに頷いた。
「いいわね。その姿勢なら、始められる」
ガルドが言う。
「まあ、最初の講習でソフィアが頭抱える未来は見えるけどな」
「ガルドさん」
シャーロットが少し責めるように見る。
「いや、事実だろ。お前の普通は普通じゃねえんだから」
ソフィアは少しだけ緊張した顔になる。
「やはり、かなり難しいでしょうか」
レオンが即答した。
「かなり難しいです」
「レオンさんまで……」
シャーロットは肩を落とす。
アメリアが軽く笑った。
「だからこそ、最初は試しに一度説明してみましょう。移籍が正式に決まる前でも、今日この場で軽く確認するくらいなら問題ないわ」
「今からですか?」
シャーロットが目を瞬かせる。
「ええ。あなたが普段どう見ているのか、少しだけ話してみて。ソフィアさんがどこでつまずくかも見たいし、私達も整理したい」
ソフィアは背筋を伸ばした。
「お願いします」
シャーロットは少しだけ不安そうにしながらも、頷いた。
「分かりました。うまく説明できるか分かりませんが……」
ガルドが壁際で笑う。
「始まる前から予防線張ってるぞ、師匠」
「師匠はまだ慣れません」
「慣れろ」
「難しいです」
応接室に小さな笑いが広がった。
そして、その笑いの中で、ソフィアの弟子入りは静かに決まった。
まだ正式移籍はこれから。
銀翼との契約も、ギルド手続きも、医務室の引き継ぎも残っている。
それでも、確かに一歩は踏み出された。
銀翼の剣が見落としたものを、学ぼうとする者が現れた。
そしてシャーロットは、自分の見えない功績を、初めて誰かに教える立場になった。




