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第8節 銀翼の治癒術師

束の間の休日の翌日、獅子の咆哮の受付に一人の客が訪れた。


まだ朝の空気が残る時間だった。


訓練場では新人達が準備運動を始め、食堂からは焼きたてのパンと温かいスープの匂いが漂っている。


黒龍討伐とSランク昇格の騒ぎは落ち着き始めていたが、本部の前を通る者達は、今も時折足を止める。


受付に立った若い女性は、銀翼の剣の紋章が入った外套を身につけていた。


「獅子の咆哮の、シャーロットさんにお会いしたいのですが」


受付係は、その紋章を見て一瞬だけ表情を変えた。


銀翼の剣。


シャーロットが十年所属し、E評価で契約を切られたクラン。


今の獅子の咆哮で、その名に何も反応しない者はいない。


それでも受付係は、すぐに落ち着いた声で尋ねた。


「お名前を伺ってもよろしいですか?」


「ソフィアと申します。銀翼の剣の医務室で働いています」


丁寧な所作だった。


腰には治療用具を入れた小さな鞄。


手には、紐でまとめられた数枚の紙を持っている。


「お約束はありますか?」


「いいえ。突然で申し訳ありません。可能であれば、面会の申請だけでもお願いできませんか」


受付係は少し考え、奥へ連絡を入れた。


数分後、受付に現れたのはアメリアだった。


「あなたがソフィアさんね」


「はい」


ソフィアは丁寧に頭を下げる。


「突然の訪問、失礼いたします」


「用件は聞いているわ。シャーロットに会いたいとのことだけれど、銀翼の使者として?」


その問いに、ソフィアは少しだけ表情を引き締めた。


「いいえ。今日は銀翼から命じられて来たわけではありません。私個人の希望です」


「個人の希望」


「はい」


ソフィアは、手元の紙を胸の前で握った。


「シャーロットさんが銀翼にいた頃の記録を読みました。低ランク部隊、新人班、撤退支援、応急処置、探知、結界、魔力調整。そのあたりの記録です」


アメリアは黙って続きを促す。


「持ってきたのは、記録そのものではありません。個人名を伏せて、自分でまとめた数字と覚え書きです。医務室の外へ出してはいけない内容は持ち出していません」


「続けて」


「黒龍討伐の記事も読みました。王国軍の証言も、ギルドの記録も、確認できる範囲で見ました」


ソフィアは、少し言葉を探すように視線を落とした。


「黒龍を討ったことだけではないのだと思いました。シャーロットさんは、その前からずっと、怪我人が出る前の場所を見ていた方なのではないかと」


アメリアの表情が、ほんの少し変わった。


噂を聞いて来た者の言葉ではなかった。


記録を読んで、医務室で数字を見て、自分の足でここへ来た者の声だった。


「中へどうぞ」


アメリアは短く言った。


「ただし、面会には私とレオンが同席するわ。ガルドも近くにいると思って」


「承知しています」


ソフィアはもう一度頭を下げた。


応接室に通されてしばらくすると、シャーロットがやって来た。


昨日の休日服ではない。


今日は幹部としての普段着に、星衣リゲルを軽く羽織っている。腰には星脈晶のヴェガ。星帽ポラリスと星杖シリウスは置いてきていた。


まだ休養期間中のため、装備は最低限だった。


「お待たせしました」


シャーロットは部屋に入るなり、丁寧に頭を下げた。


ソフィアは立ち上がる。


初めて見るシャーロットは、新聞の挿絵とは少し違っていた。


もっと近寄りがたい人を想像していた。


けれど目の前にいる女性は、柔らかく微笑み、来客にきちんと礼をする人だった。


ソフィアは一瞬、言葉を忘れた。


「初めまして。ソフィアと申します」


「シャーロットです。えっと、銀翼の……」


そこまで言って、シャーロットは少しだけ言葉を選んだ。


ソフィアが自分から続ける。


「はい。銀翼の剣の医務室にいます」


その瞬間、部屋の空気がわずかに張った。


ガルドは壁際で腕を組んでいる。


同席者というより、明らかに護衛の位置だった。


アメリアは表情を変えず、レオンは記録用の紙を準備している。


シャーロットだけが、少し困ったように微笑んだ。


「そうでしたか。遠いところ、ありがとうございます。今日は、何か怪我人の件でしょうか?」


「いいえ」


ソフィアは首を振った。


「今日は、私自身のことで来ました」


「ソフィアさんご自身の?」


「はい」


ソフィアは深く息を吸った。


言うべきことは、ここに来るまでに何度も考えていた。


けれど、本人を前にすると、用意していた言葉が少しだけ遠くなる。


彼女は机の上に、持ってきた紙を置いた。


「私は治癒術師です。怪我をした人を治すことはできます。傷を塞ぐことも、出血を止めることも、魔力回路を落ち着かせることも学んできました」


シャーロットは静かに聞いている。


「でも、銀翼では今、怪我人が増えています。新人も、Dランク部隊も、中堅の方々も。治療すれば、その場の傷は塞がります。でも、次の日にはまた別の方が運ばれてくる」


ソフィアの指が、紙の端を押さえた。


「ポーションの消費も増えました。撤退の遅れも、装備破損も、魔力切れも」


アメリアとレオンが視線を交わした。


銀翼の異変は、外にも噂として届いている。


だが、医務室の中から出た言葉には重みがあった。


「過去の記録を読みました。シャーロットさんがいた頃、低ランク帯の重傷者は今より少なかった。撤退失敗も、ポーション消費も少なかった。でも、大きな治療記録としては残っていませんでした」


ソフィアは覚え書きを開く。


そこには、名前を伏せた数字と短いメモが並んでいた。


撤退前判断。


進路変更。


魔力切れ予兆。


隊列修正。


応急処置不要。


「最初は、何の記録なのか分かりませんでした」


ソフィアの声が少し落ちる。


「治療した記録ではないんです。怪我になる前に、何かが変わっている記録でした」


シャーロットの表情が、少しだけ揺れた。


「私が、ですか?」


「はい」


「でも、私はその時に必要だと思ったことをしていただけで……」


「そこを、知りたいんです」


ソフィアの声が、少し強くなった。


「どうすれば、撤退が遅れる前に気付けるのか。どうすれば、魔法使いが暴発する前に止められるのか。どうすれば、盾役の腕が限界になる前に配置を変えられるのか」


彼女は机に置いた手を、ぎゅっと握った。


「私は、怪我を治せます。でも、怪我になる前の見方を知りません」


応接室が静かになった。


シャーロットはすぐに返事ができなかった。


自分が銀翼でしてきたことを、そんなふうに言われたことはなかった。


評価されなかったもの。


当たり前に流れていったもの。


それを、銀翼の治癒術師が知りたいと言っている。


「シャーロットさん」


ソフィアは立ち上がった。


そして、深く頭を下げる。


「私は、あなたが見ていた戦場を学びたいです」


「えっ、あの」


「傷を塞ぐだけでは、間に合わない場面があります。医務室に運ばれてからでは遅い怪我もあります。だから、戦場を見る目を学びたいんです」


ガルドが壁際で口を開いた。


「銀翼の奴が、それを学んでどうする」


声は低かった。


ソフィアは頭を下げたまま答える。


「銀翼のためだけではありません」


「どういう意味だ」


「私は、いずれ銀翼を出るつもりです」


その言葉に、部屋の空気が変わった。


シャーロットが目を見開く。


「出る……?」


「はい。まだ手続きはしていません。ですが、あの場所では、シャーロットさんがしていたことを正しく学べないと思いました」


ソフィアは顔を上げた。


目に迷いはある。


けれど、逃げるための迷いではなかった。


「記録を上げても、幹部の方々には十分に伝わりませんでした。低ランク帯の現場が崩れている理由も、まだ見てもらえていません」


アメリアは黙って聞いている。


レオンのペンが、紙の上を走った。


「私は治癒術師です。怪我を治す人間です。でも、それだけで終わりたくありません。可能であれば、将来的に獅子の咆哮へ移籍したいと思っています」


「移籍……」


シャーロットは完全に固まった。


「獅子の咆哮へ、ですか?」


「はい」


ガルドの目が鋭くなる。


「銀翼が黙って出すと思うか?」


「分かりません」


ソフィアは正直に答えた。


「ですが、私は銀翼の所有物ではありません。契約に沿った手続きは必要ですが、移籍を希望する権利はあります」


その言葉に、ガルドは少しだけ目を細めた。


アメリアが静かに口を開く。


「ソフィアさん。移籍は簡単な話ではないわ。銀翼との契約、ギルドの手続き、あなた自身の立場。確認することが多い」


「承知しています」


「それと、獅子の咆哮側にも受け入れ審査がある。銀翼から人材を強引に引き抜いた形に見えないよう、手順は踏む必要があるわ。あなたの自由意思も、ギルド立ち会いで確認することになる」


「はい」


ソフィアはまっすぐ頷いた。


「今日は、即答を求めに来たわけではありません。まずは、私の意思を伝えに来ました」


レオンが淡々と記録している。


「銀翼所属治癒術師ソフィア。獅子の咆哮への将来的移籍、または研修・見学を希望。目的は治療技術ではなく、戦場安定化、負傷予防、撤退判断、低ランク帯支援技術の習得。手続きは未開始。次回、契約内容確認およびギルド相談が必要」


「記録されると、少し大ごとですね……」


ソフィアが苦笑する。


レオンは真面目に返した。


「大ごとです」


シャーロットは、まだ戸惑っていた。


銀翼の医務室。


自分の名前が残っていた記録。


それを読んで、ここまで来た人。


嬉しいだけではなかった。


少し、怖い。


また銀翼と向き合うことになるのだと思うと、胸の奥が固くなる。


けれど、ソフィアの目を見ていると、追い返したいとは思えなかった。


「ソフィアさん」


シャーロットは、ゆっくり口を開いた。


「私は、本当に特別なことを教えられるか分かりません。自分では、うまく説明できないことも多いです」


「それでも、学びたいんです」


「それに、私は本職の治癒術師ではありません。ソフィアさんに回復魔法を教えるなら、きっと私より詳しい方が……」


「治癒術だけではありません」


ソフィアは静かに首を振る。


「私は、怪我を治すだけではなく、怪我を出さないために何を見ればいいのかを知りたいんです」


シャーロットは口を閉じた。


指先が、膝の上で少しだけ動く。


怖い。


でも、聞きたい。


「……少し怖いです」


小さな声だった。


ソフィアが息を呑む。


シャーロットは、自分の言葉を探すように続けた。


「銀翼の方と、こうして記録の話をするのは。まだ、少し怖いです」


ガルドが壁際で姿勢を変えた。


アメリアは何も言わず、シャーロットを見ている。


シャーロットはソフィアの覚え書きへ視線を落とした。


「でも、ソフィアさんが何を見て、ここまで来たのかは、聞きたいです」


ソフィアの表情が、少しだけ和らいだ。


「ありがとうございます」


「ただ、私一人では判断できません。アメリアさん達にも確認してもらいながらになります。それでもよければ」


「はい。手順に沿って進めていただければ構いません」


アメリアは静かに息を吐き、レオンへ視線を向けた。


「次は、手続きの確認ね。まずは銀翼との契約内容。それから、本人の意思確認。ギルドにも相談するわ」


レオンは頷く。


「はい。感情論ではなく、案件として扱うべきです」


ガルドは壁際で腕を組んだまま、低く呟く。


「銀翼が、簡単に出すとは思えねえけどな」


ソフィアは顔を上げた。


「それでも、進めます」


その声は震えていなかった。


シャーロットは小さく頷き、机の上の覚え書きへ手を伸ばした。


「まずは、見せてください」


ソフィアは、少し驚いたように瞬きをした。


シャーロットは覚え書きの一枚目を開く。


個人名は伏せられている。


それでも、そこには確かに、彼女が銀翼にいた頃の戦場が残っていた。


撤退前判断。


進路変更。


魔力切れ予兆。


隊列修正。


シャーロットは、ゆっくり息を吸う。


「私も、全部うまく言葉にできるか分かりません」


それから、ソフィアを見た。


「でも、一緒に見ます」


ソフィアは深く頭を下げた。


「お願いします」


シャーロットは、覚え書きの端を指で押さえた。


紙は薄い。


けれど、その上に残った文字は、思っていたよりも重かった。

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師弟関係かあ、面白そう
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