第7節 はじめての髪飾り
王都の通りは、昼前から賑わっていた。
露店には焼き菓子や果物が並び、布屋の前では色とりどりの端切れが風に揺れている。行き交う人々の声、馬車の車輪の音、店先から漂う甘い匂い。
シャーロットは、白地に淡い水色の水玉ワンピースを着て、ガルドの隣を歩いていた。
生成り色のカンカン帽を少し深めにかぶり、小さな肩掛けバッグの紐を両手で握っている。
星帽ポラリスはない。
星衣リゲルもない。
星脈晶ヴェガも、星杖シリウスもない。
手が軽い。
軽すぎて、少し落ち着かない。
「……本当に、分かりませんか?」
シャーロットは小さく聞いた。
ガルドが横目で見る。
「何がだ?」
「私だと」
「ああ。分からんだろ」
「そうでしょうか」
「いつもの星装備と印象が違いすぎる。帽子も違うし、ローブもない。杖も持ってない。普通に歩いてりゃ、誰も気付かねえよ」
「普通に……」
シャーロットは、肩掛けバッグの紐を握り直した。
「普通に歩くのが、一番難しい気がします」
ガルドが少し笑う。
「任務じゃねえんだ。そんなに構えなくていい」
「構えているつもりはないのですが」
「構えてる。今にも周囲を探知しそうな顔してるぞ」
「しません」
「ならいい」
そう言われても、癖で魔力の流れを追いかけそうになる。
人混み。
馬車。
路地。
屋根の上。
危険がないか、つい見てしまう。
シャーロットは小さく息を吐いた。
「何も持っていないと、少し不安で」
ガルドは前を向いたまま答える。
「俺がいる」
短い言葉だった。
シャーロットは横を見る。
ガルドはいつも通り、少し雑に歩いているように見える。
けれど、彼の位置はシャーロットと通りの外側の間にあった。
人混みが寄れば、自然に少し前へ出る。
馬車が近づけば、さりげなく歩幅を変える。
「……はい」
シャーロットは小さく頷いた。
しばらく歩いてから、ガルドが聞いた。
「まず、どこに行きたい?」
「……普通の休日って、どこに行くものなんでしょうか」
「適当でいいんだよ。食いたいものを食って、見たい店を見る。疲れたら座る」
「それでいいんですか?」
「それが休みだろ」
「難しいですね」
「難しくすんな」
ガルドは呆れたように言って、近くの露店を指差した。
「じゃあ、あれからだ」
そこには、焼きたての蜂蜜菓子が並んでいた。
小さな丸い生地に蜂蜜が染み込み、表面が薄く照っている。近づくだけで甘い匂いがした。
店主が明るく声をかけてくる。
「いらっしゃい。焼きたてだよ。お嬢さんも一つどうだい?」
お嬢さん。
シャーロットは、自分のことだと気づくのに一拍遅れた。
「え、あ、私ですか」
店主が笑う。
「他に誰がいるんだい。今日はいい天気だし、甘いものがうまいよ」
シャーロットが戸惑っている間に、ガルドが二つ買った。
「ほら」
一つ渡される。
「私、自分で払います」
「今日は幹部になった祝いだ。焼き菓子くらい奢られとけ」
「でも」
「でも、なし。アメリアに“甘いものを食べさせろ”って命令されてる」
「命令なら仕方ありませんね」
「そういうことにしとけ」
シャーロットは両手で蜂蜜菓子を受け取った。
まだ温かい。
少しずつ口に運ぶと、表面はさくりとして、中は柔らかかった。蜂蜜の甘さが広がる。
「……おいしいです」
思わず声が漏れた。
ガルドが少し笑う。
「そうか」
「焼きたては、あまり食べたことがなくて」
「銀翼の頃か?」
シャーロットは少しだけ迷った。
けれど、今日は暗い話にしたくなかった。
「こういうものは、少し贅沢だったので」
「なら、これから食えばいい」
「毎日は駄目だと思います」
「毎日食えとは言ってねえよ」
ガルドは自分の分を一口で半分ほど食べる。
「食べたいなら食べる。見たいなら見る。欲しいなら、少しくらい欲しがれ」
シャーロットは蜂蜜菓子を見下ろした。
「では、練習します」
「練習って言うと休み感がなくなるな」
「すみません」
「謝るな」
「……はい」
二人は菓子を食べながら通りを歩いた。
次に入ったのは、小さな雑貨屋だった。
店内には髪飾り、リボン、香り袋、硝子細工、小さな手鏡などが並んでいる。
シャーロットは、棚の前で足を止めた。
小さな硝子玉の髪飾りがあった。
透明な硝子の中に、淡い青と銀の粒が閉じ込められている。
派手ではない。
けれど、角度を変えると星の欠片のように光った。
「それ、気になるのか?」
ガルドが聞く。
「はい。アメリアさんが選んでくださった服に合いそうで」
シャーロットは髪飾りをそっと手に取った。
値札を見る。
高すぎるものではない。
けれど、必要品ではない。
しばらく見つめてから、棚に戻しかける。
途中で、手が止まった。
欲しいなら、少しくらい欲しがれ。
さっきのガルドの言葉が耳に残っていた。
シャーロットは髪飾りをもう一度見た。
「……これ、欲しいです」
声は小さかった。
ガルドは、にやりと笑ったりはしなかった。
ただ、普通に頷いた。
「買えばいい」
「はい」
「俺が買ってもいいぞ。祝いだしな」
シャーロットは少し考えて、首を振った。
「焼き菓子はいただきました」
「おう」
「これは、自分で買ってみたいです」
ガルドは一瞬だけ目を細めた。
それから、店主の方へ顎をしゃくる。
「じゃあ、行ってこい」
「はい」
シャーロットは髪飾りを持って、店主の前へ行った。
財布から硬貨を出す。
少し手間取ったが、店主は急かさず待ってくれた。
「これをください」
「はいよ。お嬢さんに似合いそうだ」
「ありがとうございます」
店主は小さな紙袋に入れるか聞いたが、シャーロットは少し迷ってから首を振った。
「つけていっても、いいですか?」
「もちろん」
店主が手鏡を貸してくれた。
シャーロットは帽子を少し持ち上げ、髪飾りをそっと髪に留める。
うまく留まったか不安になって振り返ると、ガルドが見ていた。
「変ではありませんか?」
「似合ってる」
短い答えだった。
シャーロットは少しだけ頬を染めた。
「ありがとうございます」
店主がにこにこしながら言う。
「初々しいねえ」
シャーロットは固まった。
「ち、違います」
ガルドが横を向いて笑いをこらえている。
「ガルドさん」
「笑ってねえ」
「笑っています」
「少しな」
雑貨屋を出ると、シャーロットは髪飾りに触れた。
自分で選んだもの。
自分で買ったもの。
必要だからではなく、欲しいと思ったもの。
小さな硝子玉が、指先にひんやり触れる。
「そんなに触ると落とすぞ」
ガルドが言う。
「落としません」
「大事そうだな」
「はい」
シャーロットは素直に頷いた。
「大事です」
その後、二人は本屋の前を通った。
シャーロットの足が自然に止まる。
店先には、魔法理論の本、冒険者向けの地図、料理本、王都案内、詩集が並んでいた。
ガルドが横で腕を組む。
「魔法書は駄目だぞ」
「まだ何も言っていません」
「顔に出てる」
「少し見ただけです」
「買ったら読むだろ」
「読みます」
「休養じゃなくなる」
シャーロットは少しだけ考えた。
確かに、読み始めたら止まらない自信があった。
「では、今日は魔法書はやめます」
「偉い」
「子供扱いでは」
「褒めてる」
「そうですか」
代わりに、シャーロットは料理本の棚を見た。
家庭向けの簡単な料理本。
王都の菓子店案内。
季節のスープの作り方。
少しだけ眺めて、手には取らなかった。
「買わねえのか?」
「今日は、髪飾りを買ったので」
「一冊くらいなら買えるだろ」
「次にします」
「次?」
「はい。次は、自分で買います」
ガルドは少し黙ってから、頷いた。
「そうか」
「はい」
本屋を離れ、広場へ向かう。
広場では、子供達が走り回っていた。
木の枝を杖のように持った子供が、両手を広げて叫ぶ。
「星纏いの魔女だぞー!」
もう一人の子供が、黒い布を背負って走る。
「黒龍だー!」
「黒龍め、覚悟しろ!」
「星の槍でやっつける!」
シャーロットは足を止めた。
顔が一気に熱くなる。
カンカン帽のつばを、少し深く下げる。
ガルドが横で肩を震わせた。
「人気者だな」
「見ないでください」
「無理だろ。目の前でやってる」
「恥ずかしいです」
子供達は楽しそうだった。
怖い黒龍の話なのに、誰も泣いていない。
木の枝を振り、笑いながら走り回っている。
シャーロットは帽子のつばを押さえたまま、小さく呟いた。
「でも……怖い話だけで終わっていないなら、よかったです」
ガルドは少しだけ目を細めた。
「そうだな」
「ただ、星の槍ではありません」
「そこ気にするのか」
「術式としては違います」
「今日は魔法の説明禁止」
「はい……」
二人は広場の端にある喫茶店へ入った。
窓際の席に座ると、店員が紅茶と果物タルトを運んでくる。
アメリアから「甘いものを食べる」と言われていたため、シャーロットは素直にタルトを注文した。
薄く切られた果物が、花のように並んでいる。
フォークで少し切り、口に運ぶ。
「……おいしいです」
ガルドが紅茶を飲みながら笑う。
「今日何回目だ、それ」
「何回でも、おいしいものはおいしいので」
「いい返しだ」
シャーロットは少しだけ胸を張った。
窓の外では、人々が行き交っている。
市場帰りの女性。
荷物を運ぶ商人。
訓練用の木剣を抱えた少年。
犬を連れた老人。
誰も、シャーロットを黒龍討伐の魔法使いとして見ていない。
ただ、喫茶店でタルトを食べている客の一人として、通り過ぎていく。
「楽しいか?」
ガルドが聞いた。
シャーロットはフォークを持ったまま、少し考える。
「はい。とても」
「ならよかった」
「ガルドさんは?」
「俺か?」
「はい。楽しいですか?」
ガルドは一瞬だけ返事に困ったような顔をした。
それから、紅茶のカップを置く。
「まあ、楽しい」
「まあ、ですか」
「かなり」
シャーロットは小さく笑った。
「よかったです」
その笑顔を見て、ガルドは何か言いかけた。
けれど、結局やめてタルトを口に運ぶ。
「甘いな」
「甘いものですから」
「そうだな」
喫茶店を出る頃には、日差しが少し傾いていた。
シャーロットは髪飾りの紙包みを、折り目が崩れないようにバッグへしまっている。
「包み紙まで取っておくのか?」
ガルドが聞く。
「はい」
「大事にしすぎだろ」
「だって、初めて自分で選んで買ったものですから」
そう言ってから、シャーロットは少し恥ずかしくなった。
けれど、取り消さなかった。
「これは、今日のものなので」
ガルドは何も言わず、少しだけ歩調を緩めた。
帰り道、シャーロットは行きよりも少しだけ自然に歩けていた。
人混みはまだ苦手だ。
魔力を探りたくなる癖も、完全には消えない。
それでも、手は肩掛けバッグの紐だけではなく、時々髪飾りへ伸びる。
不安を確かめるためではなく、嬉しさを確かめるために。
獅子の咆哮の本部が見えてきた時、シャーロットは立ち止まった。
「どうした?」
ガルドが振り返る。
シャーロットは少し迷い、それから言った。
「また、行けますか?」
ガルドは目を瞬かせる。
「街にか?」
「はい」
「行けばいいだろ」
「任務ではなくても?」
「普通の日でも行け」
「普通の日でも……」
シャーロットは小さく頷いた。
「はい。また行きたいです」
ガルドは少し笑う。
「次は魔法書も一冊だけなら許可が出るんじゃねえか」
「本当ですか?」
「一冊だけな。五冊は駄目だ」
「三冊なら」
「交渉するな」
シャーロットは少しだけ笑った。
本部の玄関では、アメリアが待っていた。
「おかえり。ちゃんと休めた?」
「はい」
シャーロットは帽子を押さえ、少しだけ照れくさそうに笑う。
「とても、楽しかったです」
アメリアはすぐに、シャーロットの髪飾りに気づいた。
「あら」
「自分で買いました」
「似合っているわ」
「ありがとうございます」
ガルドが横から言う。
「次は包み紙まで取っておくなよ」
「それは、少し考えます」
「考えるのかよ」
アメリアが笑い、シャーロットもつられて笑った。




