第7節 束の間の休日
王都の街は、いつも通り賑やかだった。
石畳の大通りには馬車が行き交い、露店からは焼き菓子や香草肉の匂いが漂っている。商人達の呼び声、子供達の笑い声、冒険者達が酒場の前で交わす大きな声。黒龍討伐の緊張が完全に消えたわけではないが、王都には少しずつ日常が戻り始めていた。
シャーロットは、その人混みの中をガルドと並んで歩いていた。
白地に淡い水色の小花柄のワンピース。生成り色のカンカン帽。ゆるく編み込まれた髪。小さな肩掛けバッグ。足元は歩きやすいストラップシューズ。どこから見ても、休日に街へ出てきた普通の娘だった。
少なくとも、本人はそう言われていた。
「……本当に、分かりませんか?」
シャーロットは小声で聞いた。
ガルドは周囲を見回してから、肩をすくめる。
「分からんだろ。いつもの星装備と印象が違いすぎる」
「落ち着かないです」
「そりゃ、杖もワンドも帽子もローブも置いてきたからな」
「何も持っていないと、少し不安で」
「俺がいる」
短い言葉だった。
シャーロットは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「……はい」
ガルドは何でもない顔で歩いている。本人にとっては普通の返事だったのだろう。けれど、シャーロットの胸には少しだけ残った。
俺がいる。
それは、銀翼にいた頃には聞かなかった言葉だった。
自分が誰かを支えることはあっても、自分の不安を受け止めるように言われることは少なかった。今もまだ、守られる側に立つことには慣れていない。
「まず、どこに行きたい?」
ガルドが聞いた。
シャーロットは通りの左右を見た。焼き菓子の露店、雑貨屋、布屋、本屋、魔導具店、花屋、果物を積んだ屋台。目に入るものが多すぎて、すぐには答えられない。
「……普通の休日って、どこに行くものなんでしょうか」
「そこからか」
「はい」
「適当でいいんだよ。食いたいものを食って、見たい店を見る。疲れたら座る」
「それでいいんですか?」
「それでいい」
シャーロットは少し真面目に考えた。
銀翼にいた頃、街へ出ることはあった。だが、その多くは必要なものを買うためだった。安い櫛、補修用の糸、靴紐、日用品、最低限の食べ物。給料は低く、余裕はほとんどなかった。露店で甘いものを見ても、少し眺めて通り過ぎることが多かった。
欲しいものを選ぶ、という感覚自体が薄かった。
「では、あの焼き菓子を見てもいいですか?」
「ああ」
露店の前では、丸い焼き菓子が鉄板の上でこんがり焼かれていた。蜂蜜と木の実の匂いがする。店主が手際よく焼き上げ、紙に包んで客へ渡している。
「お嬢さん、ひとつどうだい? 焼きたてだよ」
お嬢さん。
自分のことだと気付くまで、シャーロットは少し時間がかかった。
「あ、はい。えっと、一つ……」
「二つ」
隣でガルドが言った。
「ガルドさん?」
「俺も食う」
店主が笑いながら二つ包む。
「仲がいいねえ。はいよ、熱いから気をつけな」
シャーロットが財布を出そうとすると、先にガルドが支払っていた。
「私、自分で払います」
「今日は正式幹部祝いだ。奢られとけ」
「でも」
「こういう時は、ありがとうって言えばいい」
シャーロットは少し困った顔をした。
けれど、ガルドの表情はからかっているだけではなかった。受け取れ、と言われている気がした。正式幹部の時と同じだ。
「……ありがとうございます」
「おう」
焼き菓子を受け取り、二人は通りの端へ寄った。
シャーロットは紙包みをそっと開く。焼きたての菓子から湯気が上がる。外は少し香ばしく、中には蜂蜜と砕いた木の実が入っていた。
一口食べる。
甘い。
温かい。
「……おいしいです」
思わず声が漏れた。
ガルドが横で笑う。
「そんなに感動するほどか?」
「はい。焼きたては、あまり食べたことがなくて」
「そうか」
「銀翼の頃は、こういうものは少し贅沢だったので」
何気なく言ったつもりだった。
けれど、ガルドの表情が少しだけ変わった。
シャーロットは慌てて手を振る。
「あ、でも、今は違います。獅子の咆哮ではちゃんといただいていますし、帰還者用の軽食もありますし。だから、えっと……」
「謝るな」
ガルドは静かに言った。
「謝ることじゃねえ」
「……はい」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
だが、それは重すぎる沈黙ではなかった。ガルドは何も言わず、焼き菓子を食べる。シャーロットももう一口食べた。甘さがゆっくり胸に落ちていく。
「今日は、そういうのを気にしなくていい日だ」
ガルドが言った。
「食べたいなら食べる。見たいなら見る。欲しいなら、少しくらい欲しがれ」
「欲しがる……」
「練習だな」
「それも練習なんですか?」
「お前には必要だろ」
シャーロットは少し考え、それから小さく笑った。
「では、練習します」
「よし」
焼き菓子を食べ終えると、二人は雑貨屋へ入った。
店内には色とりどりのリボン、髪飾り、香り袋、小さな陶器、手帳、ペン、布製の小物入れが並んでいた。魔導具店ではない。魔法使い用の道具もない。ただ、日常を少し楽しくするための小物ばかりだった。
シャーロットは棚の前で立ち止まる。
「こういうもの、たくさんあるんですね」
「雑貨屋だからな」
「見ているだけでも楽しいです」
「なら見ろ」
「はい」
彼女は一つ一つ丁寧に見て回った。薄青のリボン、白い刺繍のハンカチ、小さな花の形をした髪留め。どれも高価なものではない。けれど、必要最低限ではないものだった。
必要ではないけれど、あると嬉しいもの。
シャーロットには、それが少し眩しかった。
「これ、アメリアさんが選んでくださった服に合いそうですね」
彼女が手に取ったのは、小さな硝子玉のついた髪飾りだった。水色と透明の硝子が重なり、光に当たると淡く揺れる。星の形ではない。魔法陣の模様もない。ただ、小さな花のような形をしている。
「いいんじゃねえか」
ガルドが言う。
「でも、今日は服もいただきましたし、これは見ているだけで」
シャーロットはそっと棚に戻そうとした。
その手を、ガルドが止めた。
「買う」
「えっ」
「正式幹部祝いだって言っただろ」
「でも、焼き菓子も買っていただきました」
「焼き菓子と髪飾りを同じ扱いにするな」
「でも」
「欲しいと思ったんだろ」
シャーロットは返事に詰まった。
欲しい。
そう言っていいのか分からなかった。
昔なら、欲しいと思ってもすぐに引っ込めていた。必要かどうかで考え、必要ではないなら戻す。そうするのが当たり前だった。
けれど今日は、欲しがる練習の日だと言われた。
「……少し、いいなと思いました」
「なら買う」
ガルドは店主に声をかけ、髪飾りを買った。
小さな紙袋に入れて渡されたそれを、シャーロットは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
「つけてみろよ」
「今ですか?」
「今」
店内の小さな鏡の前で、シャーロットは恐る恐る髪飾りをつけた。アメリアが整えてくれた編み込みの横に、水色の硝子玉が小さく揺れる。カンカン帽のリボンとも、ワンピースの小花柄ともよく合っていた。
「どうでしょうか」
ガルドは少しだけ黙った。
それから、短く言う。
「似合ってる」
朝と同じ言葉。
けれど、今度は少しだけ柔らかかった。
シャーロットの頬がまた赤くなる。
「……ありがとうございます」
「何回でも言うが、似合ってるものは似合ってる」
「何回も言わなくて大丈夫です」
「そうか?」
「恥ずかしいので」
ガルドは笑った。
店主が二人を見て、にこにこしている。
「いいねえ。初々しいねえ」
「ち、違います」
シャーロットが慌てる。
ガルドは店主に軽く会釈し、シャーロットを促して店を出た。外へ出ると、彼は少しだけ肩を揺らして笑っていた。
「笑わないでください」
「悪い。面白かった」
「もう」
怒っているつもりの声も、あまり強くなかった。
その後、二人は本屋へ寄った。シャーロットは魔法書の棚へ行きかけて、アメリアの「今日は魔法使い要素なし」という言葉を思い出し、途中で止まった。ガルドがそれを見て笑う。
「魔法書は禁止とは言われてねえだろ」
「でも、読み始めたら休養ではなくなる気がします」
「自覚があるだけ進歩だな」
結局、彼女は料理の本と、王都の街歩き案内を少し眺めた。料理の本には、簡単な焼き菓子の作り方が載っていた。シャーロットは興味深そうに見ていたが、買うかどうかで迷い、最終的には「次にします」と戻した。
「次に、か」
ガルドが言う。
「はい。今日は髪飾りをいただきましたから」
「まあ、それならいいか」
次がある。
そう思えるようになっただけでも、大きな変化だった。
通りへ戻ると、広場の方から子供達の声が聞こえてきた。
「星纏いの魔女だぞー!」
「黒龍め、覚悟しろ!」
「ぐわー、やられたー!」
シャーロットは足を止めた。
広場の端で、子供達が遊んでいた。一人の少女が布をマントのように肩へかけ、木の枝を杖に見立てている。別の子供は黒い布をかぶって黒龍役らしい。少女が枝を振ると、周りの子供達が大げさに倒れて笑っていた。
「……」
シャーロットは無言でカンカン帽のつばを下げた。
ガルドが横で肩を震わせる。
「大人気だな、星纏いの魔女」
「聞こえません」
「聞こえてるだろ」
「聞こえません」
「黒龍め、覚悟しろ、だってよ」
「ガルドさん」
「悪い悪い」
そう言いながら、ガルドは全く悪びれていなかった。
子供達のそばを、母親らしき女性達が笑いながら見ている。
「星纏いの魔女様みたいになりたいの?」
「うん! 黒龍をやっつけるの!」
「まずはちゃんとご飯を食べなさいね」
「はーい!」
シャーロットは顔を赤くしたまま、さらに帽子を深くかぶる。
本人がすぐ近くにいるのに、誰も気付かない。
それが少しおかしくて、少し恥ずかしくて、少しだけ嬉しかった。
「嫌か?」
ガルドが聞いた。
シャーロットは少し考えてから、首を振った。
「恥ずかしいです。でも……子供達が怖い話としてではなく、遊びにしてくれているなら、よかったです」
黒龍は災害だった。
城塞を半壊させ、村を壊滅させ、多くの人を傷つけた。あの戦場にいた人達にとっては、忘れられない恐怖だろう。けれど、王都の子供達がそれを遊びにできるくらい日常へ戻れているなら、それは悪いことではない。
「そういうところだよな、お前は」
「何がですか?」
「いや、何でもねえ」
ガルドは小さく笑った。
広場を抜けた先で、二人は小さな喫茶店に入った。
テラス席ではなく、少し奥の落ち着いた席。人目が少なく、ゆっくりできる場所だった。ガルドが選んだのだろう。
「ここなら騒がれにくい」
「騒がれるほどでは」
「星纏いの魔女ごっこ見ただろ」
「……はい」
シャーロットは素直に頷いた。
注文したのは、果物のタルトと温かい紅茶だった。タルトの上には薄く切った林檎が並び、蜂蜜が光っている。紅茶には香草が少し入っていて、疲れた体に優しい香りがした。
「おいしいです」
「今日何回目だ、それ」
「何回でも、おいしいものはおいしいので」
「そうだな」
ガルドは紅茶を飲みながら、向かいに座るシャーロットを見た。
星装備を纏った時の彼女は、確かに星纏いの魔女だった。黒龍の前に立ち、結界を張り、星図を広げ、災害を撃ち抜いた魔法使い。
だが今、目の前にいるのは、焼き菓子で笑い、髪飾りで照れ、子供達の遊びに帽子を深くかぶる一人の女性だった。
どちらもシャーロットだ。
強すぎる魔法使いであり、普通の休日に慣れていない不器用な人でもある。
「楽しいか?」
ガルドが聞いた。
シャーロットは少し驚いたように顔を上げ、それからゆっくり微笑んだ。
「はい。とても」
その答えに、ガルドは少しだけ目を細めた。
「ならよかった」
「ガルドさんは?」
「俺も、まあ楽しい」
「まあ、ですか?」
「かなり」
「言い直しましたね」
「細かいことはいい」
シャーロットはくすりと笑った。
帰り道、夕方の光が王都の屋根を淡く染めていた。
通りの人々はまだ星纏いの魔女の噂をしている。黒龍戦のこと、獅子の咆哮のSランク昇格のこと、新聞の記事のこと。けれど、その噂の中心にいる本人は、誰にも気付かれずに小さな紙袋を大切に抱えて歩いていた。
その紙袋には、髪飾りの包み紙が入っている。
もう髪につけているのに、包み紙も捨てられなかった。
「大事にしすぎだろ」
ガルドが言う。
「だって、正式幹部祝いですから」
「また買えばいい」
「これは、今日いただいたものなので」
ガルドは少しだけ黙った。
「そうか」
「はい」
シャーロットは髪飾りにそっと触れた。
小さな硝子玉が、夕方の光を受けて淡く揺れる。
星ではない。
魔法道具でもない。
けれど、今の彼女にとっては大切なものだった。
獅子の咆哮の本部が見えてくる。
その扉の前で、シャーロットは一度だけ振り返った。
今日の王都は、少し違って見えた。
任務の場所ではない。
買い物のためだけに急いで歩く場所でもない。
誰かを守るために探知し続ける場所でもない。
ただ歩いて、見て、食べて、笑っていい場所。
「また、行けますか?」
シャーロットが聞いた。
ガルドは当然のように答えた。
「行けばいいだろ」
「休養命令が出た時に?」
「普通の日でも行け」
「普通の日……」
シャーロットはその言葉を、少し大事そうに繰り返した。
「はい。また行きたいです」
ガルドは小さく笑う。
「じゃあ、次は魔法書も見ていいんじゃねえか」
「休養になるでしょうか」
「一冊だけならな」
「一冊で済むでしょうか」
「そこは自分で疑うんだな」
二人は顔を見合わせ、少し笑った。
本部の扉が開く。
中からアメリアが顔を出した。
「おかえり。ちゃんと休めた?」
「はい」
シャーロットは、今日一番素直に頷いた。
「とても、楽しかったです」
その答えを聞いて、アメリアは満足そうに微笑んだ。
星纏いの魔女は、その日、星を纏わずに街を歩いた。
黒龍も、戦場も、評価も、肩書きも、ほんの少しだけ遠くに置いて。
ただのシャーロットとして過ごした、束の間の休日だった。




