第5節 幹部部屋
正式幹部就任の書類に署名したあと、シャーロットはそのまま解放されると思っていた。
会議室の外では、まだ団員達が拍手の余韻を残したまま笑っている。厨房係は本当に昼食を一品増やすらしく、廊下の向こうへ小走りで戻っていった。新人達は興奮した様子で「正式幹部だって」「すごい」と囁き合い、職人達は「装備保管場所も見直しだな」と早くも相談を始めている。
シャーロットはその全てに何度も頭を下げていた。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「これからも、よろしくお願いします」
何度言っても足りない気がした。拍手されることにも、祝われることにも、まだ慣れていない。胸の奥がふわふわして、足元が少し頼りない。けれど嫌な頼りなさではなかった。
そんな彼女に、アメリアが声をかけた。
「シャーロット、次に行くわよ」
「次、ですか?」
「ええ。正式幹部になったのだから、部屋も移動するわ」
シャーロットは目を瞬かせた。
「部屋も、ですか?」
「当然でしょう。今までの部屋は幹部候補用。今日からあなたは正式幹部よ」
「でも、今の部屋でも十分すぎるくらいで……」
言いかけたところで、アメリアに見られた。
静かな視線だった。
怒ってはいない。けれど、逃げ道を塞ぐ視線だった。
「また遠慮?」
「……いえ」
「なら行きましょう」
「はい」
ガルドが横で笑った。
「正式幹部就任早々、遠慮癖が出てるぞ」
「癖では……」
「癖だな」
アクセルまで頷いたので、シャーロットは言い返せなかった。
レオンは手元の書類を確認しながら歩き出す。
「部屋の移動に伴い、登録も更新済みです。幹部区画への出入り許可、専用収納の鍵、研究机の使用許可、装備保管棚の管理台帳。すべて準備されています」
「そんなに……」
「正式幹部ですので」
レオンの返答はいつも通り淡々としている。
けれど、シャーロットにはその淡々とした言葉さえ温かく感じた。準備されている。自分の居場所が、最初から用意されている。そんなことに、まだ胸が驚いてしまう。
一行は幹部区画へ向かった。
候補生用の部屋がある区画より、さらに奥。廊下は広く、窓から差し込む光も明るい。壁には落ち着いた色の布飾りがかけられ、床はよく磨かれている。派手ではないが、静かで、落ち着いていて、長く働く者のための場所という感じがした。
アメリアが一つの扉の前で止まった。
「ここよ」
扉は、今までの部屋より少し大きかった。
シャーロットは鍵を渡される。
小さな銀色の鍵。先端には獅子の咆哮の紋章が彫られている。
「私が開けてもいいんでしょうか」
「あなたの部屋よ」
アメリアが言う。
「はい……」
シャーロットは鍵を差し込み、ゆっくり回した。
かちり、と音がする。
扉を開けた瞬間、彼女は動けなくなった。
広い部屋だった。
まず目に入ったのは、大きな窓。淡い光が差し込み、白いカーテンが静かに揺れている。床には柔らかい敷物があり、奥には清潔な寝具が整えられた大きめのベッド。壁際には書斎机と本棚があり、その隣には魔法研究用の机が置かれていた。机の天板には耐熱、耐魔力処理が施されているらしく、端に小さな保護陣が刻まれている。
さらに奥には、装備収納があった。
星帽ポラリスを型崩れさせずに置ける棚。星衣リゲルを掛けられる専用ハンガー。星脈晶のヴェガを収める保護ケース。星杖シリウスを横に寝かせても傷つかない、柔らかい布張りの杖置き。防湿、魔力安定、盗難防止の簡易結界まで組み込まれている。
小さな応接スペースもあった。丸いテーブルと椅子が二脚。温かい飲み物を置ける台。窓際には、花を飾るための細い瓶まである。
そして、部屋の奥の扉の向こうには、個室風呂があった。
湯船。洗い場。洗面台。清潔なタオル棚。温水を通す魔導管。鏡。石鹸や香油を置く小さな棚。
何もかもが、整っていた。
「……ここ、私の部屋ですか?」
声が小さくなった。
アメリアは当然のように頷く。
「そうよ。正式幹部の部屋」
シャーロットは部屋の中へ一歩入った。
足元の敷物が柔らかい。窓から入る光が明るい。空気が清潔で、乾いた埃の匂いがしない。壁に染みもない。寝具は白く、机は広く、収納は十分すぎるほどある。
候補生として最初に通された部屋も、彼女にとっては十分すぎる場所だった。
清潔な寝台。机。収納。洗面台とシャワー。あれだけで、涙が出た。銀翼の剣で評価が下がってから与えられた、狭くて暗い部屋を思い出してしまったからだ。風呂もなく、共有施設を使うことにも肩身の狭さがあり、装備を置けば寝る場所が削られるような部屋。あの場所が、自分には相応しいのだと思っていた。
でも今、目の前にある部屋は、さらに広い。
正式幹部としての部屋。
自分のために整えられた場所。
「……すごい、ですね」
それしか言えなかった。
ガルドが少し離れた場所から言う。
「今度は、遠慮せずに使え」
その声に、胸がきゅっと詰まった。
シャーロットは星衣リゲルの袖を握ろうとして、今日はローブではなく普段着に近い服だったことを思い出し、そっと手を下ろした。
「こんなに広い部屋を、私が使ってもいいんでしょうか」
「いいに決まってるだろ」
ガルドが即答する。
アメリアも続けた。
「幹部の仕事をするなら、休む場所も、考える場所も、装備を安全に保管する場所も必要よ。これは贅沢じゃないわ。あなたが仕事を続けるための環境」
「仕事を続けるため……」
「そう。あなたを飾るための部屋ではなく、あなたを支えるための部屋」
その言葉が、深く入ってきた。
支えるため。
装備と同じだ。
星脈晶のヴェガは、彼女を強くするためではなく、周りを壊さずに魔法を使うためのもの。星帽ポラリスと星衣リゲルは、彼女が無理をしすぎないように補助するためのもの。帰還者用の軽食も、温かい飲み物も、医務確認も、休養命令も、全部同じ。
使い潰すためではなく、支えるため。
シャーロットは、ゆっくり部屋を見回した。
書斎机に触れる。なめらかな木の感触がした。研究机の保護陣を見て、思わず小さく笑う。星杖シリウスの杖置きには、柔らかい布が敷かれていた。星脈晶のヴェガの保護ケースは、三つの核に負担がかからないように内側が分かれている。
職人達が考えてくれたのだろう。
厨房係は、きっとここで食べる夜食も用意してくれると言うかもしれない。
医務班は、休めているか確認しに来るかもしれない。
アメリアは、無理をしていないか見に来るだろう。
ガルドは、からかいながらも様子を見に来る気がする。
レオンは、書類の山を持ってきそうだ。
その想像に、胸が温かくなった。
「泣くか?」
ガルドが小さく聞いた。
からかう声ではなかった。
シャーロットは少しだけ目元を押さえた。
「……今日は、大丈夫です」
「そうか」
「でも、少しだけ、胸がいっぱいです」
「なら、少しで済ませろ」
「はい」
アメリアがそっと近づき、窓際の小さな棚を指差した。
「そこは好きに使っていいわ。花でも、小物でも、本でも。あなたの部屋なんだから」
「私の部屋……」
口に出すと、また胸が震えた。
最初の候補生用の部屋で泣いた時とは違う。あの時は、普通に扱われたことが苦しくて、ほっとして、悲しくて、涙が止まらなかった。自分がどれだけひどい場所にいたのか、初めて思い知らされたような涙だった。
今の涙は、それとは少し違う。
ここまで来たのだと思った。
銀翼を出た日、手持ち鞄一つと、私物のスタッフと、餞別の古い装備だけで歩いていた自分が。
獅子の咆哮で部屋をもらい、装備を作ってもらい、仲間に支えられ、黒龍を討ち、Sランククランの正式幹部になった。
自分には過ぎたものだという気持ちは、まだ消えない。
けれど、それでも。
ここにいていいと言われている。
必要だと言われている。
逃がさないと言われている。
「……大切に使います」
シャーロットは、ゆっくり頭を下げた。
「この部屋も、装備も、いただいた役目も。全部、大切にします」
アメリアが柔らかく笑った。
「大切にするのはいいけれど、使い倒しなさい。飾っておくための部屋じゃないんだから」
「はい」
レオンが書類を確認しながら補足する。
「なお、研究机の使用時は安全結界を起動してください。大型術式の試作は禁止。星杖シリウスの調整は工房立ち会い必須。星脈晶のヴェガの分解確認も職人の許可なしは禁止です」
「禁止事項が部屋にも……」
「あなた用ですので」
「はい……」
ガルドが笑う。
「正式幹部の部屋っていうより、シャーロット対策部屋だな」
「対策されるほどでしょうか」
その場にいた全員が、少しだけ目を逸らした。
「……そうなんですね」
シャーロットは肩を落とす。
アメリアが言う。
「でも、安心して休めるようにも作ってあるわ」
その言葉に、シャーロットは顔を上げた。
「ここでは、ちゃんと休みなさい。研究も、書類も、訓練準備も大切。でも、眠る時は眠る。お風呂に入る時は入る。疲れたら椅子に座る。いいわね?」
「はい」
「返事だけじゃなくて実行」
「はい」
ガルドが隣で腕を組んだ。
「見張りが必要だな」
「必要ありません」
「必要だろ」
「……少しだけなら」
「そこは否定しろよ」
小さな笑いが起きる。
その笑いの中で、シャーロットはもう一度部屋を見回した。
広い窓。清潔な寝具。研究机。書斎。個室風呂。装備収納。小さな応接スペース。自分のための場所。自分が帰ってきていい場所。
胸の奥が、また少し熱くなる。
でも、涙はこぼれなかった。
こらえたのではなく、今は笑っていたかったからだ。
「ありがとうございます」
シャーロットはもう一度言った。
今度は、少しだけまっすぐに。
「私、ここで頑張ります。ちゃんと休みながら」
アメリアが満足そうに頷く。
「最後の一言が大事ね」
ガルドが笑う。
「言質取ったな」
レオンが即座に記録する。
「正式幹部シャーロット、休養遵守を明言」
「記録しなくてもいいです!」
その声に、部屋の中でまた笑いが広がった。
新しい部屋。
新しい役目。
新しい立場。
シャーロットはその真ん中に立ち、少し照れたように笑った。
かつてボロ部屋の隅で、古いローブを畳んでいた魔法使いはもういない。
今ここにいるのは、獅子の咆哮の正式幹部。
星纏いの魔女、シャーロットだった。




