第8節 黒龍討伐
世界から音が消えた。
ほんの一瞬だった。
だが、戦場にいた誰もが、その一瞬を長く感じた。黒龍の咆哮も、兵士達の叫びも、燃える城塞の軋みも、風の音さえ遠ざかる。星杖シリウスの核だけが、夜空を裏返したような白銀の光を宿していた。
シャーロットは、黒龍の核を見ていた。
肉眼ではない。
魔力の流れで見る。鱗の下、筋肉の奥、骨のさらに内側。黒龍の全身を巡る赤黒い魔力が、一瞬だけ喉から胸へ戻る。その流れが重なり、細く開く場所がある。心臓ではない。魔石でもない。龍という災害を龍として成り立たせている、魔力の結び目。
そこを撃つ。
大きく壊すのではない。
焼き払うのでもない。
黒龍だけを終わらせる。
シャーロットの指が、星杖シリウスの軸を強く握った。
手は震えている。魔力回路は熱い。頭の奥に熱を持った針を刺されたような痛みがある。それでも、術式は揺れなかった。
「……通します」
小さな声。
その声に応えるように、地上と空に広がった星図が一斉に輝いた。
次の瞬間、星杖シリウスから放たれた光は、炎でも雷でもなかった。
白銀の線だった。
細い。
あまりにも細い。
黒龍の巨体を前にすれば、針のようにすら見える。だが、その線に込められた魔力密度は、戦場の魔法使い達が本能的に理解できるほど異常だった。太さではない。範囲ではない。威力を外へ広げるのではなく、逃げ場のない一点へ押し込めた、超高密度の魔力。
キィ――――ン。
最初に響いたのは、澄んだ音だった。
星が鳴るような、細く高い音。
その直後、光が黒龍へ届いた。
バシュンッ――。
黒龍の胸元に、白銀の線が吸い込まれる。
鱗は砕けなかった。
肉も爆ぜなかった。
周囲に炎も広がらない。
ただ、光だけが黒龍の魔力の流れに沿って内部へ入り、赤黒い魔力の結び目へ真っ直ぐ届いた。
一拍遅れて、音が来た。
ゴォンッ――!!!
山の内側で巨大な鐘が鳴ったような轟音だった。
黒龍の体が、大きく仰け反る。
「グ、ォ……?」
黒龍の咆哮が、途中で切れた。
赤黒い瞳が大きく開く。翼が震え、爪が地面を掴む。逃げようとしたのか、暴れようとしたのか。だが、そのどちらもできなかった。
空中に張られた星図が光る。
黒龍の巨体を縛るためではない。力任せに封じ込めれば、周囲への反動が大きすぎる。シャーロットの術式は、黒龍の動きを止めるのではなく、崩れ落ちる方向を決めていた。
倒れるなら、城塞の残骸側へ。
負傷者搬送路とは逆へ。
王国軍の列から外して。
避難民へ続く道を塞がずに。
黒龍の四肢が揺れる。尾が暴れかけた瞬間、外周陣が淡く光り、軌道をわずかに逸らした。翼が開きかけると、上空の陣が風の抜け道を作り、衝撃を空へ逃がす。
黒龍だけが崩れていく。
戦場は壊さない。
味方は巻き込まない。
災害級の魔力を放ちながら、被害を一点へ閉じ込めている。
王立研究院の魔法使い達は、完全に言葉を失っていた。
「……撃ったのか」
誰かが呟いた。
「いや、違う。撃っただけじゃない」
別の研究者が、震える声で言った。
「崩壊まで制御している……」
黒龍の胸元で、白銀の光が再び瞬いた。
今度は外へ広がらない。内部で、赤黒い魔力の結び目だけを断ち切るように走る。
バキンッ。
硝子が割れるような音がした。
黒龍の全身に走っていた赤黒い筋が、一斉に乱れた。
「グォォォォォォォォォォッ!!」
黒龍が叫ぶ。
それは怒りではなかった。
苦痛でも、威嚇でもない。
災害そのものが、自分の中心を失った音だった。
巨体が傾く。
地面が震える。
王国軍の兵士達が身を伏せ、Sランククランの前衛達が盾を構える。銀翼の剣の冒険者達も、反射的に防御姿勢を取った。
シャーロットは星杖シリウスを握ったまま、最後の制御を行った。
「左へ……いえ、もう少し奥へ」
外周陣が光る。
黒龍の倒れる向きが、わずかに変わる。
「尾の衝撃を上へ」
空中陣が光る。
黒龍の尾が地面へ叩きつけられる寸前、衝撃の一部が上空へ逃がされる。
ドゴォォォォォォォンッ!!
黒龍の巨体が、焼けた城塞外側の荒地へ沈んだ。
地面が大きく揺れ、土煙が立ち上る。崩れた城壁の残骸がさらに砕け、遠くの弩砲の台座がきしんだ。だが、防衛線は潰れなかった。負傷者搬送路も残った。王国軍の列も、避難路も、獅子の咆哮が守っていた場所も無事だった。
黒龍は倒れた。
まだ息があるかのように、巨大な体が一度だけ震えた。
赤黒い魔力が喉元に集まりかける。
最後の息吹。
それを見た瞬間、複数の魔法使いが顔を青ざめさせた。
だが、シャーロットはすでに見ていた。
「させません」
星杖シリウスの核が、もう一度だけ白銀に光った。
今度の光はさらに細い。
黒龍の喉奥へ向かい、集まりかけた魔力だけを撃ち抜く。
シュンッ――ゴンッ!
鈍い音。
黒龍の喉の赤黒い光が消えた。
次に、胸の奥で白銀の光が小さく瞬く。
黒龍の魔力が、完全に途切れた。
沈黙。
今度こそ、本当の沈黙だった。
黒龍は動かない。
翼も、尾も、爪も、喉も。
巨大な黒い体だけが、焼けた荒地に横たわっている。
誰も声を出さなかった。
王国軍も。
Sランククランも。
銀翼の剣も。
王立研究院の魔法使い達も。
獅子の咆哮でさえ、一瞬だけ言葉を失っていた。
先に動いたのは、シャーロットだった。
彼女は星杖シリウスをゆっくり下ろした。
地上と空に広がっていた魔法陣が、一つずつ淡く消えていく。外周陣、防護陣、識別陣、空間固定陣、余波制御陣。星図の光がほどけ、焦げた戦場に現実の色が戻っていく。
「……討伐、完了です」
いつものように、静かな声だった。
まるで、大きな訓練を終えた後の確認のように。
けれど、その声を聞いた瞬間、戦場のあちこちで膝が崩れた。
緊張が切れた兵士が座り込む。
魔法兵がワンドを落とす。
Sランク冒険者が、信じられないものを見る目で黒龍を見つめる。
「黒龍を……」
「討った……?」
「今の一撃で……?」
誰かが呟くたび、現実が少しずつ追いついてくる。
黒龍が倒れている。
城塞区画を半壊させ、村を壊滅させ、王国軍とSランククランを押し潰しかけた災害が、たった今、沈黙した。
その中心に立っているのは、深い紺色のローブと帽子を纏った一人の魔法使いだった。
シャーロットは、ふらつかなかった。
倒れもしなかった。
だが、ガルドは気付いた。
星杖シリウスを握る右手が震えている。
ほんのわずかではない。さっきより明らかに強い。彼女はそれを隠すように、杖を両手で持ち直した。額には汗が浮かび、唇の色も少し薄い。星衣リゲルが魔力循環を補助しているにもかかわらず、魔力回路の熱がまだ引いていないのだろう。
「シャーロット」
ガルドが低く呼ぶ。
「はい」
返事はある。
「手、震えてるぞ」
「少しだけです」
「その少しは信用しないって言ったよな」
シャーロットは困ったように笑おうとした。
だが、その笑みは少しだけ弱かった。
アメリアがすぐに駆け寄ってきた。
「シャーロット、座りなさい」
「でも、負傷者の確認を」
「座りなさい」
声が低い。
シャーロットは反射的に背筋を伸ばした。
「はい」
ガルドが半ば強引に近くの崩れていない石へ座らせる。アメリアは彼女の顔色を確認し、手を取った。指先が熱い。魔力回路に負荷が残っている。
「レオン! 医務班を!」
「呼んでいます!」
「ポラリスとリゲルの反応も確認。シリウスは使用後点検。ヴェガも後で見るわ。シャーロット、気分は?」
「少し頭が重いです」
「他は?」
「手の震えと、魔力回路が少し熱いです」
「少し?」
「……少しより、少し多いです」
「正直でよろしい」
アメリアの声は怒っていた。
だが、その怒りは震えていた。
心配している怒りだった。
シャーロットは小さく頭を下げる。
「すみません」
「謝る前に休みなさい。あなたは今、黒龍を討ったのよ。後処理まで全部やろうとしない」
「はい……」
ガルドが星杖シリウスを支えながら、ため息をついた。
「まったく。古の古代兵器どころじゃねえな」
「古代兵器ではありません」
シャーロットは弱々しくも反論した。
「魔法使いです」
「黒龍を一点で撃ち抜いて、周りを壊さず、倒れる方向まで制御する魔法使いがどこにいる」
「ここに……」
「そういう返しじゃねえ」
ガルドは呆れながらも、少し笑った。
周囲では、ようやく歓声が上がり始めていた。
最初は一人。
次に数人。
やがて王国軍の兵士達が剣や槍を掲げ、Sランク冒険者達も声を上げた。
「黒龍討伐!」
「黒龍が倒れたぞ!」
「防衛線、維持!」
「生き残った……!」
歓声は戦場を揺らした。
その中で、銀翼の剣の者達だけは、すぐには声を上げられなかった。
彼らの視線は、黒龍ではなくシャーロットに向いていた。
E評価で追放した魔法使い。
攻撃魔法使いとして成果不足とされた女。
補修だらけのローブと濁った魔石のワンドを渡され、最後に「ありがとうございます」と言って去っていったはずの者。
その彼女が、王国軍とSランククランが止められなかった黒龍を討った。
しかも、ただの大火力ではない。
防衛線を守り、味方を巻き込まず、黒龍の核だけを撃ち抜き、倒れる方向まで制御して。
「……あり得ない」
銀翼の幹部の一人が呟いた。
だが、その声には否定する力がなかった。
目の前に結果がある。
黒龍は倒れている。
シャーロットはそこにいる。
現実が、評価表を踏み潰していた。
王国軍の指揮官が、呆然としながらも兜を脱いだ。
「獅子の咆哮の魔法使い……名は」
近くにいた獅子の咆哮の団員が、胸を張って答えた。
「シャーロットです」
別の団員が、小さく付け加える。
「うちでは、星纏いの魔女って呼ばれてます」
その言葉は、まだ小さかった。
けれど、近くにいた兵士達の耳に入った。
「星纏いの魔女……」
誰かが繰り返す。
深い紺色の星衣リゲル。
星帽ポラリス。
腰の星脈晶のヴェガ。
手にした星杖シリウス。
黒龍を討った白銀の星図。
その姿を見れば、その呼び名はあまりにも自然だった。
シャーロット本人は、それに気付いていない。
彼女はアメリアに怒られながら、医務班に手を見られていた。
「本当に少しだけです」
「少しだけで黒龍は倒れないわ」
「でも、倒れました」
「そういう話ではないの」
「はい……」
そのやり取りを聞いて、ガルドが笑った。
戦場に、少しずつ息が戻っていく。
黒龍は倒れた。
王国は救われた。
だが同時に、この戦場にいた全員が知ってしまった。
星を纏う魔法使いがいることを。
そして、その魔法使いを、かつて銀翼の剣がE評価で手放していたことを。




