第7節 星杖シリウス②
星杖シリウスの魔法陣は、地上だけでは収まらなくなっていた。
焦げた石畳を走っていた青白い線が、崩れた城壁の残骸を越え、黒龍の足元を囲み、さらに空へ伸びていく。光の円が一つ、二つ、三つと上空に浮かび、互いに細い線で結ばれていった。まるで戦場の上に、巨大な星図が描かれているようだった。
黒煙に覆われていた空が、淡い光に照らされる。
魔法陣の一つは、黒龍の右翼の可動範囲を押さえる位置にある。別の一つは、息吹の余波を上空へ逃がすための導線。さらにその外側には、王国軍やSランククランの魔力反応を術式対象から外す識別陣が組み込まれていた。
王立研究院の魔法使い達は、もはや解析ではなく観測に近い状態になっていた。
「外周陣が増えた……いや、増えたのではなく、分裂している?」
「違う。最初から増殖を前提に組んでいたんだ。戦場の変化に合わせて、必要な場所に術式を伸ばしている」
「そんな大型術式があるか」
「目の前にある」
「制御者は一人だぞ」
「だから分からないんだ」
彼らの声には、恐怖と興奮が混じっていた。
魔法使いにとって、目の前の光景は悪夢であり、同時に到達点でもあった。災害級の魔力を扱いながら、味方を巻き込まず、余波を設計し、対象だけを撃ち抜く。そのための術式が、戦場で即興に近い形で組み上がっている。
普通なら、王立研究院の塔一つを使って準備する規模だ。
何十人もの魔法使いが計算し、何日もかけて陣を描き、発動時には王国軍が周囲を封鎖するような術式。それを、シャーロットは黒龍の目の前で、戦闘を続けながら構築している。
異常だった。
けれど、それ以上に精密だった。
黒龍が左へ動こうとすれば、足元の空間固定陣がわずかに光を強める。完全に拘束するのではない。強く縛れば、黒龍は力任せに砕こうとする。だから、ほんの少しだけ重くする。踏み出しを遅らせ、向きを誘導し、次の魔法陣の範囲へ入るように流す。
右の翼が開けば、上空の陣が風の逃げ道を作る。黒龍の翼圧を押し返すのではなく、横へ逃がし、地上の兵士達へ直撃しないように散らす。
尾が振られれば、外周陣の一部が光り、衝撃の抜け道を作る。完全には止められない。だが、直撃を避けるだけの半拍を生む。その半拍で、アクセルやガルドが飛び込み、前衛達が位置を変える。
シャーロットの術式は、黒龍を一方的に押さえ込むものではなかった。
戦場の全員が生き残るための余白を作る術式だった。
「すごい……」
王国軍の若い魔法兵が、思わず呟いた。
その横で、銀翼の剣の魔法使いが唇を噛んでいた。
彼も魔法使いだ。だから分かる。今、シャーロットがしていることの異常さが。攻撃魔法の出力だけなら、まだ理解できたかもしれない。強い魔法使いはいる。膨大な魔力を持つ者も、稀にはいる。
だが、これは違う。
攻撃、結界、空間、識別、誘導、余波制御、味方保護。
それらを同時に組み、黒龍の動きに合わせて変化させている。
銀翼の評価表にあった「攻撃魔法による討伐実績」だけでは、絶対に測れない力だった。
「……俺達は、何を見ていたんだ」
銀翼の魔法使いの呟きは、誰にも拾われなかった。
黒龍が吼えた。
グォォォォォォォォォォッ!!
咆哮が魔法陣を震わせる。地上の光が波打ち、空中の星図が一瞬だけ歪んだ。兵士達が膝をつき、Sランク冒険者達も顔をしかめる。黒龍の魔力は、術式そのものを押し潰そうとしていた。
シャーロットの手が、わずかに震えた。
星杖シリウスを握る指先に力がこもる。白い指が、黒銀の軸を強く掴んだ。星衣リゲルが魔力循環を補助し、星帽ポラリスが情報を整理する。それでも、負荷は消えない。
魔力の量は足りている。
密度も、制御も足りている。
足りないのは、身体の方だった。
これほどの大型術式を、黒龍の魔力圧の中で維持する。戦場全体を見て、味方の位置を外し、黒龍の核を探り、逃走経路を塞ぎ、余波の逃げ道を作る。演算が頭の奥で熱を持ち、魔力回路が内側から焼けるように熱くなっていく。
それでも、シャーロットは術式を乱さなかった。
「シャーロット!」
アメリアの声が飛ぶ。
「顔色が悪い! 負荷は?」
「……まだ、いけます」
「答えになってないわ!」
「完成まで、あと少しです」
アメリアは歯を食いしばった。
止めたい。
今すぐ休ませたい。
けれど止めれば、黒龍を止める手段がなくなる。王国軍もSランククランも、すでに限界に近い。先ほどの息吹を防げたのは、シャーロットがいたからだ。次の息吹を許せば、今度こそ防衛線が崩れる。
アメリアは叫んだ。
「全員、あと少し持たせて! シャーロットの術式が完成するまで、黒龍を動かさない!」
「了解!」
獅子の咆哮の団員達が応じる。
アクセルが黒龍の前脚へ踏み込んだ。
「こっちだ、黒龍!」
大剣が鱗へ叩き込まれる。
ガァァンッ!
深い傷にはならない。だが、黒龍の意識を引くには足りた。黒龍の視線がアクセルへ向く。その瞬間、別の方向からガルドが飛び込む。
「よそ見してんじゃねえ!」
大剣が黒龍の爪の付け根を狙う。
ギィンッ!
火花が散る。ガルドの腕に衝撃が走る。骨まで響くような反動。だが、彼は足を止めない。すぐに横へ跳び、黒龍の反撃をかわす。
黒龍の尾が振られた。
「尾、来る!」
アメリアの声に、前衛達が一斉に低く構える。避けきれない兵士の前に、獅子の咆哮の盾役が入り、さらにその前にシャーロットの外周陣が一瞬だけ光った。
衝撃の軌道が、わずかに逸れる。
ズガァンッ!
尾は地面を抉り、石と土を巻き上げた。だが、直撃は避けられた。吹き飛ばされた者はいる。けれど、即死するはずだった兵士が息をしている。
「搬送!」
アメリアの声に、後方支援が走る。
その間にも、シャーロットの術式は増え続けていた。
地上の線が空へ上り、空の円がさらに細かな術式を生む。黒龍の頭上に浮かぶ魔法陣が、星のように瞬いた。周囲の魔力が、そこへ少しずつ引かれていく。火、水、風、土、光、結界、空間。複数の属性と系統が、一つの目的へ向かって束ねられていく。
黒龍の核。
それは胸の奥にあるわけではなかった。
普通の魔物のように、体内の一点に魔力核があるのではない。黒龍の核は、巨大な魔力の流れの中心として存在している。心臓の近くにあるように見えて、実際には鱗、翼、喉、尾、全身を巡る魔力の結節点が重なった場所だ。
外から力任せに撃てば、鱗と魔力圧に弾かれる。
広範囲に焼けば、周囲を巻き込む。
内部に届かせるには、黒龍の魔力の流れを読み、その一瞬だけ開く隙間を撃つしかない。
シャーロットは、それを探っていた。
星帽ポラリスが方向を整理する。
星衣リゲルが負荷を逃がす。
星杖シリウスが魔力を受け止める。
彼女自身の異常な魔力密度と精密制御が、その全てを一本の線へまとめていく。
「見えた……」
シャーロットが小さく呟いた。
その声に、ガルドが反応する。
「核か!」
「はい。でも、まだ射線が通りません。黒龍の喉の魔力が邪魔をしています」
「なら、開ければいいんだな」
ガルドが笑った。
「アクセル!」
「聞こえている!」
アクセルが叫ぶ。
「喉を上げさせる! 全員、黒龍の前脚を牽制しろ!」
王国軍もSランククランも、もはや獅子の咆哮の指示に合わせることをためらわなかった。今この戦場で、黒龍を討てる可能性があるのは、シャーロットの術式だけだと誰もが理解していたからだ。
銀翼の剣も動いた。
「攻撃魔法部隊、黒龍の喉元へ牽制! 直撃は狙うな、視線を上げさせろ!」
銀翼の魔法使い達が詠唱を重ねる。炎、風、雷。黒龍に深い傷は与えられない。それでも、喉元に集まる魔力を一瞬乱すことはできる。
放たれた魔法が、黒龍の喉元で弾けた。
ドドドンッ!
黒龍が不快そうに首を上げる。
その瞬間、ガルドとアクセルが左右から前脚へ踏み込んだ。
「今だ!」
ガルドの声。
「シャーロット!」
アメリアの声。
シャーロットの魔法陣が、一斉に輝いた。
地上の星図が空へ繋がる。空中の魔法陣が黒龍を囲む。外周陣が余波の逃げ道を確保し、識別陣が味方を対象から外し、空間固定陣が黒龍の逃走経路を閉じる。
星杖シリウスの核が、夜空そのもののように深く光った。
その光を見た王立研究院の魔法使い達は、息をすることすら忘れていた。
「術式が、完成する……」
だが、その瞬間、黒龍も気付いた。
自分が危険な位置に誘導されたことを。
赤黒い瞳が大きく開く。翼が動く。黒龍は空へ逃れようとした。巨体が地面を蹴り、翼が灰と煙を巻き上げる。
だが、空中の魔法陣が光った。
バキィンッ!
見えない鎖が、黒龍の翼を一瞬だけ重くする。完全には止められない。災害そのもののような龍を、魔法陣だけで縛り続けることはできない。
けれど、一瞬でよかった。
黒龍の動きが、半拍遅れた。
その半拍に、シャーロットは全てを合わせた。
「シリウス」
彼女は、静かに名を呼ぶ。
星杖シリウスの核が、答えるように瞬いた。
魔力が上がる。
密度が上がる。
空気が震え、地面の小石が浮き、周囲の魔法使い達が反射的に息を止める。
シャーロットの手が、震えていた。
額から汗が落ちる。
魔力回路が熱い。
頭の奥が焼けるように重い。
それでも、制御は乱れない。
彼女は星杖シリウスを構えた。
杖先ではなく、星図全体が一点を向く。
黒龍の核へ。
「撃ちます」
その声は、大きくなかった。
だが、戦場の誰もが聞いた気がした。
アメリアが叫ぶ。
「全員、衝撃に備えて!」
ガルドが大剣を地面へ突き立てる。
アクセルが盾役達へ合図する。
王国軍が身を伏せる。
Sランククランが結界を張る。
銀翼の剣の者達が、呆然としながらも防御姿勢を取る。
空の星図が、一斉に輝いた。
黒龍が咆哮する。
シャーロットは、星杖シリウスへ最後の魔力を流した。
夜空の核が、白銀に染まる。
そして、世界から音が消えた。




