第6節 星杖シリウス①
星杖シリウスの核が、夜の色を帯びて輝き始めた。
黒龍の二度目の息吹が来る。誰もがそれを理解していた。赤黒い喉奥の光が膨れ、周囲の空気が吸い込まれ、城塞区画に残った煙と灰が龍の口元へ引かれていく。先ほどの息吹を防がれた黒龍は、今度こそシャーロットを狙っていた。防衛線を焼くためではない。自分の吐息を止めた小さな魔法使いを、確実に消すための息吹。
それでも、シャーロットは黒龍を見ていなかった。
正確には、黒龍だけを見ていなかった。
星帽ポラリスが、戦場の情報を整理する。負傷者の位置。王国軍の残存兵力。Sランククランの前衛配置。銀翼の魔法部隊の魔力残量。アクセルとガルドの位置。アメリアの指揮が届く範囲。レオンの伝令が走る経路。黒龍の爪が届く範囲。翼の風が巻き込む場所。息吹の角度。逃げ遅れた兵士。熱を持った地面。崩れた城壁。
全部が、頭の中に流れ込んでくる。
普通の魔法使いなら、その情報量だけで膝をつく。だがシャーロットは、必要なものを選び、不要なものを外し、戦場を一枚の地図のように捉えていた。
「シリウス」
彼女は小さく呼んだ。
星杖シリウスの核が応えるように、深く光る。
夜空を閉じ込めたような宝石。その内側で、無数の星粒が沈み、また浮かび上がる。星脈晶のヴェガが魔力を受け、整え、逃がすための制御ワンドなら、シリウスは違う。大量の魔力を受け止め、巨大な術式へ流し込み、必要な一点へ束ねるためのスタッフだった。
ただし、ただ撃つだけではない。
黒龍を討つほどの魔力を、そのまま放てば戦場ごと壊れる。王国軍もSランククランも、負傷者も、城塞区画の残りも、避難民へ続く道も巻き込む。それでは意味がない。
だから、先に戦場を整える。
星杖シリウスを中心に、魔法陣が広がった。
焦げた石畳の上を、青白い線が走る。崩れた土壁を避け、倒れた兵士の足元を避け、折れた弩砲の残骸を迂回しながら、光の線が戦場を縫っていく。線はやがて円を作り、その円からさらに細かな術式が枝のように伸びた。
一つは、負傷者搬送路の保護。
一つは、黒龍の足元の空間固定。
一つは、息吹の余波を上空へ逃がすための導線。
一つは、味方の魔力反応を術式対象から外す識別陣。
一つは、黒龍が翼で跳んだ時の逃走経路を塞ぐ拘束陣。
一つは、術式の反動を地面へ流しすぎないための分散陣。
見た目には、戦場に美しい星図が広がっていくようだった。
だが、それを読もうとした王立研究院の魔法使い達は、次々に言葉を失った。
「待て……あの外周陣、攻撃用ではないぞ」
「防護陣だ。いや、違う。防護しながら余波を誘導している」
「中央は黒龍を対象にしているのか? だが味方識別が入っている。どうやってこの混戦で識別しているんだ」
「空間固定が三層……いや、五層? 違う、層ではなく、座標をずらしている」
「上空にも展開しているぞ。まさか、息吹の逃げ道まで組み込んでいるのか」
「読めない。術式の接続順が常識と違う」
彼らは王国最高峰の魔法研究者だった。大型術式の理論も、竜種討伐用の攻撃魔法も、城塞結界も知っている。だが、目の前でシャーロットが組んでいるものは、既存の分類に入らなかった。
攻撃魔法ではある。
だが、防御も含んでいる。
拘束でもある。
だが、逃がしも含んでいる。
空間魔法でもある。
だが、味方を守るための結界術も混じっている。
黒龍を討つための術式でありながら、戦場を壊さないための術式でもある。
「こんなもの、普通は分担する」
研究院の一人が、呆然と呟いた。
「攻撃術式担当、結界担当、空間固定担当、識別補助担当、余波制御担当。最低でも五人、いや十人単位で組むものだ。それを……」
彼の視線の先で、シャーロットは一人で星杖シリウスを握っていた。
もちろん、彼女一人だけで戦場が動いているわけではない。
アクセルが黒龍の爪を誘導し、ガルドがシャーロットの足元を守り、アメリアが全体指揮を取り、レオンが伝令と情報を繋いでいる。獅子の咆哮の団員達が負傷者を下げ、王国軍が防衛線を立て直し、Sランククランが黒龍の注意を散らしている。
だが、術式そのものを組んでいるのはシャーロットだった。
それも、黒龍の魔力圧が戦場を押し潰す中で。
「術式干渉、来ます!」
研究院の魔法使いが叫んだ。
黒龍が、息吹を吐く前に魔力をぶつけてきた。喉奥に集めた赤黒い魔力の一部が波のように広がり、シャーロットの魔法陣へ干渉しようとする。普通の魔法陣なら、これだけで外周が乱れ、発動前に崩れる。
シャーロットは星杖シリウスをわずかに傾けた。
カン、と杖先が石畳を打つ。
その音に合わせて、外周陣の一部が光を変えた。正面から黒龍の魔力を受けるのではなく、斜めへ逃がす。逃がした魔力を、負傷者搬送路とは逆方向へ流し、上空の小さな魔法陣で散らす。
ボォンッ!
赤黒い魔力の波が空中で鈍く爆ぜた。
地上にはほとんど被害がない。
「今のも組み込み済みか……?」
「違う。今、変えた」
「戦闘中に大型術式の外周を書き換えたのか?」
「あり得ない」
「だが、やったぞ」
研究院の魔法使い達の声は震えていた。
魔法陣は、設計した通りに発動するものだ。大型術式ならなおさら、事前に組み上げ、複数人で維持し、誤差が出ないよう管理する。それを戦闘中に、黒龍の魔力圧を受けながら書き換えるなど、常識の外にある。
けれど、シャーロットはそれを当然のように行っていた。
当然ではない。
ただ、必要だからやっているだけだった。
「右側、負傷者が残っています」
シャーロットが言った。
アメリアが即座に反応する。
「右側搬送班、急いで! 黒龍の足元固定陣が完成する前に出て!」
「了解!」
獅子の咆哮の団員が、王国軍の負傷兵を抱えて走る。黒龍の爪がその方向へ向きかけた瞬間、アクセルが大剣を叩きつけた。
ガァンッ!
「こっちだ!」
傷は浅い。だが、衝撃と音で黒龍の意識がわずかに逸れる。
その隙に搬送班が抜けた。
シャーロットの魔法陣は、負傷者が抜けた経路を閉じるように光を変えた。そこに黒龍の尾が振られたが、空間固定の端がわずかに働き、尾の軌道が半歩分だけ遅れる。
その半歩で、ガルドが飛び込んだ。
「おらぁっ!」
大剣が黒龍の尾の鱗に叩きつけられる。
ギィンッ!
火花が散る。鱗は砕けない。だが尾の軌道がさらにずれ、シャーロットの魔法陣の外周を直撃することは避けられた。
「助かりました!」
「礼は後だ!」
ガルドが叫ぶ。
「さっさと準備しろ!」
「はい!」
シャーロットは星杖シリウスへさらに魔力を流した。
核の奥の星が、一斉に瞬く。
その光に呼応して、空中の魔法陣が増えた。
黒龍の頭上。左右。背後。翼の先。尾の可動域。その全てを計算し、逃げ道を塞ぐように配置されていく。だが完全に閉じ込めるわけではない。完全に閉じれば、黒龍は力任せに突破しようとする。そうなれば周囲への被害が大きい。
だから、逃げられそうに見える道を残す。
ただし、その先はシャーロットの術式の中心へ向かうように誘導されている。
「誘導陣……?」
研究院の魔法使いが呟いた。
「黒龍に逃げ道を選ばせるつもりか」
「選ばせるんじゃない。選んだと思わせて、術式の射線に乗せるつもりだ」
「龍相手に、そんな制御を……」
その声は、最後まで続かなかった。
黒龍が咆哮した。
グォォォォォォォォォォッ!!
空気が歪む。魔法陣の一部が軋む。王国軍の兵士達が膝をつき、Sランク冒険者達でさえ一瞬動きが鈍る。赤黒い魔力が地面を這い、シャーロットの足元へ向かってくる。
星衣リゲルが淡く光った。
魔力循環補助が働き、外側から押し寄せる黒龍の魔力圧を受け流す。星帽ポラリスが方向感覚の乱れを補正し、膨大な情報を方角ごとに整理する。シャーロットの呼吸が一瞬だけ乱れたが、すぐに戻った。
彼女は、焦らない。
「大丈夫です。まだ、組めます」
その言葉に、アメリアが眉を寄せた。
「無理は?」
「しています」
シャーロットは正直に答えた。
戦場の中で、アメリアが一瞬だけ目を見開く。
「でも、必要な範囲です。まだ制御できます」
嘘ではなかった。
だが、楽でもなかった。
星杖シリウスは、シャーロットの魔力を受け止めている。普通のスタッフならとっくに砕けている魔力量を、夜空の核が深く受け、巨大な術式へ流している。けれど、術者の演算負荷までは消えない。黒龍の核を探り、味方を除外し、余波を制御し、空間を固定し、逃走経路を封じる。その全てを同時に維持する負担は、確実にシャーロット自身にかかっていた。
指先が、少し震える。
それでも、術式は乱れない。
「レオン!」
アメリアが叫ぶ。
「魔力回路負荷の記録、後で医務室に回す準備を!」
「すでに記録しています!」
「さすがね!」
「褒めている場合ではありません!」
レオンの声にも焦りがあった。
その時、黒龍が二度目の息吹を放とうとした。
今度は先ほどより細い。防衛線全体を焼くための広域ではない。シャーロットを貫くために圧縮された息吹だった。
「来るぞ!」
アクセルが叫ぶ。
ガルドがシャーロットの前へ出ようとした。
だが、シャーロットが言った。
「下がらないでください」
「何?」
「その位置にいてください。そこが、黒龍の視線をずらす位置です」
ガルドは一瞬だけ歯を食いしばった。
シャーロットの真正面に立ちたい。
だが、それでは術式の射線と防御陣が乱れる。
「……分かった」
ガルドは踏みとどまった。
アクセルも、アメリアの指示に従い、黒龍の右側へ回る。Sランククランの前衛達も、シャーロットの魔法陣を踏まないように位置を変えた。王国軍の魔法兵が周辺結界を張る。銀翼の剣の魔法部隊も、ようやく彼女の術式を邪魔しない形で支援に回った。
黒龍の息吹が放たれる。
赤黒い細い光が、一直線にシャーロットへ向かった。
シャーロットは星杖シリウスを地面から抜かない。
代わりに、左手で星脈晶のヴェガを抜いた。
シリウスで大型術式を維持しながら、ヴェガで局所防御を組む。
周囲の魔法使い達が息を呑んだ。
「二重制御……?」
「大型術式を維持したまま、別系統の防御を?」
「無茶だ!」
だが、シャーロットはやった。
ヴェガの三つの星脈晶が光り、先ほどより小さな一層障壁が黒龍の圧縮息吹の前に生まれる。大きく受けるのではなく、芯だけをずらす。息吹の中心をほんのわずかに斜めへ逃がし、上空の魔法陣へ流し込む。
キィィィィンッ――!
赤黒い光が、青白い結界の表面を滑った。
そして、空中の余波制御陣へ吸い上げられる。
ドォンッ!
上空で息吹の残滓が爆ぜた。
シャーロットの髪が熱風で揺れる。星帽ポラリスのつばが跳ね、星衣リゲルの裾が激しく翻る。
だが、彼女は立っていた。
シリウスの術式も、消えていない。
「……続けます」
静かな声。
戦場の誰もが、息を呑んだ。
黒龍の息吹を受けながら、大型術式を維持した。
それはもはや、攻撃魔法使いの高火力という話ではなかった。
戦場そのものを制御している。
王立研究院の魔法使いが、震える声で言った。
「これは、災害級魔法だ」
隣の研究者が首を振る。
「違う」
「何が違う」
「災害級の威力を、災害にしないよう制御している」
その言葉に、誰も反論できなかった。
星杖シリウスの魔法陣は、さらに広がる。
地上に、空に、黒龍の周囲に。
星図のような光が、戦場を覆い始めていた。
シャーロットは黒龍を見上げる。
その瞳に、恐怖はある。
だが、迷いはない。
「あと少しです」
彼女は言った。
誰に向けた言葉かは分からない。
ガルドか。
アメリアか。
星杖シリウスか。
それとも、自分自身か。
夜空の核が、深く瞬いた。
黒龍を討つための術式は、完成へ近づいていた。




