第5節 討つための時間
黒龍が、シャーロットを見ていた。
赤黒い瞳が細くなる。
先ほどまで王国軍とSランククランを見下ろしていた視線が、今はまっすぐ一人の魔法使いへ向けられている。
シャーロットはヴェガを握ったまま、息を整えた。
指先がまだ少し痺れている。
黒龍の息吹を防いだ。
けれど、止めただけだ。
黒龍は倒れていない。
前脚が一歩、焼けた石畳を踏み砕いた。
ドンッ。
その音だけで、近くの兵士達が肩を震わせる。
黒龍の喉奥には、まだ赤黒い魔力が残っていた。次が来れば、今度はシャーロットを狙う。そう分かるほど、黒龍の視線は鋭かった。
ガルドが彼女の隣へ出る。
「狙い、完全にお前になったな」
「はい」
「下がるか?」
シャーロットは黒龍から目を逸らさなかった。
下がれば、防衛線の中央が空く。
同じ息吹が来れば、今度こそ誰かが焼かれる。
「下がりません」
短い答えだった。
ガルドは大剣を肩に乗せる。
「だと思った」
アメリアが駆け寄ってきた。
「シャーロット、今の結界はもう一度張れる?」
「張れます。でも、防ぐだけでは押し切られます」
「討つ手段は?」
シャーロットは背負っていた布包みに手を伸ばした。
星杖シリウス。
布を解くと、黒銀の軸と夜空を閉じ込めたような核が現れる。
周囲の魔法使い達が、思わず息を呑んだ。
だが、シャーロットはそれを見ていない。
彼女はシリウスを両手で持ち、黒龍を見上げた。
「大型術式を組みます」
アメリアの目が鋭くなる。
「どの規模?」
「黒龍の核だけを撃ちます。周囲を巻き込まないように、余波制御と味方識別も入れます」
「時間は?」
シャーロットは一度だけ目を閉じた。
必要な術式を頭の中で並べる。
核の探知。
射線の固定。
味方識別。
余波の逃げ道。
黒龍の動きを遅らせる空間固定。
倒れる方向の制御。
多すぎる。
けれど、減らせない。
「少し、必要です」
「少しってどれくらい」
「……黒龍が一度、私を潰そうとするくらいです」
アメリアは一瞬だけ黙った。
「最悪の単位で答えないで」
「すみません」
「謝らない」
シャーロットは小さく頷く。
アメリアはすぐに振り返った。
「アクセル!」
前線の向こうで、アクセルが大剣を構えたまま振り向く。
「聞いている!」
「シャーロットが大型術式を組む! 完成まで黒龍を中央に留めるわ!」
「任せろ!」
アクセルの声が、崩れかけた防衛線に響いた。
「獅子の咆哮、前へ! 王国軍、負傷者を下げろ! Sランクの前衛は左右から牽制! 黒龍の視線を散らす!」
王国軍の指揮官もすぐに応じた。
「盾兵、再編! 搬送班、中央を空けろ! 魔法兵は余波を抑えろ!」
Sランク冒険者達が動く。
先ほどまで呆然としていた兵士達も、顔を上げた。
黒龍の視線は、まだシャーロットにある。
それでも、防衛線が少しずつ息を吹き返していった。
レオンが走ってくる。
手には、すでに簡易地図と伝令札がある。
「中央後方を術式展開用に空けます。搬送路は南側へずらしました。王国軍の魔法兵には、余波制御の補助だけ伝えます」
「お願いします」
「シャーロットさん、立ち位置は?」
シャーロットは足元を見た。
焼けた石畳。
崩れた土壁。
左に王国軍の盾列。
右にSランククランの前衛。
後方には負傷者搬送路。
黒龍との距離は近い。
でも、ここが一番いい。
「ここで組みます」
「危険すぎる」
レオンの声が硬くなる。
シャーロットは首を振った。
「下がると、射線がずれます。それに、黒龍が動いた時に避難路側へ流れるかもしれません」
ガルドが短く息を吐く。
「まあ、ここだろうな」
アメリアが眉を寄せる。
「あなたまで肯定しない」
「否定しても、こいつは多分ここに立つ」
「そうね。だから腹が立つのよ」
シャーロットは少しだけ困った顔をした。
「怒られるのは、後で聞きます」
「後で長く怒るわ」
「はい」
アメリアはため息を吐き、それでもすぐに声を張った。
「なら全員、シャーロットを中心に組み直し! ただし近づきすぎない! 術式範囲に入らないよう、指示線から外れて!」
獅子の咆哮の団員達が散った。
ガルドはシャーロットの少し前、右寄りに立つ。
アクセルはさらに前へ出て、黒龍の正面からわずかに外れた位置へ踏み込んだ。
アメリアは後方の搬送路と魔法兵の間を走り、負傷者の流れを整理する。
レオンは伝令札を飛ばし、王国軍とSランククランへ配置変更を伝える。
誰も、シャーロットに「大丈夫か」とだけは言わなかった。
大丈夫ではないと、分かっているからだ。
それでもやるしかない。
シャーロットは星杖シリウスを立てた。
杖の先端が、焦げた石畳に触れる。
カン、と澄んだ音がした。
足元に、小さな魔法陣が開く。
淡い青白い線が、焼けた地面を走った。
最初は円。
次に、その内側へ星のような紋様。
さらに外側へ、細い術式線が伸びていく。
王国軍の魔法兵が息を止めた。
銀翼の魔法使い達も、言葉を失う。
だが、シャーロットは周囲を見なかった。
星帽ポラリスが、戦場の情報を整理する。
星衣リゲルが、魔力の流れを整える。
星杖シリウスが、彼女の魔力を受け止めた。
シャーロットは黒龍を見る。
黒龍の鱗。
翼。
喉。
前脚。
尾。
その奥を巡る赤黒い魔力。
見えすぎるほど、見える。
頭の奥が熱くなる。
「……怖い」
声にならないほど小さく、口の中だけで呟いた。
でも、手は止めない。
怖いからこそ、雑に撃てない。
怖いからこそ、周りを巻き込めない。
シリウスの核が、夜空のように深く光った。
黒龍が動く。
前脚が持ち上がり、巨体がシャーロットへ向かって沈み込む。
「来るぞ!」
アクセルが叫ぶ。
黒龍の爪が振り下ろされた。
アクセルが大剣で受ける。
ガァァンッ!
衝撃が地面を走り、石畳が割れた。
完全には止められない。
だが、軌道はずれる。
黒龍の爪がシャーロットから外れ、彼女の左前方の地面を抉った。
「続けろ!」
アクセルが叫ぶ。
シャーロットは頷いた。
魔法陣の線がさらに伸びる。
その時、黒龍の尾が横から迫った。
「尾!」
アメリアの声。
ガルドが前へ出た。
「こっちは任せろ!」
大剣が尾の鱗へ叩き込まれる。
ギィンッ!
火花が散る。
ガルドの体が半歩滑った。
だが、彼は踏みとどまる。横から飛び込んだSランク前衛が一撃を重ね、尾の軌道がわずかに上へ逸れた。
その下を、負傷者を運ぶ担架が走り抜ける。
シャーロットの外周陣が一瞬だけ光り、飛び散った石片を弾いた。
「ありがとう、ございます」
「礼は後だ!」
ガルドが怒鳴る。
シャーロットはシリウスを握り直した。
足元の魔法陣が、黒龍の足元へ伸びていく。
完全に縛るためではない。
一歩を遅らせるため。
向きをずらすため。
射線を作るため。
黒龍がその術式に気づいたのか、喉奥を赤黒く光らせた。
二度目の息吹。
今度は、防衛線ではなくシャーロットを狙っている。
近くにいた兵士が顔を青ざめさせた。
「まずい、また来る!」
アメリアが叫ぶ。
「全員、結界の中央に入らない! シャーロットの指示線から外れて!」
王国軍が身を伏せる。
Sランククランが左右へ散る。
銀翼の剣の魔法使い達も、防御術式を準備した。
ガルドがシャーロットの前に出ようとする。
「ガルドさん」
シャーロットが呼んだ。
「前ではなく、右にいてください」
「右?」
「そこが、黒龍の視線をずらす位置です」
ガルドは一瞬だけ彼女を見た。
それから、何も言わず右へ動く。
「分かった」
シャーロットは息を吸った。
シリウスの大型術式を維持したまま、腰のヴェガへ左手を添える。
二つを同時に使う。
頭の奥が、さらに熱くなる。
でも、ここで術式を切れば間に合わない。
「続けます」
短く言って、シャーロットは黒龍の息吹を待った。
星杖シリウスの魔法陣が、地上から空へ伸び始める。
黒龍の喉奥で、赤黒い光が膨れ上がった。




