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第5節 時間を稼げ

黒龍の息吹を受け止めた後、防衛線には奇妙な沈黙が落ちていた。


誰も勝利したとは思っていない。黒龍はまだ倒れていない。むしろ、ただ一度の息吹を防がれたことで、赤黒い瞳に明確な敵意が宿っている。巨大な爪が焼けた地面を掴み、鱗の隙間から魔力の光が脈打つたび、周囲の空気が重く軋んだ。


だが、防衛線は生きていた。


王国軍は全滅していない。Sランククランも焼き払われていない。銀翼の剣もまだ立っている。負傷者は多い。結界は砕け、土壁は吹き飛び、兵士達の顔には恐怖が残っている。それでも、生きている。


その事実が、戦場に一瞬だけ呼吸を戻した。


「今のうちに負傷者を下げろ!」


王国軍の指揮官が叫んだ。


その声に、止まっていた兵士達が動き出す。担架を持つ者、倒れた盾兵を支える者、破損した弩砲から離れる者。混乱しかけた流れを、アメリアの声がさらに整えていく。


「搬送路は中央じゃない! 右へ回して! 熱が残っている地面を踏まないで! 魔法兵は倒れた者の魔力回路を確認、無理に立たせない!」


その指示は早かった。


アメリアは黒龍だけを見ていない。負傷者、兵士の位置、崩れた土壁、息吹で熱を持った地面、煙の流れ、次に黒龍が動いた場合の逃げ道。その全てを見て、必要な場所へ声を飛ばしている。


「アクセル!」


「分かっている!」


アクセルが大剣を抜き、獅子の咆哮の前衛達を率いて前に出た。彼の剣はガルドのものより幅が広く、重い。黒龍の鱗を断てるかどうかは分からない。だが、真正面から圧を受け、味方のために場所を作るには十分な迫力があった。


「獅子の咆哮、前衛は左右に分かれろ! 黒龍の足を止めるんじゃない、向きを変えさせる! シャーロットの正面に余計な衝撃を入れるな!」


「了解!」


獅子の咆哮の団員達が即座に散った。


それを見て、王国軍の指揮官が目を見開いた。


「第二防衛線のAランククランが……」


驚きは当然だった。獅子の咆哮は本来、第一防衛線の主戦力ではない。配置上は後方支援と避難民保護を担うはずのAランククランだ。だが今、彼らは崩れかけた第一防衛線の穴を埋めるように動いている。


しかも、無謀に突っ込んでいるのではない。


シャーロットを守るために、全体が動いていた。


ガルドはシャーロットのすぐ後ろに立ち、大剣を構える。飛来する瓦礫、黒龍の爪が地面を叩いた時に走る衝撃、横から流れ込む熱風。その全てを、彼は可能な限り弾いていた。


「おい、立てるか」


「はい」


シャーロットは頷いた。


声は落ち着いている。だがガルドは、彼女の指先がまだかすかに震えていることに気付いていた。黒龍の息吹を防いだ一層障壁は無傷だった。けれど、術者に負荷がないわけではない。あの圧を読み、逸らし、制御し続けたのだ。魔力だけでなく、演算にも相当な負荷がかかっている。


「無理してないって顔するなよ」


「していません」


「してる」


「……少しだけです」


「少し、な」


ガルドは苦く笑った。


「お前の少しは信用できない」


シャーロットは返事に困ったように目を伏せたが、すぐに黒龍を見た。


「次の息吹は、同じ形では来ないと思います」


「だろうな」


「さっきは防げました。でも、黒龍が結界の流れを読んだら、次はずらしてくるかもしれません。正面ではなく、左右か、上から来る可能性もあります」


「なら、どうする」


「討ちます」


その言葉は静かだった。


大声でも、決意を叫ぶようなものでもない。ただ、必要な手順を口にするような響きだった。


ガルドは一瞬だけ、彼女の横顔を見た。


シャーロットは黒龍を恐れている。先ほども怖いと言っていた。けれど、恐怖で固まってはいない。守るために必要なら、前へ出る。そして倒す必要があるなら、倒す。


「シリウスを使うか」


「はい」


シャーロットは背に負っていた布包みに手を伸ばした。


星杖シリウス。


学校時代、ガルドと共に素材を集めて作った、大型術式用のスタッフ。普段の精密な魔法や支援には、星脈晶のヴェガが適している。だが、黒龍の核を撃ち抜くには、ヴェガだけでは足りない。ヴェガは制御のためのワンドであり、シリウスは膨大な魔力を受け、大型術式へ流し込むための杖だ。


「アメリアさん!」


シャーロットが振り返らずに呼んだ。


「聞こえてるわ!」


アメリアはすでに分かっていたように答えた。


「準備にどれくらい必要?」


「黒龍の核を探ります。術式を組む時間も必要です。短くても、数分は」


「数分ね」


アメリアはすぐに全体へ指示を飛ばした。


「獅子の咆哮、時間を稼ぐ! 黒龍をシャーロットの術式範囲から出さない! ただし無理に止めない、向きを誘導して! 王国軍、負傷者搬送を優先! Sランククランは攻撃を散らして黒龍の注意を分けてください!」


その声に、周囲のSランク冒険者達が一瞬反応に遅れた。


Aランククランの幹部が、王国軍とSランククランに指示を出している。


本来ならあり得ない光景だった。


だが、今この瞬間、その指示が最も正確だった。


王国軍の指揮官が叫ぶ。


「聞こえたな! 負傷者搬送を急げ! 魔法兵は獅子の咆哮の指示に合わせろ!」


別のSランククランの前衛隊長も、すぐに判断した。


「黒龍の右脚を牽制する! 真正面から受けるな、横へ流せ!」


銀翼の剣の幹部達も、動かざるを得なかった。


「銀翼、攻撃魔法部隊は左翼から牽制! 前衛は崩れた盾兵の穴を埋めろ!」


銀翼の冒険者達が走り出す。


だが、その動きにはまだわずかな乱れがあった。負傷者を避ける位置取り、魔法兵の詠唱補助、盾役の腕の疲労。細かな部分で判断が遅れる。以前なら、それを補うように動いていた者がいた。


彼らは今、その本人の背中を見ていた。


シャーロットはすでに、星杖シリウスの布を解いていた。


黒銀の軸が、焦げた戦場の中で鈍く光る。先端に据えられた夜空を閉じ込めたような宝石が、黒龍の魔力に反応して深い光を宿した。周囲の魔法使い達が息を呑む。ヴェガの星脈晶とは違う。シリウスの核は、魔力を整える石ではない。大量の魔力を受け、束ね、大型術式へ流し込むためのものだ。


王立研究院の魔法使い達が、後方からその光景を見ていた。


「何だ、あのスタッフは……」


「核が見たことのない反応をしている」


「魔石か? いや、魔石にしては魔力の受けが深すぎる」


「術式系統は?」


「まだ読めません。外側の制御紋だけでも、通常の大型術式用スタッフと構造が違います」


彼らが解析しようとする間にも、黒龍が動いた。


巨大な前脚が持ち上がる。


「来るぞ!」


アクセルが叫んだ。


黒龍の爪が、防衛線へ向けて叩き下ろされる。息吹ではない。ただの前脚。だが、黒龍の巨体から放たれる一撃は、それだけで城壁を砕く威力を持つ。


アクセルが正面へ出た。


「受けるな! 流せ!」


自分でそう叫びながら、彼は大剣を斜めに構えた。爪の直撃を受け止めるのではなく、軌道を少しだけ逸らす。そこへガルドが横から飛び込み、二人分の大剣で衝撃を流した。


ガァァンッ!!


金属と鱗と魔力がぶつかる音が、戦場に響いた。


アクセルの足元が沈む。ガルドの腕が軋む。完全に止められたわけではない。それでも爪の軌道はずれ、黒龍の一撃は防衛線の中央ではなく、焦げた地面を深く抉った。


ドゴォォンッ!


土と石が爆ぜる。


「今だ、下がれ!」


アメリアの声に、搬送班が負傷者を運び出す。魔法兵が周辺結界を張り直し、Sランククランの前衛達が黒龍の注意を分散する。獅子の咆哮の後衛は、シャーロットの足元に余計な衝撃が届かないよう、周辺の防護と煙の排出に回った。


シャーロットはその中心で、星杖シリウスを地面へ立てた。


杖の先端が石畳に触れる。


カン、と小さな音がした。


それだけで、足元に青白い魔法陣が広がった。


最初は小さい。


シャーロットの足元だけを囲む円。


だが、その内側に細かな術式が刻まれていく。円の外へ線が伸び、別の円を描き、さらに外側へ星のような紋様を結ぶ。焦げた地面の上を、光の線が走った。破壊された城塞区画の石畳をなぞり、崩れた土壁の隙間を越え、兵士達の足元を避けながら、魔法陣が戦場へ広がっていく。


「何を……」


銀翼の魔法使いが呟いた。


その問いに答えられる者はいなかった。


シャーロットは攻撃魔法を撃とうとしている。


だが、ただ火力を集めているだけではない。


魔法陣の一部は、負傷者搬送路を守るように配置されていた。別の一部は、黒龍の足元を囲むように伸びている。さらに別の線は、王国軍とSランククランの位置を避け、余波が流れる方向を最初から設計しているように見えた。


レオンが遠くからその展開を見て、息を呑んだ。


「攻撃術式だけではありません。空間固定、余波制御、味方保護、逃走経路封鎖……同時に組んでいる」


アメリアが短く返す。


「つまり?」


「黒龍だけを撃つつもりです。周囲を壊さず、味方を巻き込まず、逃がさずに」


「相変わらず、無茶なことを普通の顔でやるわね」


アメリアの声には呆れが混じっていたが、目は笑っていなかった。


この術式には時間が必要だ。


そして、時間を稼ぐのが自分達の仕事だった。


「全員、聞きなさい!」


アメリアの声が再び戦場へ飛ぶ。


「シャーロットの術式が完成するまで、黒龍をこの範囲に留める! 無理に倒そうとしなくていい。足を止める、向きを変える、注意を逸らす。それだけに集中して!」


「了解!」


獅子の咆哮の団員達が答える。


王国軍も、Sランククランも、その指示に合わせ始めた。


銀翼の剣も、同じだった。


かつてシャーロットを評価できなかったクランが、今はシャーロットの術式完成まで時間を稼ぐために動いている。その皮肉に気付いた者もいたかもしれない。だが、今は誰も口にしなかった。


黒龍が咆哮した。


グォォォォォォォォォォッ!!


空気が震え、魔力が乱れ、兵士達の膝が揺れる。魔法陣の一部が揺らいだ。シャーロットの眉がわずかに寄る。


「シャーロット!」


ガルドが叫ぶ。


「大丈夫です!」


「大丈夫じゃなさそうな声だぞ!」


「少し、演算が重いだけです」


「それを大丈夫とは言わねえ!」


ガルドは黒龍の爪を避けながら叫んだ。


シャーロットは苦笑する余裕もなく、星杖シリウスへ魔力を流し続ける。


星衣リゲルが魔力循環を補助する。


星帽ポラリスが戦場情報を整理する。


星脈晶のヴェガは腰に戻されているが、必要なら即座に補助術式へ切り替えられる位置にある。


星杖シリウスの核が、夜空のような光を強めていく。


黒龍がそれに気付いた。


赤黒い瞳が、シャーロットへ向く。


「来る!」


アクセルが叫ぶ。


黒龍の翼が広がった。


次の瞬間、黒い風が戦場を叩いた。


バァァンッ!


兵士達が吹き飛ばされそうになる。盾兵が列を崩し、魔法兵の詠唱が乱れる。だが、その中を獅子の咆哮の前衛達が走った。アクセルが中央、ガルドが左、別の前衛達が右へ入り、黒龍の視線を散らす。


「こっちを見ろ、でかいトカゲが!」


ガルドが叫び、大剣を黒龍の前脚へ叩きつけた。


ガァンッ!


傷は浅い。


だが音は派手だった。


黒龍の視線が一瞬だけ揺れる。


その一瞬で、シャーロットの魔法陣がさらに広がった。


星図のような線が、戦場の上に浮かび始める。


地面だけではない。


空にも魔法陣が開いた。


一つ、二つ、三つ。


黒龍を囲むように、淡い光の円が重なっていく。


王立研究院の魔法使い達が、完全に言葉を失った。


「大型攻撃術式……いや、違う。あれは戦場全体を術式にしている」


「制御できるのか、あんなものを」


「普通なら暴走する」


「普通なら、だろう」


誰かが、震える声で言った。


その中心で、シャーロットは星杖シリウスを握りしめていた。


手が、わずかに震えている。


額に汗が滲む。


唇の色も少し薄い。


それでも、術式は乱れない。


彼女は強い。


けれど無限ではない。


この規模の術式を組み、黒龍の魔力圧を読み、味方を避け、余波を制御し、逃走経路まで封じる。その負荷は、確実に彼女の体を削っていた。


アメリアはそれに気付いていた。


「急いで……」


小さく呟く。


それはシャーロットに向けた言葉ではなかった。


時間を稼ぐ全員へ向けた言葉だった。


「あと少しでいい。あと少し、あの子に時間を」


黒龍が再び息を吸い始める。


戦場に緊張が走った。


二度目の息吹。


先ほどより近い。


先ほどより、明確にシャーロットを狙っている。


だが、今度は彼女一人では受けない。


アクセルが叫ぶ。


「全員、時間を稼げ!」


ガルドが大剣を構える。


「聞こえたな! あいつが撃つまで、死んでも通すな!」


「死ぬな!」


アメリアの怒号が飛ぶ。


「時間を稼げ。でも誰も死ぬな! それが獅子の咆哮のやり方よ!」


その声に、団員達が笑った。


恐怖の中で。


災害の前で。


それでも、確かに笑った。


「了解!」


戦場が動く。


シャーロットは星杖シリウスへさらに魔力を流した。


夜空を閉じ込めた核が、深く、深く輝き始める。


黒龍の次の息吹が来るまで、あとわずか。


そして、星杖シリウスの術式完成までも、あとわずかだった。

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