第4節 一枚の障壁
黒龍の息吹が、シャーロットの一層障壁へ直撃した。
瞬間、視界が白く焼ける。
赤黒い奔流が透明な一枚へ叩きつけられ、光と熱と魔力圧が一点に集まった。轟音は耳ではなく、骨の内側を直接叩いてくる。
防衛線の兵士達が反射的に身を伏せた。
Sランク冒険者達も、腕で顔を庇う。
砕けた石畳の破片が宙へ舞い、熱風で旗が千切れ、灰が横殴りに吹き飛んだ。
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!
黒龍の息吹は止まらない。
城壁を砕き、村を焼き、王国軍の多層障壁を破った赤黒い光が、シャーロットの前にある一枚へ注ぎ込まれていく。
一層障壁。
防御魔法を学ぶ者が、最初に覚える基礎の形だ。
普通なら、強い攻撃を受ければ衝撃が一点に集まり、すぐに割れる。だから熟練者は膜を重ねる。受け、逃がし、削り、最後に止める。
だが、シャーロットの結界は割れなかった。
透明な膜の表面を、赤黒い光が滑っていく。
正面から押し返してはいない。
受けた圧をわずかに横へ流し、熱を上へ逃がし、残った魔力だけを足元の魔法陣へ落とす。
その処理が、一枚の中で行われていた。
ギィィィィィンッ――!
耳障りな高音が戦場を裂いた。
赤黒い息吹が結界の表面で左右へ分かれる。逸れた奔流は兵士達を飲み込まず、地面を焼かず、シャーロットの左右から空へ逃げていった。
熱だけが防衛線を舐める。
直撃は止まっていた。
「な……」
銀翼の魔法使いが、膝をついたまま声を漏らした。
王国軍とSランククランが総力で重ねた多層障壁は砕けた。
何十枚もの膜が、黒龍の息吹に裂かれた。
なのに、今。
一枚の透明な結界が、息吹を受け止めている。
「……は?」
誰の声か分からなかった。
兵士か。
銀翼の前衛か。
別のSランククランの結界術師か。
戦場のあちこちで、同じような息が漏れていた。
黒龍の喉奥で、赤黒い光がさらに強くなる。
結界に叩きつけられる音が変わった。
ドォォォォォォンッ!
地面が沈む。
シャーロットの足元の魔法陣が強く光った。
星衣リゲルの裾が激しく揺れ、星帽ポラリスのつばが熱風で跳ねる。
それでも、彼女は一歩も下がらない。
奥歯を噛む。
喉の奥が熱い。
左手の指先が、ほんの少し痺れていた。
ヴェガの第一核が青白く輝く。
第二核に銀の筋が走る。
第三核から、淡い金の光が細くこぼれた。
かつて工房の予備ワンドを一瞬で割った魔力が、今は三つの星脈晶を通り、形を崩さず流れている。
シャーロットは息を細く吐いた。
「……大丈夫です。まだ、通しません」
小さな声だった。
その言葉と同時に、結界の表面がさらに澄む。
赤黒い息吹の中心に、青白い光が一筋走った。
押し返すのではない。
流れの芯を読む。
一番重い圧が集まる点を、ほんの少しだけずらす。
シャーロットはヴェガをわずかに傾けた。
黒龍の息吹が、斜め上へ流れる。
ズガァァァァァンッ!
逸れた魔力が上空で爆ぜた。
赤黒い光が雲を裂き、戦場の上に溜まっていた黒煙を吹き飛ばす。一瞬だけ、青い空が覗いた。
兵士達は呆然と空を見上げる。
誰かが、自分の腕に触れた。
焼けていない。
立っている。
防衛線は、まだ残っている。
「結界、無傷……?」
王国軍の結界術師が震える声で言った。
透明な一枚には、ひび一つ入っていない。
揺れはある。
だが、崩れる揺れではなかった。強い風を受けた水面のように、細かく震えながら形を保っている。
「多層じゃない……一層だぞ……」
別の魔法使いが呟く。
「馬鹿な。あれだけの魔力圧を一枚で受けたら、普通は内側から破裂する」
「普通じゃないんだろ……」
誰かが答えた。
銀翼の剣の幹部達も、その光景を見ていた。
見間違えるはずがない。
補修だらけのローブを着て、歪んだウィッチハットを被り、濁った魔石のワンドを使っていたE評価の攻撃魔法使い。
シャーロット。
だが、今の彼女は違っていた。
深い紺色の星衣リゲル。
星帽ポラリス。
星脈晶のヴェガ。
背には、布に包まれた星杖シリウス。
黒煙の中で、銀糸が星のように光っている。
「何だ、あれは……」
銀翼の幹部の一人が、かすれた声で言った。
誰も答えられなかった。
黒龍が、初めて明確に反応した。
赤黒い瞳が細くなり、息吹を吐きながら首を下げる。
喉奥の光がさらに脈打った。
ゴォォォォォォォォッ!!
二度目の圧が来る。
先ほどより重い。
熱だけでなく、魔力そのものが結界を削ろうとしていた。近くの魔法使い達が胸を押さえ、王国軍の兵士達も立っているだけで精一杯になる。
シャーロットの足が、わずかに石畳へ沈んだ。
「シャーロット!」
ガルドが叫び、彼女の背後へ飛び込む。
黒龍の息吹には触れられない。
だが、結界の左右から飛ぶ熱風と石片なら弾ける。
ガルドは大剣を振り、飛んできた瓦礫を叩き落とした。倒れかけた兵士を片手で引き戻し、シャーロットの足元へ余計な衝撃が届かない位置に立つ。
「足元は任せろ!」
「はい!」
それだけでよかった。
シャーロットは前だけを見た。
アメリアの声が飛ぶ。
「負傷者を下げて! 結界の左右に立たない! 息吹は上へ逸れている、中央後方を空けなさい!」
王国軍の指揮官が、はっとしたように叫ぶ。
「あの魔法使いを中心に陣形を組み直せ! 盾兵は左右、魔法兵は余波を抑えろ! 搬送班、今のうちに動け!」
止まりかけていた防衛線が動き出す。
負傷者が後ろへ運ばれる。
盾兵が左右へ広がる。
魔法兵が余波を抑える。
崩れた搬送路には、獅子の咆哮の団員達が駆け込んだ。
アクセル率いる前衛隊も、崩れた右側へ入る。
シャーロットの背後に、少しずつ道ができた。
黒龍の息吹が細くなっていく。
赤黒い光が弱まり、熱風が薄れ、轟音が遠ざかった。
最後の魔力圧が結界に叩きつけられる。
シャーロットはヴェガを傾け、上空へ流した。
ゴォンッ……!
空の高いところで、残った魔力が鈍く爆ぜる。
そして、静けさが落ちた。
焼けた地面から煙が上がる。
崩れた土壁の破片が、ぱらぱらと落ちる。
王国軍も、Sランククランも、銀翼の剣も、すぐには動けなかった。
黒龍さえ、赤黒い瞳を細めたまま止まっている。
シャーロットの一層障壁は、まだそこにあった。
透明で、薄く、静かに。
ひび一つない。
シャーロットはゆっくり息を吐き、ヴェガを下ろした。
指先が、少し震えている。
彼女は誰にも見せないように、手を軽く握った。
「……防げました」
いつもと同じくらい穏やかな声だった。
周囲の兵士達は、まだ言葉を失っている。
やがて、誰かが小さく呟いた。
「今のを……防いだのか?」
別の誰かが答える。
「一枚で……?」
また、沈黙が落ちた。
その中で、銀翼の剣の一人が呆然と声を漏らした。
「俺達は……あれを、E評価にしていたのか……?」
シャーロットの耳にも届いた。
けれど、彼女は振り返らなかった。
ヴェガを握り直し、黒龍を見上げる。
赤黒い瞳が、今度はまっすぐ彼女を見ていた。




