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第4節 黒龍の息吹②

黒龍の息吹が、シャーロットの一層障壁へ直撃した。


瞬間、世界が白く焼けた。


赤黒い奔流が透明な一枚へ叩きつけられ、光と熱と魔力圧が一箇所に集中する。轟音は耳で聞くものではなく、骨の内側から叩かれるような衝撃だった。防衛線の兵士達が反射的に身を伏せ、Sランク冒険者達が腕で顔を庇う。砕けた石畳の破片が宙へ舞い、熱風で旗が千切れ、焦げた灰が横殴りに吹き飛んだ。


ゴォォォォォォォォォォォォッ!!


黒龍の息吹は止まらない。


城壁を半壊させ、村を焼き、王国軍の多層障壁を砕いた災害の吐息。それが、たった一人の魔法使いの前に展開された一枚の結界へ、容赦なく注ぎ込まれていた。


普通なら、あり得ない。


一層障壁は基礎だ。防御魔法を学ぶ者が最初に覚える、もっとも単純な形。攻撃を受ければ衝撃が一点に集中し、割れやすい。だから熟練者は薄い膜を何層も重ねる。受け、逃がし、削り、最後に止める。多層障壁とは、そのための技術だった。


だが、シャーロットの結界は違った。


一枚なのに、薄くない。


見た目は透明な膜にすぎない。だが、その内側に込められた魔力密度が異常だった。星脈晶のヴェガを通して受けられ、整えられたシャーロットの魔力が、極限まで均一に伸ばされている。厚みではなく密度。枚数ではなく制御。衝撃を正面から受け止めるのではなく、表面の見えない流れで横へ逃がし、熱を上へ抜き、魔力圧を足元の魔法陣へ落として分散する。


一枚の中に、普通なら何層にも分けて行う処理が、すべて詰め込まれていた。


黒龍の息吹が、結界に食い込もうとする。


ギィィィィィンッ――!


耳障りな高音が戦場に走った。赤黒い光が結界の表面を滑り、左右へ裂ける。裂けた奔流は地面を焼かず、兵士達を飲み込まず、シャーロットの左右の空へ逸らされていく。熱だけが防衛線を舐めたが、直撃の威力は完全に止まっていた。


「な……」


銀翼の魔法使いが、膝をついたまま呟いた。


彼の目の前で、王国軍とSランククランが総力で重ねた多層障壁は砕けた。何十枚もの膜が、黒龍の息吹の前では紙のように裂けた。


なのに、今。


一枚。


たった一枚の透明な結界が、黒龍の息吹を受け止めている。


「……は?」


誰が言ったのか分からなかった。


王国軍の兵士か。銀翼の前衛か。別のSランククランの結界術師か。あるいは、全員の心の声が漏れたのか。


それほど、戦場全体が同じ言葉を失っていた。


黒龍の息吹はさらに勢いを増した。喉奥の赤黒い光が強まり、熱と魔力圧が一段重くなる。結界に叩きつけられる音が変わった。


ドォォォォォォンッ!


地面が沈む。


シャーロットの足元の魔法陣が強く光った。星衣リゲルの裾が激しく揺れ、星帽ポラリスのつばが熱風で跳ねる。だが、彼女の体は一歩も下がらない。


ヴェガの第一核が青白く輝く。


第二核が銀の筋を走らせる。


第三核が余剰魔力を淡い金の光として逃がす。


ワンドの中を、通常の魔法使いなら扱えないほど濃い魔力が流れていた。それでもヴェガは壊れない。かつて工房の上等な予備ワンドを一瞬で割った魔力が、今は三つの星脈晶に受け止められ、整えられ、余剰だけを静かに逃がされている。


シャーロットは、息を細く吐いた。


「……大丈夫です。まだ、通しません」


小さな声だった。


だが、その言葉と同時に結界の表面がさらに澄んだ。


赤黒い息吹の中心に、青白い光が一筋走る。結界の内側から、シャーロットの魔力が形を変えた。正面から押し返すのではない。黒龍の息吹の流れを読み、もっとも圧が集中する点をずらす。奔流の芯をほんの少し傾ける。


すると、黒龍の息吹が斜め上へ流れた。


ズガァァァァァンッ!


逸らされた魔力が上空で爆ぜる。赤黒い光が雲を裂き、空に巨大な円形の穴を開けた。戦場の上に溜まっていた黒煙が吹き飛び、一瞬だけ青い空が覗く。


兵士達は、呆然とその空を見た。


生きている。


焼かれていない。


防衛線は、まだ残っている。


「結界、無傷……?」


王国軍の結界術師が、震える声で言った。


目の前の透明な一枚には、ひび一つ入っていなかった。黒龍の息吹を受け、逸らし、上空へ流してなお、その表面は静かに澄んでいる。揺れはある。だが崩壊の揺れではない。水面に強い風が当たった時のような、制御された揺らぎだった。


「多層じゃない……一層だぞ……」


別の魔法使いが呟く。


「馬鹿な。あれだけの魔力圧を一枚で受けたら、普通は内側から破裂する」


「普通じゃないんだろ……」


誰かが答えた。


銀翼の剣の幹部達も、その光景を見ていた。


崩れかけた防衛線の中で、彼らは言葉を失っていた。そこに立っている魔法使いを知っている。見間違えるはずがない。補修だらけのローブを着て、歪んだウィッチハットを被り、濁った魔石のワンドを使っていたE評価の攻撃魔法使い。


シャーロット。


だが、今の彼女は違う。


深い紺色の星衣リゲル。星帽ポラリス。星脈晶のヴェガ。背には布に包まれた星杖シリウス。まるで夜空を纏っているような姿で、黒龍の息吹を一人で受け止めている。


「何だ、あれは……」


銀翼の幹部の一人が、かすれた声で言った。


誰も答えられなかった。


黒龍が、初めて明確に反応した。


赤黒い瞳が細くなり、息吹を吐きながら首をわずかに下げる。人間達の防衛線を焼き払うはずだった吐息が、たった一枚の結界に止められている。その事実を理解したのか、喉奥の光がさらに強く脈打った。


ゴォォォォォォォォッ!!


二度目の圧が来る。


先ほどより重い。熱だけでなく、魔力そのものが結界を削ろうとしている。戦場全体の魔力が乱れ、近くにいた魔法使い達が胸を押さえた。王国軍の兵士達も、立っているだけで精一杯だった。


「シャーロット!」


ガルドが叫び、彼女の背後へ飛び込む。


黒龍の息吹そのものには触れられない。だが、結界の左右から漏れる熱風と破片を、大剣で弾き飛ばすことはできる。飛んできた石片を叩き落とし、倒れかけた兵士を片手で引き戻し、シャーロットの足元へ余計な衝撃が届かないように立つ。


「足元は任せろ!」


「はい!」


短いやり取り。


それだけで、シャーロットの結界がさらに安定した。


アメリアの指示も飛ぶ。


「負傷者を下げて! 結界の左右に立たない! 息吹は上へ逸れている、中央後方を空けなさい! 魔法兵はシャーロットの結界に干渉しないで、周辺防護に回って!」


その声に、王国軍の一部が反応した。


「あ、あの魔法使いを中心に陣形を組み直せ!」


指揮官が叫ぶ。


「負傷者搬送! 盾兵は左右へ! 魔法兵は余波を受けろ!」


混乱しかけた防衛線が、少しずつ形を取り戻す。


獅子の咆哮が動いた。


ガルドが足元を守り、アメリアが現場指揮を整え、レオンからの伝令が第二防衛線へ走る。アクセル率いる前衛隊が、崩れた右側へ入り、黒龍の次の動きに備える。


シャーロット一人に押し付けない。


彼女の力を中心に、全体が動く。


それが、銀翼の剣との違いだった。


銀翼では、彼女の支援は見えないものとして使われていた。誰かが助かったことも、事故が起きなかったことも、数字に残らないまま流れていった。


だが、獅子の咆哮は違う。


シャーロットが結界を張るなら、その足元を守る者がいる。指揮を整える者がいる。周囲の負傷者をどかす者がいる。余波を受ける者がいる。彼女の力を、戦場全体で活かそうとしている。


黒龍の息吹が、ようやく細くなった。


赤黒い光が弱まり、熱風が薄れ、轟音が少しずつ遠ざかっていく。最後の魔力圧が結界に叩きつけられたが、シャーロットはヴェガをわずかに傾け、それを上空へ流した。


ゴォンッ……!


空の高いところで、残った魔力が鈍く爆ぜる。


そして、静寂が落ちた。


焼けた地面から煙が上がる。


崩れた土壁の破片が、ぱらぱらと音を立てて落ちる。


誰もすぐには動けなかった。


王国軍も、Sランククランも、銀翼の剣も、黒龍さえも、一瞬だけ止まった。


シャーロットの一層障壁は、まだそこにあった。


透明で、薄く、静かに。


無傷のまま。


シャーロットはゆっくり息を吐き、ヴェガを下ろした。


指先が、ほんのわずかに震えていた。


誰にも見せないように、彼女は手を軽く握る。


「……防げました」


その声は、いつもと変わらないほど穏やかだった。


周囲の兵士達は、まだ言葉を失っている。


やがて、誰かが小さく呟いた。


「今のを……防いだのか?」


別の誰かが答える。


「一枚で……?」


また、沈黙。


そして、銀翼の剣の一人が、呆然とした声で言った。


「俺達は……あれを、E評価にしていたのか……?」


その言葉は、轟音よりも静かに、しかし確かに、銀翼の者達の胸へ落ちた。


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