第3節 黒龍の息吹①
黒龍の口腔に、赤黒い光が集まっていく。
それは炎ではなかった。
炎ならば、まだ分かる。熱があり、燃え広がり、風で煽られ、水で弱め、土壁で遮ることもできる。竜の吐く炎であれば、王国軍にも対応の経験があった。魔法兵は水と土の複合障壁を張り、盾兵は耐熱処理を施した大盾を並べ、後衛は風で熱を散らす。
だが、黒龍の喉奥に渦巻くものは、そういう次元のものではない。
熱と魔力と圧が、一つの塊になっていた。
ゴ、ォォォォォォ……。
低い音が戦場全体を揺らす。音というより、地面の下から巨大なものが唸っているような振動だった。城塞の残骸が細かく震え、割れた石畳の隙間から灰が浮き上がる。兵士達の鎧が鳴り、盾の金具がかたかたと音を立てた。
「全結界、重ねろ!」
王国軍の指揮官が喉を潰す勢いで叫ぶ。
「魔法兵、冷却術式! 土壁、前へ! 盾兵、動くな!」
命令は速かった。王国軍は決して無能ではない。城塞区画が半壊しても、兵士達はまだ統制を保っていた。Sランククラン達も即座に動く。銀翼の剣の魔法使い達が、水と風の術式を重ね、別のSランククランの結界術師が多層障壁を展開する。
一枚、二枚、三枚。
さらにその前へ、王国軍の土魔法兵が分厚い土壁を立てた。焼けた地面が盛り上がり、黒い土の防壁となって黒龍の前に並ぶ。盾兵達がその後ろで大盾を構え、後衛が冷却と魔力分散の術式を重ねる。
防衛線は、全力で黒龍の息吹に備えた。
それでも。
「足りない……!」
誰かが言った。
その声は、絶望に近かった。
放たれる前から分かるのだ。黒龍の口元に集まる魔力の量が、防衛線の結界を超えている。多層障壁の表面が、まだ衝撃を受けていないのに歪んでいた。土壁の上部が熱を帯び、乾いた音を立ててひび割れていく。冷却術式の魔法陣が、赤黒い魔力圧に押されて端から薄くなる。
銀翼の剣の前衛隊長が歯を食いしばった。
「下がるな! ここを抜かれたら後方が焼かれる!」
その後方には、負傷者がいる。
撤退中の兵士がいる。
搬送班がいる。
さらにその先には、第二防衛線と避難民の列がある。
誰も下がれなかった。
下がれば、守るべきものが焼かれる。
けれど、立っていても焼かれる。
兵士達の顔に、その理解が広がっていった。
黒龍の喉が膨らむ。
空気が吸い込まれた。炎が黒龍の口元へ引かれ、煙が渦を巻き、周囲に散っていた魔力の残滓まで吸い寄せられていく。赤黒い光がさらに濃くなり、黒龍の鱗の隙間からも同じ色の光が漏れた。
ゴォォォォォォォォォォ――。
大気が悲鳴を上げる。
最前列の盾兵の一人が、思わず膝をついた。隣の兵士が肩を掴んで引き起こす。だが、その隣も震えていた。恐怖ではない。いや、恐怖もある。だがそれ以上に、魔力圧が体を押し潰しているのだ。
「詠唱、維持しろ!」
銀翼の魔法隊長が叫ぶ。
その声も震えていた。
魔法使い達は必死に術式を維持する。水の膜、土の壁、風の分散、光の補強。だが、一人、また一人と詠唱が乱れた。黒龍の魔力が近づくだけで、魔力回路が焼かれるように熱くなる。息を吸うだけで胸が詰まり、指先が痺れる。
「くそっ……!」
銀翼の若い魔法使いが、歯を食いしばってワンドを構えた。
その手元が、わずかにぶれる。
普段なら、誰かが声をかけていたかもしれない。
息を吐いてください、と。
一度、術式を細くしましょう、と。
無理に押し返さず、横へ逃がしましょう、と。
だが、その声はない。
彼は無理に魔力を押し込んだ。ワンドの先端がきしむ。魔石が赤く熱を帯び、ぴしりと小さな亀裂が入った。
「まずい!」
隣の魔法使いが叫んだ瞬間、術式の一部が弾けた。
バチンッ!
結界の右端が一枚、崩れる。
たった一枚。
だが、黒龍の息吹を前にした防衛線では、その一枚が致命的な隙間に見えた。
「右端、補強!」
「間に合いません!」
「誰か入れ!」
銀翼の結界術師が動こうとする。だが、同時に前方で土壁が砕けた。黒龍がまだ息を吐いていないにもかかわらず、口元に集まる魔力圧だけで土壁の表面が焼け、内側から弾けたのだ。
ドゴォンッ!
土の破片が飛ぶ。
盾兵達が身を伏せる。負傷者を運んでいた搬送班が悲鳴を上げ、担架が傾いた。銀翼の前衛が慌てて支えに入るが、そこへ黒龍の魔力圧がさらにのしかかる。
防衛線が、わずかに下がった。
その一歩を、黒龍は見逃さなかった。
赤黒い瞳が細くなる。
まるで、人間達が積み上げた結界も盾も土壁も、ただの薄紙にすぎないと知っているように。
黒龍が、息を吐いた。
最初に来たのは光だった。
赤黒い閃光が視界を焼く。次に熱。いや、熱という言葉では足りない。空気そのものが灼け、肺へ入る前に喉を焼こうとする。最後に音が来た。
ゴォォォォォォォォォォォォォォッ!!
地獄の門が開いたような轟音だった。
黒龍の息吹が、防衛線へ一直線に放たれる。
それは炎の奔流であり、魔力の濁流であり、圧縮された災害そのものだった。赤黒い光が地面を削りながら走り、触れた石畳が一瞬で白く熱を帯びる。空気が歪み、城塞の残骸が影ごと揺らいだ。防衛線の前に張られた多層障壁が、一枚目から順に悲鳴を上げる。
ビキッ。
一枚目が割れる。
バキンッ。
二枚目が砕ける。
ガラスが連続して割れるような音が、轟音の中で何度も響いた。三枚目、四枚目、五枚目。王国軍の結界が潰れ、Sランククランの防御術式が軋み、銀翼の剣の防壁が赤黒い光に飲まれていく。
「耐えろおおおおおっ!」
指揮官が叫ぶ。
兵士達は耐えようとした。
Sランク冒険者達も、逃げなかった。
銀翼の剣も退かなかった。
だが、結界は人の意思だけでは保たない。
黒龍の息吹が、中央防壁を押し潰した。
ドォォンッ!
土壁が爆ぜる。
熱風が盾兵の列を叩き、数名が後方へ吹き飛ぶ。防護魔法を重ねていた魔法使い達が膝をつき、何人かはワンドを取り落とした。治癒術師達が悲鳴を上げ、搬送中の負傷者を庇う。
防衛線が、崩れる。
誰もが、それを理解した。
もう止まらない。
このまま息吹が抜ければ、第一防衛線は焼かれる。王国軍も、Sランククランも、銀翼の剣も、まとめて灼き払われる。黒龍の息吹はそのまま後方の搬送路へ抜け、避難民の列にまで混乱を広げる。
兵士の一人が、目を閉じた。
終わった。
そう思った。
その瞬間だった。
赤黒い息吹の前へ、一つの影が走り込んだ。
深い紺色のローブが、灼熱の風の中で翻る。
星の銀糸を宿した帽子が、黒煙の中で揺れる。
腰のワンドが淡く光り、背のスタッフが布の内側で鈍い存在感を放つ。
「シャーロット!」
ガルドの声が、後ろから飛んだ。
だが彼女は止まらない。
息吹の真正面。
崩れた防壁の最前列。
王国軍の兵士達とSランク冒険者達が呆然と見る中、Aランククランの幹部候補である一人の魔法使いが、黒龍の災害級の息吹の前に立った。
銀翼の剣の幹部の一人が、目を見開く。
「あれは……」
誰かが名前を言いかけた。
だが、その声は轟音に飲まれた。
シャーロットは星脈晶のヴェガを抜いた。
三つの星脈晶が、赤黒い光の中で青白く、銀に、淡い金に瞬く。
第一核が魔力を受ける。
第二核が流れを整える。
第三核が余剰を逃がす。
彼女は息を吐いた。
「ここから先へは、通しません」
その声は大きくなかった。
けれど、不思議と近くにいた兵士達の耳には届いた。
黒龍の息吹が迫る。
赤黒い光が、彼女の正面に到達する。
シャーロットはヴェガを構え、左手を前へ出した。
足元に、淡い青白い魔法陣が一つだけ開く。
複雑な多層障壁ではない。
何枚もの膜を重ねる術式でもない。
たった一枚。
透明で、薄く、静かな一層の結界が、黒龍の息吹の前に生まれた。




