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第3節 息吹の前へ

黒龍の口腔に、赤黒い光が集まっていく。


竜の炎なら、王国軍にも受け方があった。


水で冷やす。


土壁で遮る。


風で熱を散らす。


盾兵が耐熱処理の大盾を並べ、魔法兵が複合障壁を張る。何度も竜種を退けてきたやり方だ。


だが、黒龍の喉奥で渦巻くものは違った。


熱だけではない。


魔力と圧が、一つの塊になっている。


ゴ、ォォォォォォ……。


低い音が、戦場全体を揺らした。


城塞の残骸が細かく震える。割れた石畳の隙間から灰が浮き、兵士達の鎧がかたかたと鳴った。


「全結界、重ねろ!」


王国軍の指揮官が叫ぶ。


「魔法兵、冷却術式! 土壁、前へ! 盾兵、動くな!」


命令は速かった。


魔法兵が水と土の術式を組み、盾兵が大盾を並べる。Sランククランの結界術師達も即座に前へ出た。銀翼の剣の魔法使い達が、水と風の術式を重ねる。


一枚、二枚、三枚。


多層障壁が黒龍の前に重なっていく。


その前へ、王国軍の土魔法兵が分厚い土壁を立てた。焼けた地面が盛り上がり、黒い防壁となって並ぶ。


盾兵達はその後ろで大盾を構えた。


後衛が冷却と魔力分散の術式を重ねる。


第一防衛線は、全力で息吹に備えた。


だが、黒龍の口元に集まる光は膨らみ続ける。


多層障壁の表面が、まだ触れられてもいないのに歪んだ。土壁の上部が熱を帯び、乾いた音を立ててひび割れていく。冷却術式の魔法陣が、端から薄くなった。


「足りない……!」


誰かの声が漏れた。


誰も否定できなかった。


銀翼の剣の前衛隊長が歯を食いしばる。


「下がるな! ここを抜かれたら後方が焼かれる!」


その後方には、負傷者がいる。


撤退中の兵士がいる。


搬送班がいる。


さらに先には、第二防衛線と避難民の列がある。


誰も下がれない。


黒龍の喉が膨らんだ。


炎が口元へ引かれ、煙が渦を巻く。戦場に散っていた魔力の残滓まで吸い寄せられ、赤黒い光が濃くなっていく。鱗の隙間からも、同じ色の光が漏れた。


ゴォォォォォォォォォォ――。


最前列の盾兵が、膝をつきかける。


隣の兵士が肩を掴んで引き起こした。


その隣も震えている。


恐怖だけではない。


魔力圧が、体を押し潰していた。


「詠唱、維持しろ!」


銀翼の魔法隊長が叫ぶ。


魔法使い達は必死に術式を支える。


水の膜。


土の壁。


風の分散。


光の補強。


だが、一人、また一人と詠唱が乱れていく。黒龍の魔力が近づくだけで、指先が痺れ、胸が詰まる。


銀翼の若い魔法使いが、ワンドを握り直した。


その手元がわずかにぶれる。


「くそっ……!」


彼は無理に魔力を押し込んだ。


ワンドの先端がきしむ。


魔石が赤く熱を帯び、ぴしりと亀裂が入った。


「まずい!」


隣の魔法使いが叫んだ瞬間、術式の一部が弾けた。


バチンッ!


結界の右端が一枚、崩れる。


たった一枚。


だが、その隙間へ赤黒い魔力圧が流れ込んだ。


「右端、補強!」


「間に合いません!」


「誰か入れ!」


銀翼の結界術師が動こうとする。


同時に、前方の土壁が砕けた。


黒龍はまだ息を吐いていない。


それなのに、口元へ集まった魔力圧だけで土壁の表面が焼け、内側から弾けた。


ドゴォンッ!


土の破片が飛ぶ。


盾兵達が身を伏せた。


負傷者を運んでいた搬送班が悲鳴を上げ、担架が傾く。銀翼の前衛が支えに入るが、そこへさらに重い圧がのしかかった。


防衛線が、一歩下がった。


黒龍の赤黒い瞳が細くなる。


息が、放たれた。


最初に来たのは光だった。


赤黒い閃光が視界を焼く。


次に熱。


空気そのものが灼け、喉の奥を焦がそうとする。


最後に、音が来た。


ゴォォォォォォォォォォォォォォッ!!


黒龍の息吹が、防衛線へ一直線に走る。


赤黒い光が地面を削り、触れた石畳が白く熱を帯びた。空気が歪み、城塞の残骸が影ごと揺らぐ。


多層障壁が、一枚目から順に割れていく。


ビキッ。


一枚目。


バキンッ。


二枚目。


ガラスが砕けるような音が、轟音の中で続いた。


三枚目、四枚目、五枚目。


王国軍の結界が潰れる。


Sランククランの防御術式が軋む。


銀翼の剣の防壁が、赤黒い光に飲まれていく。


「耐えろおおおおおっ!」


指揮官が叫ぶ。


兵士達は逃げなかった。


Sランク冒険者達も退かなかった。


銀翼の剣も、踏みとどまった。


だが、結界は割れ続ける。


ドォォンッ!


中央の土壁が爆ぜた。


熱風が盾兵の列を叩き、数名が後方へ吹き飛ばされる。防護魔法を重ねていた魔法使い達が膝をつき、ワンドを取り落とした。


治癒術師達が、搬送中の負傷者に覆いかぶさる。


最前列の兵士が、息を呑んだ。


もう一枚。


あと一枚割れれば、息吹が抜ける。


その時、後方から足音が近づいていた。


焦げた風の中を、シャーロットは走っていた。


胸が苦しい。


星帽ポラリスの内側で、魔導糸が強く震えている。黒龍の魔力が近づくたび、肌の奥が冷えた。


怖い。


足が一瞬だけ重くなる。


けれど、彼女は前を見た。


崩れかけた結界の向こうに、盾を構えた兵士達がいる。


倒れた魔法使いがいる。


担架の上で、負傷者が目を閉じている。


その先に、避難民の列がある。


「止まったら、届かない」


小さく呟いて、シャーロットは速度を上げた。


「シャーロット!」


ガルドの声が、後ろから飛ぶ。


「前に出すぎるな!」


「一枚だけ張ります!」


「一枚で足りるのかよ!」


「足ります」


声が震えなかったことに、自分で少し驚いた。


崩れた防壁の最前列へ、シャーロットは滑り込んだ。


王国軍の兵士達とSランク冒険者達が、呆然とこちらを見る。


銀翼の剣の幹部の一人が、目を見開いた。


「あれは……」


誰かが名前を呼びかける。


だが、その声は轟音に飲まれた。


シャーロットは腰の星脈晶のヴェガを抜いた。


三つの星脈晶が、赤黒い光の中で青白く、銀に、淡い金に瞬く。


第一核が魔力を受ける。


第二核が流れを整える。


第三核が余剰を逃がす。


彼女は息を吐いた。


「ここから先へは、通しません」


その声は大きくなかった。


それでも、すぐ近くにいた兵士達は顔を上げた。


赤黒い息吹が迫る。


シャーロットはヴェガを構え、左手を前へ出した。


足元に、淡い青白い魔法陣が開く。


複雑な多層障壁ではない。


何枚もの膜を重ねる術式でもない。


たった一枚。


透明で、薄く、静かな一層の結界が、黒龍の息吹の前に生まれた。

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