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第2節 Sランク総力戦

アルムガルド城塞区画は、すでに城塞と呼べる姿ではなくなっていた。


高く積まれた外壁は、東側の三分の一が崩れ落ちている。対大型魔物用の弩砲は、半数以上が焼け焦げ、黒い骨組みだけを晒していた。石畳は熱で割れ、溶けた鉄の匂いと、焦げた木材の匂いと、血の匂いが混ざっている。城塞の内側からは、まだ避難しきれていない兵士や民間人の声が聞こえた。


その向こうに、黒龍がいた。


竜ではない。


ただの大型魔物ではない。


黒い山が、ゆっくりと動いているようだった。全身を覆う鱗は夜よりも深い黒をしており、ところどころに赤黒い魔力の筋が走っている。翼を一度広げるだけで、周囲の煙と灰が吹き飛び、城壁の残骸がぎしぎしと震えた。


王国軍の第一防衛線は、その黒龍を前に展開していた。


槍兵の列。盾兵の壁。魔法兵の後方陣。城塞から運び出された大型弩砲。さらに王都から駆けつけたSランククランの精鋭達が、王国軍の隙間を埋めるように配置されている。


銀翼の剣も、そこにいた。


白銀の紋章を掲げた旗が、焦げた風の中で揺れている。かつてシャーロットが所属していたSランククラン。その主力部隊は確かに強かった。前衛は重い一撃を受け止め、斥候は黒龍の動きを読み、攻撃魔法使い達は高密度の術式を組み上げている。銀翼の剣の名は伊達ではない。彼らはSランククランとして、十分な実力を持っていた。


だが、相手が悪すぎた。


「放てぇ!」


王国軍の指揮官が叫ぶ。


大型弩砲が一斉に唸った。


ギィンッ、ドォンッ、ドォンッ!


太い鉄杭が黒龍へ向かって飛ぶ。一本一本が人間の胴ほどもある対大型魔物用の矢だ。普通の竜なら鱗を砕き、翼膜を破り、肉に深く食い込む。実際、これまで王国軍は何度も竜種をこの弩砲で撃退してきた。


しかし、黒龍は首をわずかに動かしただけだった。


ガァンッ!


鉄杭が鱗に弾かれる。


火花が散り、折れた鉄杭が地面へ落ちた。何本かは鱗の隙間に当たったが、深く刺さる前に赤黒い魔力に押し返され、砕けて飛んだ。


「効いていない……!」


兵士の一人が呻く。


その瞬間、銀翼の剣の攻撃部隊が前へ出た。


「魔法部隊、合わせろ!」


銀翼の幹部の号令で、複数の攻撃魔法使いが詠唱を重ねる。風で炎を伸ばし、雷で鱗の隙間を狙い、土の槍で足元を固定する。連携は見事だった。さすがSランククラン。術式の組み立ても早く、出力も高い。


赤い火線が走り、雷が唸り、土槍が黒龍の足元を囲む。


ドドドドドッ!


黒龍の前脚周辺で爆発が連続した。炎と煙が上がり、地面が抉れる。普通の大型魔物なら、それだけで脚を失っていてもおかしくない威力だった。


だが、煙の中から黒龍の脚が出てきた。


鱗の表面に、浅い傷があるだけだった。


「浅い!」


銀翼の攻撃魔法使いが歯を食いしばる。


「鱗じゃない、隙間を狙え! 関節部だ!」


前衛達が動く。銀翼の剣だけではない。別のSランククランの槍使い達も同時に走った。黒龍の足元へ近づき、膝裏、爪の付け根、鱗の重なりを狙って攻撃を叩き込む。


ガギィンッ!


剣が弾かれる。


槍が滑る。


斧が鱗の上で火花を散らす。


それでも、Sランク冒険者達は怯まない。すぐに角度を変え、二撃目、三撃目を入れる。王国軍の魔法兵が後方から援護し、銀翼の魔法使い達が風で煙を払い、視界を確保する。


善戦はしていた。


本当に、善戦していた。


だが、届かない。


黒龍は一度、低く喉を鳴らした。


ゴ、ォォォォ……。


それだけで、大気が震えた。


前衛達の足が止まる。盾を構えた兵士達が膝を曲げ、耐える。魔法兵の詠唱が乱れ、幾つかの術式が途中でほどけた。龍の魔力圧。ただそこに存在するだけで、人間の魔力回路を押し潰し、呼吸を浅くさせる圧力。


「詠唱を止めるな!」


銀翼の幹部が叫ぶ。


「支援、結界を張れ!」


後衛の結界術師達が多層障壁を展開する。薄い膜を何枚も重ね、黒龍の魔力圧から前衛を守ろうとする。だが、黒龍が一歩踏み出しただけで、障壁の表面がびりびりと震えた。


ズンッ。


黒龍の前脚が地面を踏む。


その衝撃が、地面を伝って第一防衛線まで届いた。盾兵の列が揺れる。前衛の一人が足を取られ、膝をつく。そこへ黒龍の尾が横薙ぎに振られた。


「伏せろ!」


誰かが叫んだ。


間に合った者は伏せた。間に合わなかった者は、盾ごと吹き飛ばされた。


ゴァンッ!


尾が城壁の残骸を砕き、兵士達をまとめて薙ぎ払う。盾が割れ、鎧が歪み、悲鳴が上がった。すぐに治癒術師と搬送班が走る。だが、負傷者が多すぎる。重傷者を運ぶにも、足場が悪く、煙で視界が効かない。


銀翼の剣の一部隊が救援に回った。


「負傷者を後ろへ! 魔法使い、煙を払え!」


「後衛、下がりすぎるな! 隊列を維持しろ!」


彼らは確かに動けている。けれど、細かなところが噛み合わない。


撤退路が一拍遅れる。


負傷者を運ぶ前に、足元の瓦礫が片付いていない。


魔法使いの詠唱が黒龍の魔力圧でわずかに乱れる。


盾役が疲労で腕を下げかけているのに、誰もすぐには気付かない。


誰かが危険を大きくする前に、小さく整える。その役が、銀翼にはいなかった。


以前なら、そこにシャーロットがいた。


煙の流れを変え、負傷者の搬送路を薄い結界で守り、盾役の腕が落ちる前に配置を変え、魔法使いへ「息を吐いてください」と声をかけていた。黒龍ほどの相手ではないにしても、彼女はいつも戦場が崩れる前に、崩れそうな場所へ手を入れていた。


今、その手がない。


「第四班、負傷者を後方へ回せ!」


銀翼の幹部が叫んだ。


だが第四班は、すでに別の崩れた部隊の救援へ回っていた。


「第四班はいません!」


「では第六班を!」


「第六班は魔法兵の護衛に回っています!」


一つの遅れが、次の遅れを呼ぶ。


それでも銀翼は踏みとどまった。腐ってもSランククランだ。前衛の強さも、魔法部隊の火力も、指揮官の判断も並ではない。彼らは黒龍の圧に耐えながら、王国軍とともに第一防衛線を支え続けた。


だが、黒龍の方はまだ本気ではなかった。


黒龍が翼を広げた。


風が起こる。


いや、風ではない。


魔力を含んだ圧が、翼の動きに合わせて戦場を叩いた。


バァンッ!


第一防衛線の右側が大きく崩れる。兵士達が転がり、魔法陣が消え、弩砲の一基が台座ごと横転した。別のSランククランが急いで穴を埋める。銀翼の前衛も数名がそちらへ走った。


その瞬間、中央が薄くなった。


「中央、薄いぞ!」


「黒龍が来る!」


黒龍の首が、ゆっくりと中央へ向いた。


巨大な赤黒い瞳が、防衛線を見下ろす。


まるで、人間達の必死の抵抗など最初から障害にもならないとでも言うように。


「結界!」


王国軍の魔法兵が叫ぶ。


多層障壁が次々と重なる。王国軍、Sランククラン、銀翼の結界術師。何十枚もの膜が、黒龍の前に展開された。


それを見て、兵士達の一部がわずかに安堵した。


だが、次の瞬間。


黒龍が息を吸った。


空気が消えたように感じた。


周囲の炎が一方向へ引かれ、煙が渦を巻き、地面の細かな灰が黒龍の口元へ吸い寄せられる。黒い喉の奥に、赤黒い光が灯った。熱ではない。炎だけでもない。魔力そのものが、圧縮されている。


「ブレスが来る!」


誰かが叫んだ。


前衛達の顔から血の気が引く。


王国軍の指揮官が叫ぶ。


「全結界、重ねろ! 盾兵、構え! 負傷者を下げろ!」


銀翼の魔法使い達も詠唱を重ねる。火に強い防御、水の冷却、土の固定、風の拡散。複数の属性を重ね、何層もの結界を組み上げる。Sランククランの結界術師達も全力で魔力を注ぎ込んだ。


それでも足りない。


黒龍の口元に集まる魔力は、結界の耐久を明らかに上回っていた。


銀翼の前衛が歯を食いしばる。


「耐えろ!」


その声は勇敢だった。


だが、勇敢さで災害は止まらない。


黒龍の喉が鳴る。


ゴォ、オオオオオオ……。


熱が来る前に、魔力圧だけで結界が軋んだ。多層障壁の一枚目が震え、二枚目が歪み、三枚目にひびが入る。まだ放たれてもいないのに、結界が悲鳴を上げていた。


「無理だ……」


兵士の一人が呟いた。


その時、後方の第二防衛線で、シャーロットが顔を上げた。


星帽ポラリスの内側で、探知補助が強く震えている。黒龍の魔力が膨れ上がる感覚が、遠く離れた第二防衛線にまで届いていた。空気が重い。胸が圧迫される。避難民の子供が泣き出し、兵士達が東の空を見た。


アメリアも気付いた。


「第一防衛線が危ない」


レオンが地図と魔力観測具を見比べる。


「黒龍の魔力反応、急上昇。ブレスです。第一防衛線の結界出力では……」


言葉が止まった。


足りない。


それは、全員が分かった。


シャーロットは東を見た。


まだ見えない。煙と距離で、黒龍の姿はここからははっきりしない。


けれど、分かる。


あれは、通してはいけない。


第一防衛線が崩れれば、王国軍もSランククランもまとめて焼かれる。負傷者の搬送路も消える。避難民の列にも混乱が広がる。第二防衛線で受け止める前に、戦場そのものが壊れる。


「アメリアさん」


シャーロットの声は静かだった。


「行きます」


アメリアは一瞬だけ、彼女を見た。


止めるべきか。


行かせるべきか。


第二防衛線の幹部候補を、第一防衛線へ向かわせる。それは本来の配置ではない。Aランククランの役割からも外れる。


だが、今この瞬間、止められる可能性があるのは誰か。


アメリアは迷いを一呼吸で飲み込んだ。


「ガルド!」


「分かってる!」


ガルドが大剣を担ぎ、シャーロットの隣へ走る。


「レオン、第二防衛線の指揮補助を引き継いで。負傷者搬送路を南へずらす。アクセルに伝令、シャーロットを第一防衛線へ出す!」


「了解」


レオンはすぐに動いた。


アメリアはシャーロットを見る。


「一人で抱えない。ガルドを連れて行く。必要なら私も前に出る」


「はい」


「無茶はするな、と言ってもするでしょうから、せめて報告しなさい」


シャーロットは少しだけ笑った。


「分かりました」


そして走り出した。


星衣リゲルの裾が、焦げた風の中で揺れる。


星帽ポラリスの銀糸が光る。


腰の星脈晶のヴェガが、三つの星脈晶を淡く瞬かせる。


背の星杖シリウスは、まだ布に包まれたままだ。


第一防衛線では、黒龍の息吹が放たれようとしていた。


王国軍とSランククランが総力を尽くしても届かなかった災害。


その前へ、Aランククランの幹部候補が走っていく。


誰もまだ知らない。


この戦場で、銀翼の剣が捨てた魔法使いの本当の価値が、王国中に知られることになるなど。

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