第2節 崩れる第一防衛線
アルムガルド城塞区画は、もう城塞と呼べる形をほとんど失っていた。
東側の外壁は崩れ、見張り塔は根元から折れている。石畳は熱で割れ、焼けた木材と溶けた鉄の匂いが、煙に混じって風に流れていた。
遠くで、黒龍が咆哮する。
グォォォォォォォォォォッ!!
空気が震えた。
それだけで、地面に積もった灰が跳ねる。馬が怯え、兵士が歯を食いしばり、避難民の列から悲鳴が上がった。
黒龍は、城塞の向こうにいた。
夜よりも深い黒い鱗。
鱗の隙間を走る赤黒い魔力の光。
翼がわずかに広がるだけで、煙と灰が吹き飛び、崩れかけた城壁が軋む。
第一防衛線では、王国軍とSランククランが黒龍を迎え撃っていた。
槍兵が前へ出る。
盾兵が列を組む。
魔法兵が後方から術式を重ねる。
大型弩砲が黒龍へ向けられ、Sランク冒険者達が左右へ散った。
その中に、銀翼の剣もいた。
白銀の紋章が、焦げた風の中で揺れている。
かつてシャーロットが十年所属していたクラン。
攻撃魔法使いとして評価されず、最後にはE評価で追放された場所。
だが、第一防衛線に立つ銀翼の冒険者達は、確かに強かった。
「放てぇ!」
王国軍の指揮官が叫ぶ。
大型弩砲が一斉に唸った。
竜を落としてきた鉄杭が、黒龍の鱗へ向かって飛ぶ。
ガァンッ!
直撃した。
だが、刺さらない。
赤黒い魔力が鱗の表面で脈打ち、鉄杭を弾き返す。砕けた破片が地面へ突き刺さり、兵士達が身を伏せた。
「魔法部隊、合わせろ!」
銀翼の魔法使い達が詠唱を重ねる。
風が炎を伸ばし、雷が鱗の隙間を狙い、土槍が足元を固定しようと伸びた。
連携は速い。
乱れてもいない。
爆発が黒龍の脚を包み、煙が広がる。
だが、煙の奥から現れた黒龍の脚には、浅い傷しかなかった。
「関節部を狙え!」
別のSランククランの前衛達が走る。
銀翼の前衛も続いた。
膝裏。
爪の付け根。
鱗の重なり。
剣が弾かれ、槍が折れ、斧が火花を散らす。それでも彼らは退かない。
黒龍が低く喉を鳴らした。
ただそれだけで、前衛の足が一瞬止まる。
魔法兵の詠唱が揺れ、術式の端がほどけた。
「詠唱を止めるな!」
「支援、結界を張れ!」
多層障壁が展開される。
一枚、二枚、三枚。
だが、黒龍が一歩踏み出しただけで、障壁が大きく震えた。盾兵の列が揺れ、前衛の一人が膝をつく。
黒い尾が、横薙ぎに振られた。
ドゴォンッ!
土壁が砕ける。
兵士達が吹き飛び、治癒術師と搬送班が走った。
「負傷者を後方へ!」
「煙を払え!」
「後衛、下がりすぎるな!」
銀翼の声も飛ぶ。
動きは悪くない。
だが、煙を払う風が搬送路まで届かない。瓦礫が残ったままになり、担架が迂回する。盾役の腕が疲労で下がりかけても、補助が一拍遅れる。
「第四班、負傷者を後方へ回せ!」
「第四班はいません!」
「では第六班を!」
「第六班は魔法兵の護衛中です!」
指示が飛ぶ。
返事もある。
だが、細い隙間が埋まらない。
前なら、そこで薄い結界が入っていた。
煙の流れが変わった。
搬送路の瓦礫が弾かれた。
盾役の腕が落ちる前に、小さな声が飛んだ。
今、その声はない。
それでも銀翼は崩れなかった。
Sランクの看板は軽くない。
王国軍と他のSランククランと共に、第一防衛線を支え続ける。
だが、黒龍が翼を広げた。
赤黒い魔力が、戦場を叩く。
第一防衛線の右側が崩れた。
別のSランククランと銀翼の前衛が穴を埋めに走る。
その分、中央が薄くなる。
黒龍の顔が、中央へ向いた。
喉の奥に、赤黒い光が集まっていく。
「ブレスが来るぞ!」
王国軍の指揮官が叫んだ。
「全結界、重ねろ! 盾兵、動くな! 負傷者を下げろ!」
多層障壁が中央に重なる。
王国軍。
Sランククラン。
銀翼の結界術師。
水、土、風、光。
いくつもの術式が黒龍の前に張られた。
だが、黒龍の喉奥の光は膨らみ続ける。
放たれる前から、結界の表面が歪んでいた。
後方。
第二防衛線、南の旧街道。
避難民の列は、橋の手前で詰まりかけていた。
荷馬車の車輪が、割れた石に引っかかっている。泣き出した子どもを抱えた母親が、列の横で立ち止まっていた。
「一台ずつ通してください。走らなくて大丈夫です」
シャーロットは橋のたもとに薄い結界を張りながら、土魔法で車輪の下の石を浮かせた。
荷馬車が動く。
その横で、足を痛めた老人がよろめいた。
シャーロットは小さな光を足元へ置く。
「そこは踏まないでください。こちらです」
声は荒げない。
でも、列は止めない。
後ろでは、ガルドが道端に転がっていた魔物の死骸を蹴り出している。アメリアは搬送班へ指示を飛ばし、レオンからの伝令が次々に走ってきていた。
星帽ポラリスの内側で、探知補助の魔導糸が強く震えた。
シャーロットの指が止まる。
東の空から、重いものが押し寄せてくる。
見えてはいない。
けれど、分かる。
黒龍の魔力が、一点に集まっている。
橋の上の馬が怯え、避難民の列がざわついた。子どもが泣き、母親が慌てて抱きしめる。
シャーロットは反射的に橋全体へ薄い結界を広げた。
「大丈夫です。進んでください」
自分の声が少し低くなっていることに気づく。
怖い。
肌の奥が冷えていた。
アメリアも東を見る。
「第一防衛線が危ない」
レオンから走ってきた伝令が、息を切らして叫んだ。
「黒龍、ブレス準備! 第一防衛線、中央結界維持中!」
アメリアの表情が変わる。
「出力は?」
「不明! ただ、観測班からは結界が保たない可能性ありと!」
シャーロットは東の煙を見た。
距離がある。
黒煙で何も見えない。
それでも、赤黒い圧だけは分かる。
あの光が抜ければ、第一防衛線が焼かれる。
王国軍も。
Sランククランも。
銀翼も。
搬送路も。
そして、ここへ逃げている人達の道も。
橋を渡り終えた子どもが、母親に抱き上げられた。
小さな手が、こちらへ振られる。
その手は震えていた。
シャーロットは息を吐いた。
「アメリアさん」
「分かってる。でも言いなさい」
シャーロットはヴェガに触れる。
怖さは消えない。
足元も少し冷たい。
それでも、目は東から逸らさなかった。
「第一防衛線へ行きます」
アメリアは一瞬だけ黙った。
止めるべきか。
行かせるべきか。
その迷いは、ほんの短いものだった。
「ガルド!」
「分かってる!」
ガルドが大剣を担ぎ直し、シャーロットの隣へ走ってくる。
アメリアはすぐに指示を飛ばした。
「レオンへ伝令! 第二防衛線の指揮補助を引き継がせて! 負傷者搬送路は南側へずらす。アクセルに伝令、シャーロットを第一防衛線へ出す!」
「了解!」
団員が走る。
アメリアはシャーロットへ向き直った。
「一人で抱えない。ガルドを連れて行く。必要なら私も前へ出る」
「はい」
「十キロ級の探知を使うなら報告。結界を張るなら範囲を言う。黙って倒れるのは禁止」
「分かりました」
ガルドが横から覗き込む。
「本当に分かってるか?」
シャーロットは少しだけ目を伏せた。
それから、東を見た。
赤黒い光が、黒煙の向こうで膨らんでいる。
「怖いです」
短く言う。
ガルドは茶化さなかった。
シャーロットは続ける。
「でも、行かない方がもっと怖いです」
ガルドは大剣を肩に担いだ。
「なら走れ。隣は空けといてやる」
シャーロットは頷いた。
星衣リゲルの裾が、焦げた風に揺れる。
星帽ポラリスの銀糸が光る。
腰の星脈晶ヴェガが、淡く震えていた。
第一防衛線の方角で、赤黒い光がさらに膨れ上がる。
シャーロットは布越しに、背の星杖シリウスの柄を確かめた。
そして、走り出した。
ガルドの足音が、すぐ隣に並ぶ。
シャーロットは速度を上げた。




