第1節 非常鐘と黒龍
王都ギルドの非常鐘が鳴った。
重く、低い音だった。
普段の緊急依頼で鳴る鐘ではない。受付に並んでいた冒険者達が、一斉に顔を上げる。酒場側で騒いでいた者達も口を閉じ、掲示板の前にいた若い冒険者が、依頼票を手にしたまま固まった。
ギルド職員が奥から走ってくる。
受付の灯りが増やされ、奥の会議室へ幹部職員が呼ばれていく。
やがて、ギルド長が姿を見せた。
手には、王国軍の封蝋が押された緊急通達が握られている。
「全員、聞け」
ざわめきが止まった。
ギルド長は一度だけ通達へ目を落とし、顔を上げる。
「アルムガルド城塞区画に、黒龍が出現した」
一瞬、誰も息をしなかった。
すぐに、あちこちで声が上がる。
「黒竜か?」
「竜種の上位個体か?」
「違う」
ギルド長の声が、広間のざわめきを断った。
「竜ではない。龍だ」
その一言で、空気が変わった。
竜なら、討伐記録がある。
強大な魔物ではあるが、王国軍にも冒険者にも、戦い方の積み重ねがある。
だが、龍は違う。
そこにいるだけで魔力を乱し、咆哮だけで兵を崩し、息吹で地形を変える。
討伐対象というより、災害に近い。
「アルムガルド城塞区画は半壊。周辺村落三つが壊滅。二つの村が避難中。東方駐屯隊が交戦しているが、進行は止まっていない」
誰かが、低く呻いた。
アルムガルドは東方防衛の要だ。
あそこが抜かれれば、避難路も補給路も崩れる。
ギルド長は通達を閉じた。
「王国軍本隊が出る。王国所属Sランククランは、全て招集対象だ」
広間の奥で、いくつかのクランが立ち上がった。
銀翼の剣も、その中にいた。
白銀の紋章を胸に付けた冒険者達が、表情を引き締める。彼らは王国有数のSランククランだ。こういう時、最前線へ出る側だった。
「対象は黒龍の進行阻止。可能なら討伐。王国軍が第一防衛線を張り、Sランククランは前線および遊撃に入る」
ギルド長は続ける。
「Aランククランは第二防衛線へ入れ。避難誘導、負傷者搬送、二次被害防止。第一防衛線が崩れた場合の受け止めも含む」
職員が名簿を読み上げていく。
いくつものクラン名が呼ばれた。
その中に、獅子の咆哮の名もあった。
同じ頃。
獅子の咆哮本部では、会議室に主要メンバーが集められていた。
団長のアクセル。
副団長のレオン。
幹部のアメリア。
ガルド。
そして、シャーロット。
机の上には、東方一帯の地図が広げられている。
レオンが、届いたばかりの通達を読み上げた。
「アルムガルド城塞区画に黒龍出現。王国軍本隊出撃。Sランククランは第一防衛線へ。Aランククランは第二防衛線および避難支援に配置」
アクセルが腕を組む。
「黒龍か」
その声は低かった。
ガルドも黙っている。
いつもの軽口が出ない。
アメリアは地図の東側へ目を走らせた。
「第一防衛線は王国軍とSランククラン。銀翼も出るわ」
その名前に、シャーロットの指先が地図の端で止まった。
「……前線に、銀翼が」
声に出してから、すぐに口を閉じる。
アメリアは一瞬だけ彼女を見たが、深くは触れなかった。
「私達は第二防衛線。主街道は王国軍が押さえるはずだから、民間の避難民は南側と北側へ流れる可能性が高いわ」
レオンが地図に駒を置いていく。
「南の旧街道には橋が二本あります。片方は狭く、荷馬車が詰まりやすい。北側農道は森が近いので、小型魔物が流れ込む危険があります」
「負傷者の搬送路も南へ寄るかもしれないわね」
アメリアが言う。
「主街道が軍で埋まれば、担架や民間人は旧街道へ回される」
シャーロットは地図を覗き込んだ。
黒龍の出現地点。
半壊した城塞。
避難中の村。
細い橋。
森沿いの道。
そこに、逃げる人の列を思い浮かべる。
指先が少し冷えた。
「私は、南の旧街道に入ってもいいですか」
アメリアが顔を上げる。
「自分でそこを選ぶの?」
「はい」
シャーロットは地図の橋を指した。
「橋が詰まったら、後ろの人が逃げられません。森側から魔物が出るなら、早く気づけた方がいいと思います」
「探知と結界で、避難路を支えるつもりね」
「はい」
シャーロットは、腰の星脈晶のヴェガに触れた。
「前線には出ません。でも、道は守れます」
ガルドが片眉を上げる。
「言い切ったな」
シャーロットは少しだけ息を吸った。
「……怖いです。でも、そこなら私にできます」
アメリアは頷いた。
「分かった。南の旧街道、橋周辺の支援を任せる。ただし、無理な広域探知は禁止。十キロ級は幹部判断なしで使わないこと」
「はい」
「返事が一瞬遅いぞ」
ガルドが言った。
シャーロットは小さく目を伏せる。
「ちゃんと守ります」
「信用してねえわけじゃない。お前は守るためなら、自分の分を勘定から外すから言ってる」
「外しません」
シャーロットはヴェガから手を離した。
「今回は、ちゃんと数えます」
ガルドは少しだけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「ならいい」
アクセルが地図の中央へ手を置いた。
「第二防衛線だからといって、安全圏じゃない。第一が崩れれば、黒龍が来る。避難民が多ければ混乱も起きる」
全員の視線が集まる。
「俺達の仕事は、黒龍を討つことだけじゃない。避難民を一人でも多く生かす。負傷者を運ぶ。防衛線を支える。後ろを守るぞ」
「班分けを出します」
レオンが書類を広げる。
「前衛は避難路周辺の魔物排除。後衛は負傷者対応。魔法部隊は防護結界と通信補助。食料、水、毛布、応急薬も準備します」
「軽食と水袋は多めに」
アメリアが続ける。
「子どもと高齢者が混じるはずよ。担架だけじゃ足りない。馬車の手配も」
「了解」
レオンがすぐに書き足す。
シャーロットは地図の南側を見ていた。
星帽ポラリスの内側で、探知補助の魔導糸がわずかに震える。
まだ遠すぎて、黒龍の気配は拾えない。
それでも、通達に書かれた被害の大きさだけで、喉が固くなった。
アメリアが声を落とす。
「怖い?」
シャーロットは迷った。
強がるべきか。
平気だと言うべきか。
でも、出発前に嘘をついても仕方がない。
「怖いです」
短く答える。
「龍は、怖いです。……でも、逃げる人の道がなくなる方が、もっと怖いです」
アメリアは地図から手を離した。
「なら、その怖さは持っていきなさい。捨てなくていいわ」
ガルドが肩を回す。
「怖くないって言ったら、俺が止めてた」
「ガルドさんが?」
「お前が怖がらない時は、大抵、自分の危険を数えてねえ時だからな」
シャーロットは少しだけ考えた。
「では、怖いので大丈夫です」
「変な言い方だが、まあいい」
ガルドが苦笑する。
アクセルが立ち上がった。
「獅子の咆哮、全体招集。三十分以内に出る」
その声で、会議室の空気が切り替わる。
レオンが書類を持って走り出し、アメリアが補給班へ指示を飛ばす。ガルドは大剣の点検へ向かい、アクセルは出撃準備のため扉を開けた。
シャーロットも立ち上がる。
「シャーロット」
アメリアが呼び止めた。
「南の旧街道に入るなら、星杖シリウスも持っていきなさい。使うかどうかは現地で判断」
シャーロットは一瞬だけ目を伏せた。
星杖シリウス。
大型術式用の杖。
使わずに済むなら、それが一番いい。
けれど相手は、竜ではない。
龍だ。
「はい。持っていきます」
自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚いた。
会議室を出ると、廊下はすでに慌ただしかった。
団員達が装備を運び、水袋を積み、応急薬の箱を確認している。誰も無駄口を叩いていない。足音だけが重なっていた。
シャーロットは自室へ戻り、布に包んでいた星杖シリウスを手に取った。
背に負う。
肩に、ずしりと重みが乗った。
腰のヴェガを確かめる。
星帽ポラリスのつばに触れる。
星衣リゲルの袖を、一度だけ握る。
「……行きます」
小さく呟いて、扉を開けた。
廊下の向こうで、ガルドが待っていた。
「遅いぞ」
「すみません」
「謝るところじゃねえ。持ったか」
「はい」
ガルドは星杖シリウスを見て、短く頷いた。
「なら行くぞ」
「はい」
外へ出た瞬間、東からの風が吹いた。
まだ遠いはずなのに、焦げた匂いが混じっている。
シャーロットは足を止めなかった。




