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第6節 見えない功績

ソフィアがまとめた報告書は、最初、医務室の責任者の机に置かれた。


表題は硬い。


『低ランク帯負傷増加に関する過去記録確認』

『シャーロット在籍時の現場支援記録について』


医務室の責任者は、それを読んだ時、最初は眉をひそめた。


「シャーロット……ああ、先日除名された攻撃魔法使いか」


「はい」


ソフィアは背筋を伸ばして立っていた。


「最近の負傷者増加と、過去の低ランク帯記録を照合しました。単純に治療人数が増えたというより、以前なら怪我に至らなかった場面が、今は怪我として医務室に届いている可能性があります」


「怪我に至らなかった場面、か」


責任者は報告書をめくった。


そこには、ソフィアが拾い上げた記録が並んでいる。


Dランク部隊、森依頼。

シャーロット同行。撤退路確認済み。負傷者なし。


新人混成班、初級廃坑調査。

シャーロット補助。危険反応により調査中断。全員帰還。


低ランク護衛任務。

シャーロット支援。魔物進路変更により接敵回避。依頼達成。


訓練記録。

魔法使い一名、詠唱不安定。シャーロット補助により暴発なし。継続訓練可。


負傷記録ではない。


治療記録でもない。


けれど、医務室の責任者は読めば読むほど、そこに医務室の影を見た。


本来なら運ばれてきたかもしれない怪我人。

本来なら使われたかもしれないポーション。

本来なら長期休養になったかもしれない新人。

本来なら魔力回路を焼いたかもしれない魔法使い。


それらが、記録上は「何も起きなかった」ことになっている。


「……これを、よく拾ったな」


責任者が言う。


「最近、負傷者の方々が同じようなことを口にしていました。前はここまで悪化しなかった、と。前は帰れていた、と。そこから気になって」


「シャーロットの名が多かった?」


「はい。主記録ではなく、備考欄や同行欄に」


責任者はしばらく黙っていた。


医務室に届くのは、壊れた後の人間だ。切り裂かれた皮膚、折れた骨、乱れた魔力回路、尽きた魔力、恐怖で浅くなった呼吸。治療担当はそれを受け取り、できる限り戻す。


だが、ソフィアの報告書には、その手前が書かれていた。


壊れなかった記録。


それは、医務室にとって最も見えにくい功績だった。


「管理部へ回す」


責任者は報告書を閉じ、低い声で言った。


「ただし、このままでは幹部会議で流される可能性がある。数字も添えろ。シャーロット同行時と非同行時の負傷率、撤退成功率、ポーション消費、装備破損。比較できる形にする」


「はい。すでに途中までまとめています」


ソフィアが差し出した追加資料を見て、責任者は目を細めた。


「準備がいいな」


「治療中に、同じ怪我が増えているのが気になっていましたから」


その声は静かだったが、芯があった。


数日後、管理部の一角で、ソフィアの資料は改めて広げられた。


管理部の職員達は、最初こそ戸惑っていた。医務室から上がってきた報告書が、単なる負傷者数の増加ではなく、過去の現場支援記録に踏み込んでいたからだ。


「シャーロット同行時のDランク依頼成功率……高いな」


「負傷者数も少ない。いや、これ、依頼難度が低かっただけじゃないのか?」


「同程度の依頼で比べています。森の採取護衛、初級廃坑調査、低ランク護衛、街道警戒。条件は完全一致ではありませんが、傾向はかなりはっきりしています」


ソフィアは淡々と答えた。


管理職員が別紙を見た。


「ポーション消費も少ない。現地処置で済んでいる例が多いですね」


「現地処置の前に、負傷そのものが少ないです」


「装備破損も?」


「少ないです。撤退時の転倒や、盾の無理な受け方が少なかったと考えられます」


「なぜ攻撃魔法使いの同行で装備破損が減るんだ?」


職員の一人が呟く。


ソフィアは古い記録を指差した。


「この報告では、盾役の腕の疲労に気付いて配置を変更しています。こちらでは、足場の悪い道を避けています。こちらでは、魔物との接敵前に進路を変えています。攻撃して倒したのではなく、壊れる状況に入らないよう調整しているんです」


職員達は黙った。


数字だけ見れば、低ランク帯の事故増加だった。


だが、その数字を過去と照らすと、別のものが見えてくる。


以前は、事故が少なかったのではない。事故になる前に、誰かが潰していたのだ。


「だが、シャーロットはE評価だったはずだ」


管理部の中年職員が言った。


「評価表では、攻撃魔法使いとしての成果が低い。高危険度個体への有効打、討伐実績、前線での攻撃貢献が不足。だから再評価対象になり、最終的に除名になった」


「その評価表には、撤退成功率への寄与は入っていますか?」


ソフィアが聞いた。


中年職員は言葉に詰まった。


「低ランク帯の生存率は?」

「新人の定着率は?」

「ポーション消費削減は?」

「装備破損の予防は?」

「魔力暴発の防止は?」

「危険個体との接敵回避は?」

「恐慌状態の抑制は?」


質問が一つ増えるたび、管理部の空気が重くなった。


評価表にない。


少なくとも、攻撃魔法使いとしての評価欄にはない。


あったとしても、補助的な備考扱いだ。


「……攻撃魔法使いとして見るなら、数字になりにくい」


職員の一人が呟いた。


ソフィアは頷いた。


「でも、現場の損耗には大きく影響しています」


資料の上に、沈黙が落ちる。


その時、古参の冒険者が管理部の入口に立っていた。ソフィアに呼ばれていたのだ。現場証言として。


「俺達も、ちゃんと分かってたわけじゃない」


古参はゆっくり口を開いた。


「ただ、シャーロットがいると帰れた。新人が泣きそうになっても、声をかけて落ち着かせてた。盾役が崩れそうになると、いつの間にか立て直してた。魔法使いが暴発しかけると、息を吐けって言ってた。撤退する時には、もう道ができてた」


「道ができていた?」


管理職員が聞く。


「ああ。魔物の進路がずれてる。足場が少し安定してる。後衛の前に薄い結界がある。怪我人を運ぶ時、邪魔な魔物が来ない。そういうのが、当たり前みたいにあった」


古参は少し苦い顔をした。


「当たり前じゃなかったんだな」


誰もすぐには答えなかった。


管理部の紙の上では、数字が並んでいる。


負傷率上昇。

ポーション消費増加。

装備破損増加。

撤退失敗増加。

新人定着率低下。

中堅救援出動増加。

高難度依頼延期。


それらは、今まで見えなかった穴の形だった。


シャーロットが抜けた穴。


けれど、それを認めるのは簡単ではない。


なぜなら認めた瞬間、銀翼の剣は自分達の評価が間違っていたことを認めなければならないからだ。


E評価。

役立たず。

攻撃魔法使いとして成果不足。

餞別として渡した古いローブ、歪んだ帽子、濁った魔石のワンド。

最低限の部屋。

最低限の給料。

最低限の扱い。


そんな待遇で十年間使い続け、最後には不要として切り捨てた相手が、実は銀翼の土台を支えていた。


管理部の職員達は、そこまで言葉にはしなかった。


だが、誰もが少しずつ気付き始めていた。


「この資料は幹部会議へ上げる」


中年職員が言った。


声は硬かった。


「ただし、表現は慎重にする。シャーロット一名にすべてを結び付けるのは危険だ」


「ですが」


ソフィアが口を開きかけると、職員は手を上げた。


「分かっている。無視はしない。だが、幹部達は感情論として受け取る可能性がある。数字で出す。シャーロット在籍時と離脱後の比較。低ランク帯の安定性。医務室負担。修理費。救援出動数。それで示す」


ソフィアは唇を結び、頷いた。


「お願いします」


報告書は、幹部会議へ上がった。


だが、そこでの反応は鈍かった。


「シャーロット?」


幹部の一人が、資料をめくりながら首を傾げた。


「誰だ」


「先日、E評価で除名した攻撃魔法使いです」


「ああ……いたな」


その程度の反応だった。


別の幹部が資料を読み、鼻を鳴らす。


「低ランク帯の事故増加を、除名者一人に結び付けるのは飛躍ではないか?」


「医務室と管理部の比較資料では、彼女の同行記録がある時期の損耗が明らかに低い傾向にあります」


「低ランク帯の依頼は変動が多い。偶然だろう」


「ですが、撤退成功率、負傷率、ポーション消費、装備破損、複数項目で同じ傾向が」


「つまり、その者は補助役としては多少使えたということか」


その言葉に、ソフィアは拳を握った。


多少。


報告書の中にある無数の「全員無事帰還」が、その一言で片付けられようとしていた。


幹部長は資料を読みながら、冷たく言った。


「仮に低ランク帯の支援に一定の効果があったとしても、彼女は攻撃魔法使いとして評価基準を満たしていなかった。組織の等級制度は維持されなければならない。個別の例外を大きく扱いすぎると、評価制度そのものが揺らぐ」


誰も反論しなかった。


いや、反論できなかった。


幹部会議は、そういう場所だった。


数字を見ているようで、実際には制度を守っている。現場の揺らぎよりも、評価表の整合性を優先する。そこに名前のない功績は入り込めない。


「低ランク帯への支援担当を増やせ」


幹部長は結論を出した。


「新人教育の補助、撤退判断の講習、装備点検の徹底。必要なら外部講師も検討する。ただし、除名処理の見直しはしない」


ソフィアは静かに目を伏せた。


届かなかった。


いや、完全に届かなかったわけではない。支援担当を増やすという判断は出た。撤退判断や装備点検にも目が向いた。だが、彼らはまだ分かっていない。


シャーロットがやっていたことは、担当を一人増やせば埋まる穴ではない。


回復、結界、撤退支援、探知、魔物誘導、新人教育、応急処置、魔力調整。


それらを別々に分ければ、代わりはいるかもしれない。


治療できる者はいる。

結界を張れる者もいる。

探知ができる者もいる。

新人教育の教官もいる。

撤退判断を教える者もいる。


だが、それらを同時に見て、戦場の流れそのものを整えていた人は、もう銀翼にはいない。


会議が終わった後、ソフィアは廊下で古参とすれ違った。


「どうだった?」


古参が聞く。


ソフィアは少しだけ首を振った。


「資料は受け取られました。でも、分かってもらえたかは……」


「そうか」


古参は苦い顔をした。


「上は、自分達が捨てたものをすぐには見られないだろうな」


ソフィアは何も言えなかった。


その日の夕方、医務室にはまた負傷者が運ばれてきた。


Dランク部隊の撤退遅れ。

前衛一名、肩の裂傷。

魔法使い一名、魔力切れ。

補助役一名、転倒による捻挫。


ソフィアは処置をしながら、報告書の一文を思い出していた。


『シャーロット同行。全員無事帰還』


たった一行。


けれど、今はその一行がどれほど重いものだったか分かる。


「大丈夫です。まず出血を止めます。息をゆっくり吐いてください」


ソフィアは負傷者に声をかけた。


その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


息を吐いてください。


古参が言っていた、シャーロットの言葉。


負傷者の呼吸が、少し落ち着いた。


ソフィアは静かに治療を続けた。


彼女は治癒術師だ。


傷を治すことができる。


だが、今の銀翼に必要なのは、それだけではない。


壊れた後に治すだけでは、間に合わない。


壊れる前に支える誰かが必要だった。


そして、その誰かを、銀翼の剣は自分達の手で追い出してしまった。


その事実は、まだ幹部達の胸には届いていない。


けれど現場には、少しずつ染み込み始めていた。


シャーロットがいたから、帰れていた。


その言葉が、医務室から、訓練場へ、低ランク部隊の控室へ、静かに広がっていった。

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