第5節 これは治療記録ではない
ソフィアは、それから数日間、治療の合間に過去の記録を読み続けた。
医務室は忙しい。新人の擦り傷、Dランク部隊の打撲、魔力切れ、撤退時の転倒による捻挫、魔物の爪による裂傷。治療が途切れることは少なかった。けれど、少しでも手が空くと、彼女は記録棚へ向かい、古い依頼報告書を開いた。
最初は、医務室に関係する記録だけを見ていた。
負傷者数。
処置内容。
ポーション使用数。
医務室搬送の有無。
復帰までの日数。
だが、すぐにそれだけでは足りないと分かった。
シャーロットの名前は、治療欄にはあまり出てこない。出てきても「応急処置」「軽度回復」「医務室搬送前処置」程度だ。大きな治療をした記録ではない。
けれど、依頼全体の備考欄に、彼女の名前は何度も出てきた。
『シャーロット同行。撤退路確認済み』
『シャーロット補助。危険反応により進路変更』
『シャーロット訓練参加。新人班、恐慌状態なし』
『シャーロット支援。負傷者一名、現地処置後帰還』
『シャーロット判断により接敵回避』
『シャーロット指示。隊列崩壊なし』
ソフィアは、何枚も何枚も記録を並べた。
そして気付いた。
シャーロットがいる記録は、派手ではない。
大型魔物を討伐した、という行は少ない。高危険度個体に決定打を入れた、という記録も目立たない。攻撃魔法で敵を一掃した、という武功もほとんど残っていない。
けれど、負傷者が少ない。
重傷者が少ない。
撤退失敗が少ない。
ポーション消費が少ない。
装備破損が少ない。
新人の離脱が少ない。
「……これは、治療記録として読んではいけないんだ」
ソフィアは、机の上に広げた紙を見つめながら呟いた。
治しているのではない。
その前で止めている。
傷が開く前に、攻撃を逸らしている。
魔法が暴発する前に、呼吸を整えさせている。
撤退不能になる前に、道を選ばせている。
恐怖で固まる前に、声を通している。
危険個体とぶつかる前に、進路を変えている。
医務室に来るはずだった傷が、医務室へ来る前に消されている。
ソフィアは、背筋に薄い震えが走るのを感じた。
傷を塞ぐのは難しい。命を繋ぐのも難しい。乱れた魔力回路を整えるのも、深い裂傷を塞ぐのも、決して簡単なことではない。
けれど、もっと難しいことがある。
怪我をさせないこと。
それは、記録に残りにくい。
称賛もされにくい。
けれど、本当は何より価値がある。
「ソフィア、まだ記録を読んでいるのか?」
声をかけてきたのは、先日話した古参の冒険者だった。片手に薬草茶を持ち、医務室の入口に立っている。
「はい。気になるんです」
「シャーロットのことか」
「はい」
ソフィアは一枚の報告書を手に取った。
「この依頼、現在の基準ならかなり危険です。Dランク部隊が森の奥に入りすぎています。でも、負傷者は軽傷一名だけ。撤退も成功しています。備考には、シャーロットさんが進路変更を提案した、とあります」
「ああ、そんなこともあったな」
「こちらの廃坑調査もです。洞窟鼠の群れに遭遇する前に撤退しています。記録上は“危険反応あり、調査中断”。失敗扱いではありません。むしろ損耗なしで戻っています」
「シャーロットは、引き際を見るのが上手かった」
「それだけではありません」
ソフィアは別の紙を重ねた。
「新人班の訓練記録です。魔法使いの詠唱不安定、盾役の足運び不良、補助役の判断遅れ。今なら事故に繋がっている内容です。でも、当時は“補助により改善傾向”。その後の負傷記録も少ない」
古参はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり椅子に座る。
「そう言われると、確かにそうだな」
「皆さん、当時は気付いていなかったんですか?」
ソフィアの声に責める響きはなかった。ただ、不思議だった。
古参は苦笑した。
「気付いていた奴もいたと思う。ただ、言葉にできなかったんだろうな。あいつがいると楽だった。あいつがいると、なんか事故が少なかった。あいつがいると、新人が落ち着いた。それくらいの感覚だった」
「それは、とても大事なことです」
「今なら分かる」
古参は薬草茶の湯気を見つめた。
「でも、あいつはいつも普通の顔をしてたからな。大きな手柄みたいに言わなかった。誰かが無事に帰ると、よかったですねって笑って、それで終わりだった」
ソフィアは記録へ視線を戻す。
そこにあるのは、短い備考ばかりだ。
シャーロット同行。
シャーロット補助。
シャーロット判断。
シャーロット応急処置。
一つ一つは小さい。
けれど、積み上げると、とんでもない量になる。
「古参さん」
「なんだ?」
「シャーロットさんは、どんな方だったんですか?」
古参は少し考えた。
「明るい子だったよ。いつもにこにこしてた。怒っているところはあまり見たことがない。低ランクの連中にも普通に話しかけて、失敗しても責めなかった。けど、危ない時は声が通った」
「声が通った?」
「ああ。戦場でな、誰かが恐怖で固まることがあるだろ。そういう時、怒鳴ると余計に固まる。でもシャーロットの声は違った。落ち着いているのに、聞こえるんだ」
古参は少し目を細めた。
「“下がりましょう”って言われると、下がれる。“息を吐いてください”って言われると、息ができる。“大丈夫です、帰れます”って言われると、本当に帰れる気がした」
ソフィアは、胸の奥が少し痛くなった。
医務室でも、同じだ。
怪我人は、痛みだけでなく恐怖を抱えている。大丈夫だと分かる声があるだけで、呼吸が整うことがある。治療そのものの前に、人を落ち着かせる声が必要になる。
シャーロットは、それを戦場でしていたのだ。
「記録では、攻撃魔法使いとあります」
ソフィアは言った。
「そうだな」
「でも、ここに残っているのは、攻撃魔法使いの記録だけではありません」
「そうだな」
「回復、結界、撤退支援、探知、魔物誘導、新人教育、応急処置、魔力調整。全部出てきます」
「ああ」
「これ、一人でやっていたんですか?」
古参は、すぐには答えなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
ソフィアは深く息を吸った。
「これは……怪我を治した記録ではありませんね」
古参が顔を上げる。
ソフィアは続けた。
「応急処置や簡単な回復の記録はあります。でも、中心はそこではありません。怪我を治した記録ではなく、怪我が起きる前に状況を変えた記録です」
彼女は記録を一枚ずつ指差した。
「この撤退支援。これがなければ、医務室に重傷者が来ていたかもしれません」
「この危険個体の回避。接敵していたら、討伐記録か負傷記録になっていたはずです」
「この魔力調整。暴発していたら、本人だけでなく周囲も怪我をしています」
「この新人教育。失敗が事故になる前に、癖を直している」
ソフィアの声は、少しずつ熱を帯びていった。
「この人は、怪我人を治していたんじゃない」
医務室の空気が静かになる。
治療台にいた負傷者達も、いつの間にか耳を傾けていた。
ソフィアは、古い記録の上に手を置いた。
「怪我人が出ないように、戦場そのものを整えていたんです」
その言葉は、医務室の中に静かに落ちた。
古参は目を伏せた。
「……そうかもしれないな」
「そうです」
ソフィアははっきり言った。
「治療記録として読むから見誤るんです。これは、誰かが壊れてから直した記録ではありません。壊れる前に支えた記録です。だから見えにくい。だから数字になりにくい。でも、今こうして壊れ始めたから、逆に見えてきた」
その時、医務室の入口で別の冒険者が呟いた。
「シャーロットがいたからな」
ソフィアは振り返る。
その冒険者は、Dランク部隊の班長だった。腕に包帯を巻き、治療待ちで壁にもたれていた。
「前は、何で帰れてたのか分からなかった。でも今なら分かる気がする。あの人がいたから、俺達は失敗する前に止まれてたんだ」
別の新人が小さく言う。
「シャーロットさん、攻撃魔法使いの方ですよね?」
古参が答えた。
「ああ。攻撃魔法使いだ」
そして、少しだけ苦く笑う。
「攻撃以外も、全部やってた」
誰も笑わなかった。
冗談のような言葉だった。
けれど、今の医務室では、誰もそれを冗談として受け取れなかった。
ソフィアは、記録をもう一度見た。
攻撃魔法使い、シャーロット。
低評価で除名された人。
けれど、その人の名前は、銀翼の低ランク帯の安全記録に、何度も何度も残っている。
大きな手柄としてではない。
備考として。補助として。同行者として。見えない支援として。
だから、幹部達は見なかった。
けれど、現場は覚えていた。
完全ではなくても。言葉にならなくても。名前を思い出すのが遅れても。
「あの人がいた時は、帰れていた」と。
ソフィアは記録を閉じた。
そして、新しい紙を一枚取り出した。
「何を書くんだ?」
古参が聞く。
「まとめます」
「誰に?」
「まずは医務室の責任者に。それから、必要なら管理部にも」
「幹部に上げるつもりか?」
ソフィアは少しだけ迷った。
幹部達が聞くかどうかは分からない。数字しか見ていない者達に、起きなかった事故の価値が伝わるかどうかも分からない。
それでも、書かなければならないと思った。
「治療記録だけでは、今起きていることを説明できません。負傷者が増えた理由を見るには、負傷しなかった過去も見ないといけません」
古参は静かに頷いた。
「頼む」
ソフィアはペンを取った。
紙の最初に、こう書く。
『低ランク帯負傷増加に関する過去記録確認』
少し考えて、その下に続けた。
『シャーロット在籍時の現場支援記録について』
ペン先が止まる。
彼女はもう一度、古い報告書を見た。
『シャーロット同行。全員無事帰還』
たった一行。
今なら、その一行の意味が分かる。
ソフィアは静かに息を吐き、続きを書き始めた。
銀翼の剣が失ったものは、治療の手数だけではない。
攻撃魔法使い一人分の火力でもない。
戦場全体を見て、人が壊れる前に支えていた存在。
その欠落が、今、医務室のベッドの数となって現れているのだ。




