第4節 治癒術師ソフィア
ソフィアが銀翼の剣に採用されたのは、医務室の負担が目に見えて増え始めた頃だった。
年齢は若い。だが、治癒術師としての腕は確かだった。傷の深さを見る目があり、回復魔法を無駄に流し込まない。出血を止めるべき傷、骨を固定すべき怪我、魔力回路に負担が出ている症状。それらを丁寧に分け、患者に合わせて処置することができる。
「次の方、こちらへ。腕の傷ですね。先に出血を止めます。痛みますが、すぐ終わりますから」
医務室に運び込まれた新人が、不安そうに頷く。ソフィアは声を荒げず、淡い回復の光を傷口へ落とした。光は広がりすぎず、傷の縁だけを丁寧になぞる。裂けた皮膚が塞がり、血が止まる。
「これで大丈夫です。ただ、今日は訓練に戻らないでください。傷は塞がっていますが、腕の筋に負担が残っています」
「でも、戻らないと評価が……」
新人がそう言いかけると、ソフィアは手を止めた。
「治療後すぐに無理をして悪化させた方が、次の任務に響きます。休むのも仕事です」
その言葉に、新人は少し驚いた顔をした。
銀翼の医務室では、最近こういうやり取りが増えていた。怪我人は増えている。しかも、怪我を隠そうとする者が多い。ポーションの使用数を気にする者、装備破損の報告を怖がる者、撤退の遅れを責められることを恐れる者。
ソフィアは、それが気になっていた。
治癒術師として見るなら、傷を治すことが仕事だ。けれど、目の前に来る怪我人達は、治療だけでは片付かないものを抱えているように見えた。
「次は?」
「Dランク部隊の魔法使いです。魔力切れと、右手の火傷です」
「こちらへ」
運ばれてきた少年は、顔色が悪かった。右手には火傷。魔力回路も乱れている。無理に詠唱を続けたのだろう。ソフィアは火傷を冷やし、回復魔法を薄く当て、魔力の流れを落ち着かせる。
「どうしてここまで魔力を使ったんですか?」
「撤退中に、後ろから魔物が来て……止めないと、前衛が下がれなかったので」
「誰かに指示されましたか?」
「いえ。自分で判断しました。でも、前にいた時は……」
少年はそこで口を閉じた。
ソフィアは手を止めずに聞いた。
「前にいた時は?」
「いえ。何でもありません」
「話せる範囲で構いません」
少年は少し迷い、やがて小さく言った。
「前は、こうなる前に誰かが退路を見てくれていた気がします。後ろに魔物が回る前に、道を変えるとか、結界を置くとか。俺達が気付いた時には、もう逃げられる形になっていて……でも、誰がやってたのか、よく分からなくて」
まただ、とソフィアは思った。
誰かがいた。
前は違った。
ここまで悪くなる前に済んだ。
その言い方が、最近あまりにも多い。
処置が終わった後、ソフィアは医務室の奥にある記録棚へ向かった。銀翼の剣はSランククランだけあって、記録自体は多い。依頼記録、治療記録、訓練記録、装備破損記録。だが、整理の仕方には偏りがあった。
上位部隊の記録は詳しい。
誰が大型魔物に有効打を入れたか。どの部隊がどの依頼を成功させたか。貴族依頼でどう評価されたか。高難度個体の討伐に誰が貢献したか。
一方で、低ランク帯の記録は簡略化されていた。
『同行補助あり』
『撤退支援あり』
『軽傷者、現地処置後帰還』
『危険個体遭遇なし』
『訓練補助により継続可能』
その欄に、同じ名前が何度も出てくる。
シャーロット。
ソフィアは、その名前に指を止めた。
「また……」
一枚目には、Dランク部隊の森依頼。備考欄に、シャーロット同行。負傷者なし。撤退路確認済み。
二枚目には、新人混成班の初依頼。シャーロット訓練補助。軽傷者一名、現地処置後医務室確認。継続可能。
三枚目には、低ランク護衛任務。シャーロット支援。魔物進路変更により接敵回避。依頼達成。
四枚目には、廃坑調査。シャーロット同行。洞窟鼠の群れを事前察知。撤退成功。負傷者なし。
治癒術師の記録ではない。
少なくとも、ソフィアの知る治癒術師の仕事ではない。
現地処置はある。応急回復もある。だが、それ以上に目立つのは、怪我をする前の記録だった。危険個体に会わなかった。撤退が早かった。隊列が崩れなかった。負傷者が少なかった。
治した数ではなく、壊れなかった数。
ソフィアは眉をひそめた。
「この人……何をしていたんですか」
その呟きに、背後から声が返った。
「シャーロットか?」
振り返ると、医務室に古参の冒険者が立っていた。腕に古い傷跡があり、銀翼に長くいる者特有の疲れた目をしている。
「ご存じなんですか?」
「まあな。昔から低ランク連中のところに、よく顔を出してた」
「記録には攻撃魔法使いとあります」
「ああ。そうだな」
古参は苦笑した。
「でも、記録を見ていると、回復も、結界も、撤退支援も、探知もしています。訓練補助も多いです。これは……」
ソフィアは言葉を探した。
「治癒術師の記録ではありません」
「だろうな」
「でも、攻撃魔法使いの記録にも見えません」
古参はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「あいつは、現場を見てたんだよ」
「現場を?」
「誰が怖がってるか。誰の足が止まりそうか。どの魔物が危ないか。どの道なら戻れるか。魔法使いが詠唱を焦ってないか。盾役が腕を庇ってないか。そういうのを、ずっと見てた」
ソフィアは記録に目を落とす。
書かれていることは断片的だった。
だが、古参の言葉を聞くと、断片が繋がり始める。
『魔法使い一名、詠唱不安定。シャーロット補助により暴発なし』
『盾役、左腕疲労。シャーロット指示により配置変更』
『撤退路確保。負傷者搬送成功』
『危険魔力反応あり。進路変更。接敵なし』
『新人班、恐慌状態なし。全員帰還』
ソフィアの指が、記録の上で止まった。
「……怪我人が少ない」
「そうだな」
「重傷者も、今よりずっと少ないです」
「そうだったかもな」
「撤退成功率が高い。ポーション消費も少ない。現地処置だけで済んでいる例が多い。でも、治療記録としては目立っていない」
古参は肩をすくめた。
「怪我をしなきゃ、医務室の記録には残らんからな」
その一言に、ソフィアは息を呑んだ。
怪我をしなかった。
だから記録に残らない。
重傷にならなかった。
だから数字に出ない。
魔物と会わなかった。
だから討伐記録にならない。
撤退できた。
だから失敗として扱われない。
シャーロットという人物の功績は、起きなかった事故の中にあった。
「……そんなの、見えないじゃないですか」
ソフィアの声は、小さかった。
「そうだな」
古参は静かに言った。
「だから、誰もちゃんと見なかったんだろうな」
ソフィアは記録を閉じなかった。
むしろ、さらに奥の棚から古い依頼記録を取り出した。シャーロットが在籍していた頃の低ランク部隊の記録。新人訓練。Dランク依頼。森、廃坑、街道、護衛、採取。
名前は目立たない場所にある。
けれど、何度もある。
シャーロット。
シャーロット。
シャーロット。
「この人は、どうして評価が低かったんですか」
ソフィアは思わず聞いた。
古参は困ったように笑った。
「攻撃魔法使いとしての成果が少なかったから、らしい」
「攻撃魔法使いとして?」
「上の評価ではな」
「でも、これだけ現場を支えていたなら」
「評価表には、あまり載らなかったんだろう」
ソフィアは、唇を結んだ。
治癒術師として、彼女は傷を見る。
裂けた皮膚。折れた骨。乱れた魔力回路。失われた血。痛みに歪む顔。
それらは分かりやすい。
治せば感謝される。記録にも残る。誰が何をしたか、数字にもなる。
けれど、傷ができる前に止めた人はどうなるのか。
撤退不能になる前に道を作った人は。
恐怖で詠唱が暴発する前に声をかけた人は。
盾が壊れる前に気付いた人は。
魔物に遭遇する前に進路を変えた人は。
その人の功績は、どこに記録されるのか。
ソフィアは、古い報告書の備考欄を見つめた。
そこには短く、こう書かれていた。
『シャーロット同行。全員無事帰還』
たった一行。
けれど、その一行の重さが、今なら分かる気がした。
「……私、もう少し調べます」
ソフィアが言うと、古参は静かに頷いた。
「調べてやってくれ」
「はい」
「たぶん、あいつのやってたことを一番分かるのは、治す側の人間かもしれない」
「どういう意味ですか?」
古参は医務室を見回した。
包帯。薬瓶。治療台。疲れた負傷者達。
「ここに運ばれてこなかった怪我人の数を、想像できるだろ」
ソフィアはすぐには答えられなかった。
治療記録にない負傷者。
つまり、負傷しなかった人達。
その数を、記録から逆に読む。
それは、治癒術師だからこそ気付ける視点かもしれなかった。
ソフィアはもう一度、古い記録を開く。
シャーロットという名前を追いながら。
その日から、彼女は治療の合間に過去記録を読み始めた。
治すためではなく。
なぜ、以前はここまで壊れなかったのかを知るために。




